ただ生きていられることにありがとう
今を生きている。
ただそれだけで幸せだ。
「ふふっ。大丈夫大丈夫。」
始まりはこの言葉だった。
二年前、僕はバーテンダーをやっていた。
僕は人の話を聞くのが好きでよく客の仕事の愚痴や恋愛の愚痴を聞いていた。
時折頷きながら。そんな姿勢が受けたのか話を聞いてほしいと言う人が増えた。
誰しも聞き手が必要だったみたいだ。
そんなとき彼女は現れた。笑みを浮かべて。
気がつくと話を聞くはずの僕が彼女に向かって話をしていた。
「ごめんなさい。僕が話を聞くはずなのに。」
僕が謝ると彼女は笑いながら
「ふふっ。大丈夫大丈夫。」
誰しも甘えたいときがあるんだよ..と彼女は
独り言のように、自分に言い聞かせるように呟いた。
そして少し時をおき僕たちは付き合い始めた。
彼女とくだらない話をして笑い合う。
そんな幸せがずっと続くと思っていたんだ..。
仕事の休憩時間。
ヴゥーヴゥーと携帯電話が鳴った。
手に取り画面を確認。
すると彼女の会社の名前が映っていた。
「何だろう..何かあったのかな。」
僕の不安は当たっていたようで...
「..さんが倒れました。今病院に向かっています。」
そう告げた。彼女が倒れ..た?
僕はマスターに早退を告げ、早急に病院へ向かう。
急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ..焦る気持ちとは裏腹に信号は赤。
くそっ。乱雑な運転とともに病院の前にたどり着いた車を停め、走って彼女のもとへ。
彼女の会社の同僚らしき人が受付の辺りにいた。
「彼女は..彼女は無事なんですか!?」
「意識は戻りました。それと院長先生から少し話があるそうです。」
僕はほっと胸を撫で下ろした。
僕はありがとうございますと礼を言いぺこりと頭を下げた。
(話って何だろう..たぶん暫くは安静に。とかそういうことだろう。またすぐに元気になるさ!)などと僕は暢気に考えていたのだけれど..
「もってあと..一ヶ月です。それ以上はありません。」
院長先生は言った。
僕は暫くそこから動くことはなかった。
動けなかった。あまりにも唐突で。
信じられなくて..
彼女があと一ヶ月で死ぬなんて..
彼女の待つ病室へ向かう僕の足は
まるで枷がついたように。
泥沼にはまったように。
とてもとても重かった。
それでも僕は彼女のもとへ向かう。
きっといま彼女は不安だから。
心配しているから。
そんな彼女に言葉を伝えなきゃいけない。
僕は決心して扉を開けた。
扉を開いた先のベッドの上に彼女はいた。
こちらに気づくと手を振って微笑んできた。
いつものように。
「私はどうなってるの?あとどのくらいで元の生活に戻れるって?」
「大丈夫大丈夫。安静にしてれば数日で戻れるってさ。」
僕はこのとき初めて嘘をついた....。
彼女の笑顔を守るため。
僕は毎日病院に訪れ、
彼女が僕にそうしてくれたようにいつも笑顔で話をした。
話す内容は仕事のことだったり、昔の付き合い始めた頃の話だったり過去から現在までに至るいろんな話をした。
できる限りの笑顔で。
彼女に心配させたくないから。
彼女の前では笑顔で。
それ以外のところで泣いた。ひたすら泣いた。
病院で人のいないところを探すのが大変だった。
今日はどこで泣こうか明日はどこで泣こうかそんなことばかり考えていた。
そして数日が過ぎ..ついに終わりはきてしまう。
彼女の息は上がり苦しそうな顔をする。
最後に彼女はいつものように僕に笑顔で微笑んだ。
「大丈夫だいじょう..ぶ..」
彼女は眠りについた。長い長い眠りに。
僕はいつまでも彼女の手を握り続けていた。
彼女の命は結局一ヶ月も満たなかった..
『あなたは人生をやり直せるとしたらやり直しますか?』
小学校の授業でそんな質問をされたことがある。
そのときは右も左もわからなかった。
もちろんその質問の意味もよくわからなかった。
でも今ならわかる。言える。
その質問に対する答えを..
「No」と..
もしやり直すことができて彼女は生きているとする。
それはそれで幸せだと思う。
だけど僕の生きてきた人生はそんな簡単にやり直せるものじゃないし、彼女との時間は限りなく有限でかけがえのない大切なものだった。
彼女に出逢う確率は非常に少ないのだ。
何重億人もいるこの地球上で彼女と出逢えたことそれだけでも奇跡に近いだろう。
彼女が僕の前に現れなければ、
話し掛けなければ今日の僕はいなかった。
こんな僕を愛してくれてありがとう。
そしてただ生きていられることにありがとう。
彼女は現在も僕の胸の中で生き続けている。
宜しければ是非。