リンディ=フォン・リードザッハ①
8歳の頃。
母と出かけた私を暴漢が襲ったことがあった。
突然の事態に慌てふためいてその時の記憶は曖昧だが、確かに覚えていることがあった。
一つ母が懸命に私を守ろうとしていてくれたこと。
もう一つは、さっそうと現れた父がナイフを持った暴漢を素手で制圧したこと。
暴漢を取り押さえている後、何とか逃れようとした暴漢を見て、興奮状態だった周囲にいる憲兵が剣を引き抜き暴漢を始末しようとするのを見て父がその憲兵を殴り飛ばした後に、暴漢を足蹴にした。
そして、殴り飛ばした憲兵に向かって言った。
「女、子供の前で無暗な殺生をするな! 変なトラウマを生んだらどうする!」
そう言って父は武器を持った暴漢に素手で立ち向かったせいで傷まみれだった。
だが、どれも掠り傷程度でひどいものはなかった。
暴漢も痣はできているようだが、死人や殺傷沙汰に放っていなかった。
周囲にいる人間に配慮して武器も持たずに暴漢をなぎ倒す父は尊敬と敬愛の対象だった。
お父様。すごい!
子供心に私は感動で胸がいっぱいになった。
だからだろうか・・・。
私の初恋の相手は父だった。
子供の頃、女の子の最初の恋人は父親だろう。
書物に書いてある物語でも、よく女の子は「大きくなったらパパと結婚する」という言葉を述べる。
私もそうだった。
ただ、私が人と違ったのは、大きくなるにつれて薄れていくその感情を持ち続けていたことだ。
14の頃。私より、7つも年下の妹が父親離れをし出すのを見て、「なぜ、あんなに素敵なお父様を嫌いになるのか」理解できなかった。
末娘として、蝶よ花よと育てられ、兄であるアレックスを溺愛している妹には父親は煩わしかったのだろうか。
その頃の私は、まだ私自身がファザーコンプレックスだという自覚すらなかった。
翌年、何気ない友人との会話で大半の人が「父親のことをあまり好きでないこと」を知った。
いや、好きでないという言い方は語弊が生まれるだろうか。
『結婚したいほど』魅力的に思っていないのだ。
貴族の子女が15歳になれば本格的に婚約・結婚の話が話題に上がる。
12歳から婚約者のいる者もいるが、それは基本的に『候補』であって決定ではない。
3年あれば貴族内でのパワーバランスや将来性の見通し、情勢の変化、一時的に不安定になる思春期時代の到来によって本人の性格も変わることがある。
そういった情勢の変化・趣向の動きや感情の発露によって最終的な婚約者を選んでいく。
無論、誰もが理想の相手を選べるわけではない。
何には政治的な理由から望まぬ結婚をする者もいるだろう。
男性側も、自分の理想の相手を求めて、また、自分の価値を少しでも高めるためにこれから最終的な試験がある。
人脈作りのための生温い下級学校ではなく、正式に武官・文官を目指すための学校だ。
武官・文官それぞれに上級学校があり、そこの最終成績に応じてそれぞれの将来が決まるのだ。
そんな儚くも春爛漫な年頃の少年少女の話題に、私はついていけなかった。
恋を知らず、憧れず、ただ父親を想う私には無縁な話だった。
だが、そこでようやく私は自分が普通でないことに気づいた。
否、知ってしまったという方が正しいだろう。
どうすればいいのかわからない。
父親でない男を愛することも恋することも理解できない。
貴族として培った英才教育も役に立たない。
一応、恋に対する『いろは』を調べたが私の欲しい情報はなかった。
父親と距離を置くことも考えたが、それでも胸の奥の感情は消えなかった。
さらに翌年。そんな私に縁談の話が持ち上がった。
お相手はこの国の王太子となられる男性。
だが、下級学校の成績は下から五本の指に入る程度の杜撰なオツムの持ち主だった。
そのくせ、下級学校時代から女性との噂が流れるような低俗な存在らしい。
おまけに、「貴族の総意としては王太子に相応しくないと廃嫡を望んでいるが、国王陛下は息子に甘い。故に、『上級学校で更生させるから待って欲しい』と言われている。そこで、すまないがお前には王太子殿下の婚約者となってもらいたい。」と父からそんな話が上った。
母親は激昂して父を怒鳴りつけ、それでも首を縦に振らない父を見て涙を流した。
父もとても嫌そうな顔をしていたが、どうやらそうせざるを得ない状況のようだ。
詳しいことはわからないが、他の婚約者候補に『勝って欲しい』と頼まれた。
もともと、父親という『叶わぬ恋の対象』に囚われていた私は快く快諾した。
そんな私を見て、父と母は涙を流しながら抱き着いてきた。
どうやら、私が貴族の子女としての義務感からそうしていると感じたらしい。
実際は、『結婚する気がないから都合がいい』という感情が大きかった。
廃嫡予定の王太子の婚約者になれば、下手に恋愛話を振られることもなく、恋人を自分で見繕う必要もない。
あとのことは廃嫡後に考える。
その間に父親が老け込んで禿げてくれれば、私のこの胸の閊えも取れるかもしれないという希望的観測もあった。
だから、全くと言っていいほど王太子の婚約者候補になることは問題がなかった。
両親が乗り気ではないので、変に気負う必要もなかった。
寧ろ、選ばれなかったら選ばれなかったで別の婚約者を見繕うのに困るけど。選ばれなくても困らない。
私にとってはその程度のことだ。
そして、王太子争奪戦に参戦後。
私は周りが王太子に媚びを売る中で、独り毅然に振舞うようにと声をかけた。
最初の印象から最悪だった王太子に媚びを売る気にならなかったし、更生してもらえるならばそれに越したことはない。
国王陛下もお喜びになることだろう。
王太子は婚約者候補を初めて見た時、まず体を眺める。
どうやらそちらが重要らしい。
そして、私の体をじっくり見た後で下卑た笑みで近づいてきた。
サイッテーな糞野郎だった。
更生する気など全くなく、なぜか夜の食事に誘われて「この後、部屋に来ないか?」と言われた。
自分の立場を理解していないらしい。
当然、丁重にお断りを入れる。
終いには「なぜ俺の誘いを断る?国母になりたくないのか?」などと、寝言を両目を開けたまま昼間にいうことが多々あるのだが、彼は病気なのだろうか?
自分の立場を理解していないどころか。
私が誘いを断ることを遠まわしに批判してきている。
だから私は、王太子に「成績が悪いと廃嫡になりますよ」と小言を言うのだが、「そんな馬鹿な話があるか」と彼は私の話を一蹴する。
どうやら彼と私は話す言語が違うらしい。
そうでなければ、王国の歴史を振り返る授業を受ければ、そういった前例がいくつもあることをこの国の学校に通う生徒が知らないはずがない。
私は彼との会話に飽き飽きしながらも、小言だけは言い続けるようにした。
そうしていると、なぜか私が正式な婚約者になっていた。
他の婚約者候補にいつの間にか勝っていたらしい。
王太子の周りにあまり小言を言う貴族の子女がいなかったので、私が珍しかったのだろうか・・・。
そう思っていた私はまだ彼のことをよく理解していなかった。
「グフフフ。これで、満足だろう? 今晩あたり・・・ どうだ?」
醜悪な下卑た視線で私の体を舐め回して彼はそう囁いた。
「死ねばいいのに・・・」
とは、さすがに口にしなかっただけ私は冷静だったのだろう。
呆れて溜息しか出なかった。
私は父経由でこのことを国王陛下に連絡した。
全く反省した様子のない王太子の情報を聞いて国王陛下は頭を抱えているそうだが、私には関係ない。
それから、ほんの一月後。
私は運命の出会いを果たした。
とある夜会に参加したある日のことだ。
その日は、久々に1人で夜会に参加することができた。
正式に王太子の婚約者になって以来、あの王太子が常にそばにいる状況が続いていたのでこれはうれしいことだ。
依然として王太子の態度は良くならない。
調べさせたところ。私が相手をしないことを理由に町で女の子を捕まえているらしい。
本当に懲りない男だ。
周囲が全く見えていない。
まぁ、おかげで今日は国王からそのことについて言及されることとなり、彼は夜会に参加できなかったので良しとしよう。
あの男と付き合うのももうしばしの信望だろう。
学業の方も依然として下から数えた方が早いという体たらくだ。
国王陛下の怒りも爆発寸前という噂もある。廃嫡が確定するのも時間の問題だろう。
「リンディ様。次の一曲。ご一緒できませんか?」
王太子廃嫡の噂と私が1人で夜会に訪れたことで今日はやけにダンスの誘いが多い。
さすがに、こう何度もやってこられてはさすがの私も疲れてしまう。
「フフフ。申し訳ありませんが、わたくし、先ほどから踊りっぱなしですの。ですので、少し休んでまいりますわ。」
そう言ってせっかくの申し出を断って私は広間を後にした。
壁の花になったところで、王太子の婚約者である私は嫌でも目立つ。
ならばいっそ、涼しい庭園を散歩した方がまだ疲労が少ない。
仲のいい友人や必要な人脈との対話は既に終わっている。
今日は夜風が涼しくて心地いい。
夜の庭園を散歩するのは悪くない気候だ。
「月明りは多いけど・・・ 雲がね・・・」
美しく整備された庭園を眺めながらゆっくりと歩く。
時々立ち止まるのは周囲を見るためでなく、月明かりが途切れて周囲が見えなくなるからだ。
今日は美しい満月で、夜だが散歩をするのに十分な月の光が降り注いでいる。
だが、天気はあまりよろしくない。
雲が多いせいか、やたらと月が雲に隠れることが多い。
そのため、私は周辺を眺めるように屋敷の周辺を歩くことに留めた。
足元が暗い庭園の中を歩くには光量が足らない。
遠くで護衛の人が焚いているであろう炎の灯が見えるが、木の陰に隠れてよく見えない。
もう少し大々的に焚いてくれれば十分な光量を確保出るのに、残念でならない。
そんな明るかったり暗かったりする不安定な照明の中を歩くのはいつもなら煩わしく感じ釣ろ頃かもしれないが、のんびりとしたい今の心境には適度な休息を与えてくれる。
王太子の廃嫡は時間の問題。
逆に言えば、王太子を利用した私の自由時間ももうすぐ終わる。
そうなったらどうすればいいのだろうか。
今度こそ、本物の恋を捜す?
それとも、独身を貫いて趣味に生きる?
どちらも私には無理そうだ。
前者は、父を超えるほどの漢がいない嘆きから、後者は貴族の子女としての役割から・・・。
貴族としての矜持と責任を捨てるほど、私の理性は壊れていない。
育ててくれた両親にも申し訳ない。
「ふぅ・・・ どうしましょうか・・・」
物思いに耽っていて私は気づかなかった。
木陰の陰から私に近づく刺客の気配に・・・
ガサリ
射程圏内に入った。
そう判断した刺客がバレるのを気にせずに飛び出してきた。
周囲に人影はない。私が叫び声を上げなければ殺されても気づくまでには時間を要するだろう。
一瞬、反応が遅れてしまったが、何とか初撃は回避した。
だが、そこから先が続かない。
大声を上げればいいのだが、刺客は空いているもう片方の手で私の首を掴んできた。
苦しい。声が出せない。
私は壁際に抑え込まれた私に向かい、刺客は短剣を高々と振りかざした。
こんなところで殺されてなるものか!くらえ!
咄嗟に私は金的を食らわせて何とか刺客の手から脱出した。
武門の娘として鍛えられたからこそ取れた行動力を称賛したい。
「ごほ・・・ごほ・・・」
しかし、先程まで喉を抑えられていたのですぐに声を出せない。
今のうちに逃げるか。それとも刺客を撃退するか。
どうするべきか一瞬、足が止まった。
振り返った先では刺客が刃をこちらに向けて近づいて来ていた。
その眼には明らかに怒気が含まれている。
逃げられない。
頭がうまく回らない。
変に考えてしまったことで体がうまく動かない。
どうすればいいのかわからない。
そんな私の戸惑いを他所に、刺客の放った刃は私の胸元に向かって一直線に向かって伸びてきた。
ドン!ガバ!
どうすることもできない私は、恐怖から逃れるために目を瞑った。
そして、刃がやってくるよりも早く背中に何かがぶつかり、抱きしめられた。
「・・・え?!」
急なことに驚いて目を見開こうとすると、どこからともなくやってきた手が私の目の前を覆った。
新しい刺客?
それとも警備の人?
何が起こっているのかわからない私の頭の上から声が響いた。
「目をつぶって動かないでください。すぐに他の警備員もやってきます。」
力強くも、優しい男の声だった。
その後、私の体から離れて行った男と入れ替わるように今度は女性の声が響いた。
「もう大丈夫ですよ! お怪我はありませんか?!」
その声を聴いて目を見開くと女性の騎士姿の女性が立っていた。
その後ろでは大きな熊のような大男が背を向けて立っていた。
地面には先ほどの刺客が倒れているがそれ以外のことはここからではわからない。
それから私は目の前にいる女性の質問に答えつつ、先程の声の持ち主であろう大男の背中を見つめる。
「犯人確保!」
「おいおい、大丈夫かその傷。」
他の警備員もやってきて気絶した刺客を縛り上げたり、負傷した大男の傷を見たりしている。
大男はこちらをチラチラと見ながら傷を見せにないようにしている。
ここでの治療も断っているようだった。
「しかしな。毒があったらどうするんだ?」
治療を嫌がる大男に怪我を見ている男はなぜ断るのか戸惑ったように尋ねた。
「いや、でも・・・ 女性や子供の前で怪我なんて見せれませんよ。変なトラウマが生まれたらどうするんですか。」
その言葉を聞いた瞬間のことだった。
私の頭の中に雷が落ちたかのような衝撃が走った。
奇しくも、男が先ほど言った言葉が、昔、父の言っていた言葉に似ていたからだろう。
こちらを窺うように大男は振り返ると隊員達と刺客を連れて離れるように促した。
どうやら、先程の刺客の短剣を腕に受けたらしく傷を負っているようだ。
周囲にそれほど血の跡がないのは、剣が刺さったままだからだろうか。
「あ・・・」
そのまま男たちは去って行ってしまった。
私はお礼も言えないままに女性隊員と共にその場を後にした。
後に、女性隊員から先ほど助けてくれた隊員の名前を聞くことができた。
彼の名前はデイビー=ダビットソン。
しがない商家の三男坊だそうだ。




