Fallen Angels(不可触天使ズ:utb 2nd)
halさんから素晴らしいイラスト貰いました!
左はシナガワ君、右は飽浦君です
ありがとうございますっ!!!
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この小説はRightさんの書いた小説「リリス・サイナーの追憶 嘘つき二人」のコラボです
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彼女は光輪に包まれて現れたらしい。
「Angel ? What's the hell going on ?」(天使? 何の冗談だ?)
彼はそう言ったらしい。そして、彼女は答えたのだそうだ。
「How are you doing, fallen angel ?」(どうしている、堕天使?)
シナガワがドアを蹴破って入ってきた。
僕の前に座っていた四十代後半の男性患者は、背筋を伸ばして大きな悲鳴をあげた。驚いた事に彼の尻は椅子から数センチほど浮いた。スキンヘッドの先は少し尖っていて、まるで宇宙を目指すロケットのようだった。
人間が飛べるとは知らなかった。新発見だ。
カルテに患者のつばきが飛んだので、仕方なくティッシュで拭う事にする。
困ったものだ。僕はため息をつく。
「大変だぞ。飽浦。精神科医の飽浦先生様よ」
「君が僕の所に来る時は、いつだってそう言うね」
皮肉は通じないようだ。彼の面の皮は厚い。言葉の矢では彼の心は傷つきそうもない。
「大変だと言っているだろう」
「どうして君は診察中にトラブルを持ってくるんだ? 信じられないよ」
「先生、こいつ誰ですか?」
本当の自分を見つけたいという、その男性患者は怪訝そうな顔をして尋ねてきた。
「ええと、説明すれば長くなるんですけど」
何と言って良いものやら。
シナガワはようやく患者が居る事に気付いたらしい。露骨に嫌な顔をして見せた。何様のつもりだろう?
シナガワは患者の肩を叩いて、出て行けと催促をした。余りの乱暴な手つきに僕は固まる。
「おい、オッサン。邪魔だからどこか行け。ぶっ飛ばすぞ」
その様子を見て、僕は大きく息を吸い込んだ。
なんて事を……
両手で顔を覆い、指の隙間から患者を見る。頬を赤く染めているのが見えた。嬉しそうにしている。
「はい、喜んで」
古いソファーに大きく座るシナガワ。黒のスキニーデニムに黒の革ジャケット。白地に黒ラインのデュエボットーニは大きく開けられ、そこから彼の荒廃した生活が見えるかのようだ。
乱暴に頭を掻いている様子は、まるでヤマアラシの水遊び。切れ長な目は驚きで少しばかり開かれている。
「しかし、マゾとはな」
まるで他人事だ。
僕は頬杖をついて、髪を掻き揚げた。美しい錦糸のような金髪が何本かこぼれ落ち、細フレームの眼鏡の上にかかる。そもそも完璧以上に美しい僕だけれども、物憂げな表情も美しいに違いない。
「世の中は君が考えているより複雑なんだ。色んな人が居るんだよ。特にあの人はややこしい」
「顔つきが普通じゃなかったな。ヤクザか何かか?」
「いいや、ちょっと違う」
「まあ、そんな事はどうでも良い」
どうでも良くないが、抗弁しようにも、勝手に話は進められる。
シナガワの横を見ると少女が一人。
夕焼けのように鮮やかな橙色の髪に、猛禽を思わせる金色の瞳。空気の精霊の軽やかさと水の精霊の落ち着き。素晴らしい調和だ。聖なる美貌。天上の恵み。だけど、少し邪悪が混ざっている。
何だろう、この不吉な予感は?
「なあ、シナガワ。何故か僕は彼女を見た事があるような気がするんだけど?」
「だろうな。俺もそうだ」
女の子は口を開いた。少しだけ残念な顔をしていた。
「僕も君達の事はうっすらとしか思い出せない。完全記憶能力をもってしても、世界が違うと曖昧になってしまう」
シナガワが面倒そうな顔をした。あからさまに嫌そうだ。
「何があったんだ? 思い出せる事だけでも良いから教えろ」
彼はアンダーグラウンドに身を置く稼業。僕も東欧からこの国に来た時に、色々世話になっている。
犬歯を剥いたシナガワは少しばかり恐ろしい。それでも、愛佳は気にもならないようだ。涼しい顔をしていた。
「僕は愛佳。君がシナガワで、君が飽浦。僕の事を覚えていないのかい?」
僕とシナガワのお互いの顔を見合わせ、首を振った。
「新章と呼ばれる空間が出現して、時空の歪みでこの世界へと来てしまったらしいね」
彼女の説明を聞くと、前に良く似た事があったという事だ。
彼女の世界はイル・モンド・ディ・ニエンテと言って、とんでもない事になっているらしい。そこに戻る為には、闇の滴と無の滴が必要なのだそうだ。彼女は言葉を続ける。
「今回、僕がここに来た事で、過去が変わってしまっているようだね」
愛佳の言葉を聞いて、僕の心はときめいた。
過去って変わったりするものなんだ。
僕の過去も変わっているかもしれない。
嬉しくなって、自分の記憶を漁ってみる。アレも、コレも、ソレも。
嫌な事だらけ。というか、嫌な事しか無いような気がした。
余りの失望にため息が溢れ出た。思い出したく無い事まで思い出し、気分は余計に落ち込んだ。
でも、物事は前向きに考えるべきだ。
「過去って変えられるんだ?」
「そうかもしれないね」
何て素晴らしい。今日は祝福の日だ。魂に翼が生えたような気がした。心がヨーデルを歌いダンスを始める。
やり直せるんだったら、やり直したい。
「愛佳ちゃん。僕とシナガワと会った日を変えられないものだろうか?」
「おい、飽浦。随分な物言いだな」
シナガワが壁を背にして腕組みをしていた。
言葉を重ねたのは愛佳。
「シナガワもやり直したい事があるのかい?」
それを聞いてシナガワは薄い唇の下に指をやった。何かを考えているようだ。瞳に陰りがあった。
「俺には必要無い」
「本当かい? 嫌な事や忘れたい事もあるだろう?」
「良いんだよ。それより、愛佳。お前の靴が古くなっている。新しい靴を見に行こう」
「素直に外出したいと言えば良いのに」
「踵の所に深い傷がある。それだと修理もできないだろう?」
不満げな顔をする愛佳。
「シナガワって小姑みたいな所があるよね」
シナガワは渋い顔をして見せたが、僕は大笑いした。
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「女はピンヒールだ」
それはどうなんだろう?
僕は疑問を呈したい。
「シナガワ、これは履きにくい。それに足が痛い」
愛佳の様子を見ていると、どうにも歩きにくいそうにしている。薄氷の上を歩いているかのようだ。足首が折れないようにしているらしく、膝に力が入っている。
押さえ付けるようにシナガワは言葉を続ける。
「美しさというのは、そういうものだ。見えない所で苦労をして、それを見せないようにする。それが本当の優雅さだ」
言われてみれば確かに小姑のようだ。横で吹き出すと、シナガワが睨みつけてきた。
店内の抑えめの照明の中、彼女はゆっくりと歩いてみせる。ターンをした時の切れがまだ甘いようだけれど、しばらく歩いているとコツを飲み込みつつあるようだ。曲がっていた背筋が伸びてきている。
後で絆創膏を買っておこう。
取り合えずピンヒールのパンプスを一足。これだと歩きにくいだろうから普段履きにもう一足。ブーツも良かったけど、それだと脚線美が光らない。ローヒールのミュールにした。僕とシナガワの意見が珍しく一致した。ここは敢えてスウェード。
「雨の日が大変じゃないないの?」
確かに雨で濡れたスウェードはシミになりやすく、手入れも面倒。
「愛佳ちゃん、雨を心配するんじゃなくて、その履き心地を喜ぶんだ」
シナガワも頷いている。
「そうだね。誰かに手入れさせれば良いだけか」
愛佳は納得したようだ。履いている靴をしげしげと眺めはじめた。
急に雨が心配になってきた。
僕達は香水を選ぶべく、店先に並べられているテスターの臭いを嗅いで回った。
「飽浦。これなんて愛佳に良いんじゃないか?」
シナガワが手にしていた紙片を鼻の所に持ってくる。
全然ダメだ。なっちゃいない。これだと冷たい感じがしてしまう。これは良くない。
「君のと同じ香りじゃないか。シトラス系はどうかなと思うんだ。これなんてどうだろう? イメージ的にピッタリだと思うんだ」
芳醇な香り。彼女のセクシーさが引き立つはずだ。自信をもって紙片をシナガワに差し出してみる。
「ムスク系? 止めてくれ。お前だけで十分だ。それだと動物臭くなる」
僕達の後ろで愛佳がため息をついた。
そろそろ日が落ちようとしていた時。
呼び止める声がした。随分と乱れた発音だった。聞いた僕が眉をしかめてみせるぐらい。
「よお、シナガワ」
南米系らしい。生やした顎ヒゲにトルティーヤの欠片が付いていた。何たる無様さ。お近づきになりたくもない。言葉を交わすだけで、僕の上品さと高貴さが汚れるというものだ。
「ようやくお前を見つけたぜ」
「アナグマどもか。良く来たな」
「うるせえよ。その生意気な口も動かせなくしてやるから覚悟しろ」
シナガワの敵らしい。舌にトウモロコシの毛でも絡まっているんじゃないだろうか? 単語が一々聞き取りづらい。
「ああ、面倒くさいな」
愛佳が言った。
「愛佳ちゃん。どうするの?」
「僕が何とかしよう」
どうしたものか? きっとシナガワはノーと言うだろう。そう思って彼の方を見るとやっぱりそうだった。
「何て事はない。愛佳は何もしなくていい」
シナガワは見栄っ張りな所がある。だから、こんな酷い状況になる。彼の周りは敵だらけ。
暗い通りに険悪な雰囲気が煮詰まってきた。そこに居た誰もが足早に逃げてゆく。
「緊張は楽しむものだ。なあ、飽浦」
はあ、それって僕に行けって言っているよね。
シナガワの腕力は大した事がない。だから、僕が代理で出てゆく事になる。
本当に困った事だ。
夕食はスペイン料理。白いテーブルクロスはきめ細かな刺繍がされている。情熱的でいい加減なラテンの感じがよく出ている。端から糸が派手に飛び出ていた。
テーブルの中央には真っ赤なハイビスカスが飾られている。冬の寒さなどをものともせず、大きく開いた花びらは、清々しさすら感じたほどだ。
シナガワはやって来たパエリヤ鍋から愛佳の分を取り分けた。木製の大きなスプーンとフォークの間から、漂う香しい匂いは暖かく、心の皺も伸びそうだ。ムール貝とエビをその上に盛りつけ、オマール海老の岩塩焼きは別の皿へと取り分ける。仄かな香草の香りが食欲をそそった。
並べられた皿には多くの料理が盛りつけられていた。ずいぶんと賑やかで、色彩に目眩がしそうだ。
持ってこられたスペインの赤ワインは、やや重厚さを前に出そうとして、渋みだけが目立ち過ぎていた。シナガワも口に含んだ後に失望しているようだ。
「彼女にはドイツの白を」
「えっ? 未成年では?」
「彼女は別の国からやって来た。だから、日本の法規は適用されない。問題ないから持って来てくれないか?」
店員は愛佳の橙色の髪を見ながら、首を傾げた。
「そうなんですか?」
「質疑で時間が経つ間にも料理は冷めてゆく。残念な事だ」
慌てて去ってゆく店員を見ながら、愛佳が質問をした。
「シナガワ、それって本当なのかい?」
「いいや。デタラメだ」
悪びれもしていない。愛佳は呆れた顔をしていた。僕が変わりに口を挟む。
「それってダメな事じゃないか」
「他の奴が決めたルールなど。俺はそれにイエスと言った覚えは無い」
愛佳のグラスにワインが注がれた。
「素晴らしい。愛佳、どこでテーブルマナーを習ったんだ?」
水すら切り取るような鮮やかなフォークとナイフの動き。シナガワが感心していた。嬉しそうにしている。
「ヒ、ミ、ツ」
僕も内心驚いた。優雅な手つきに食事の美味しさが更に増す。
テーブルに賑わいが降りてきた。
窓の外を見ていると、下の道では皆が寒そうに襟を寄せて歩いていた。ここは寒さと無縁の世界のようだ。ワイングラスを傾けると、口の中にブドウの香りが広がった。
食事が終わり、デザートが出された頃。壁にかけられていた幕が開かれた。どうやらステージになっているらしい。シナガワの方を見ると、彼は答えた。
「予約しておいたんだよ。フラメンコを見ながら、グラスを傾けるのも悪くないだろう」
ステージの中央に、深紅のドレスを着た黒髪の女性が立っていた。髪はキツくまとめられており、そのせいか表情も厳しく見える。視線は鋭く、まるで針の穴さえも突き抜くかのようだ。息苦しさを覚えた。
ギターが鳴らされた。紡がれる旋律は宙に舞う。何もなかった空間が音楽で埋められてゆく。
深紅のバイラオーラ(踊り子)は、足を舞台に叩き付け、激しいタップ音を作る。響いてくる靴音は身体の中を突き抜けた。
「こういうのもいいな」
僕が言うと、シナガワは得意そうな顔をして見せた。愛佳の方を見ると、興味深げに眺めている。
音楽が一段と激しくなり、バイラオーラの舞いはますます激しさを帯びる。クライマックスでは、ためられた力を吐き出すかのように手が打ち鳴らされ、フィナーレへと一気に向かう。息をつく暇さえありはしなかった。
バイラオーラが踊り終え、手を挙げた時、僕達は拍手を送った。
「ブラボー」
そう言うと、バイラオーラは踊る前に見せていた緊張を解き、輝かんばかりの笑みを見せた。千年の氷河でさえ溶かしてしまいそうだ。
スペインの男性は幸福だ。
「僕もやってみようかな?」
「えっ?」
愛佳の言葉に僕とシナガワは驚いた。
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「何と言う事だ」
「最高だよ、シナガワ。どうしてこんな事になったんだ?」
僕達はフラメンコスクールに来ている。女性達の好奇の視線が痛い。
ビーナスですら嫉妬する僕の美しさは彼女達を魅了して止まないだろう。だけど、晒されるのは気持ちの良い事ではない。
「はい、それではサパテオ(タップ)を覚えましょう」
音楽が流され、講師が手拍子を打つ。それに合わせて足で床を叩く。シナガワは自棄になっているのか、音が大きいようだ。
「タ、タ、タ、ターン。タ、タ、タ、ターン」
音楽に合わせて体を動かしていると、段々と気分が軽くなってゆく。床を叩くと木の感触。汗が流れるのも忘れてリズムに合わせる事に集中した。
愛佳も懸命に床を踏み鳴らしている。運動神経が良いのか、覚えも早そうだ。
「シナガワも筋が良いね。運動は苦手だと思っていたよ」
汗を拭きながら、愛佳が言った。白いタオルを額に押し付けている。
「タンゴをやっていたんだ。リズムに慣れてしまえば同じようなものさ」
「シナガワがタンゴとはね」
シナガワはミネラルウォーターのボトルを頭につけている。汗で髪の毛が余計に乱雑になっていた。
「愛佳もやってみるか?」
「ダメだよ。愛佳ちゃん。シナガワのタンゴは激し過ぎる。リードが強引すぎて、大抵ペアの女性はクタクタになってしまうんだ」
僕の言葉にシナガワが片眉を上げた。
「飽浦のタンゴはテンポが遅過ぎるんだよ。パッションに欠ける」
「優雅というものは、パッションを内側に秘めるものだよ」
ミネラルウォーターを飲んでいると、教室の扉が乱暴に開かれた。生徒の間から悲鳴があがった。
「よくもやってくれたな、シナガワ。取引の話をバラすとは」
シナガワが昨日何かしていると思ったら、そういう事か。彼は愉快そうに笑っている。
「俺を付け回したりするからだ。お前の取引情報を警察につっこんでやった。お前の取引相手が怒り狂って、お前達の始末をするという算段だ。このまま日本に居ると、遅かれ早かれ捕まるぞ。中国マフィアは俺とは違って執拗だぜ?」
「お前の軽口も今日でおしまいだ」
リーダーらしき男が懐から銃を取り出した。教室の隅で女性達が怯えている。
少しでも動くとマズそうだ。指先一つの動きで全てが決定する。最悪のケースだ。
動けない。
そんな状態だったが、シナガワは気楽な口調でこう言った。
「ついでに言っておいてやると、お前のボスまで、この失敗は筒抜けだ。日本を離れて自分の国に戻ろうとしても、戻れないから覚悟しろ」
「何だと?」
「嘘だと思うなら確認しろ。もうメールも届いているはずだ。ボスからのメールは目を通しているか? 電話で聞いた様子だと、かなり怒っていたぜ」
リーダーが手をポケットに突っ込んだ。どうやら、携帯電話を探しているようだ。
「今だ、飽浦。やってしまえ」
「しかし、あれが嘘だとは」
「酷い嘘をつくもんだよねえ。シナガワは」
僕と愛佳は口を揃えて言った。
「注意を逸らすから、そこにつけ込まれる」
彼の人生は虚偽だらけ。何を言い出すやらわかったものじゃない。
僕の胸中はモヤモヤしている。
「シナガワは混乱や騒動を散らかすばかりで片付けようとしない。僕の身にもなってくれ」
どういう訳だか、いつだって精算するのが僕になる。
愛佳の方を見ると、僕に視線を注いでいた。
「飽浦、僕がなんとかしようか?」
優雅を誇る僕がそれを認める訳が無い。
「何て事もないよ。愛佳ちゃんは何もしなくていい」
レディーを戦わせるなど、あってはならない事だ。
「そう」
彼女は少しだけ緊張を解いたようだ。初めて見せた笑みはプリンセスのそれだ。
「緊張は楽しむものだしね」
僕がそう言うと、シナガワは答えた。
「まあ、どうにでもなる」
「ところで」
前を歩いていた愛佳が僕達の方を振り返る。
「フラメンコの続きはどこでやれば良いんだい?」
どうにもならない事もありそうだ。
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「シナガワ、タイに飛ばなくちゃならないんだろう?」
僕が尋ねると、シナガワは面倒くさそうに答えた。
「これが終ったら行かなくちゃならない。愛佳は?」
「僕もそろそろ戻らないといけないね」
僕達は音楽ホールの前に来ている。思ったよりも大きい。
「書類を偽造してやった。午前中は俺達のものだ」
何も言うつもりは無い。多分、何を言っても聞く耳を持たない。
入り口に入ると、南米系がずらりと並んで立っていた。
「よう、シナガワ。随分と待たせてくれたな」
執念深さだけは見上げたものだ。腕にはギブスをしている。
「どうして彼らがココに?」
疑問を口にしたら、回答はシナガワが持っていた。
「ああ、招待状を出したからな」
「どうして、そんな事をしたりするんだ?」
もう少しで大声をだしてしまう所だった。
「そう言うな。トラブルは片付けてから観覧したかったんだ」
凄まじい形相で悪人どもがこちらを見ている。ただ事では済まなさそうだ。これから愛佳のフラメンコを見ようと言うのに。
ため息をつきながら腕まくりをすると、シナガワはそれを制する。
「招待状を出したのは、彼らだけじゃない」
「どういう事?」
「彼らの取引先である中国マフィアにも出したんだよ。ほら、取引情報をバラしたろ?」
後ろから駆け込んでくる足音が聞こえた。
「南米野郎!ついにお前らを見つけたぞ!よくも警察にタレ込んでくれたな。ただじゃおかねえ!」
怒気が破裂したかのような声だった。館内が乱闘で満ちあふれた。俗界の騒々しさに肩を竦めながら、彼らの間を通り抜ける。
ステージに立っている愛佳はいつもより引き締まって見えた。伸ばされた手は細く、指先などは背景に消えてしまいそうだ。
奥にはバンドが楽器を手にしている。静寂の中、どこで音を切り出そうかと迷っているようだ。
明々と灯されたスポットライトは矢のようで、板張りのステージを浮き上がらせていた。
広々とした構内の天上は高く、全ての音を吸い込んでしまいそうだ。まるで夜空のようだった。
観客席は僕とシナガワだけだ。
「観客は二人だけか」
「飽浦、これが本当の贅沢だ」
「でも、シナガワ。できれば多くの人に見てもらった方が良かったんじゃないか?」
「騒がしくなるだけだ」
一笑に付すように彼は言った。
「闇の滴と無の滴。シナガワもわかっているよね」
「ああ。だが、今は愛佳のダンスを堪能しよう」
僕達は前に集中力を注いだ。
ギターが鳴らされた。哀愁の漂う音。心の奥底に沈んでいたはずの愁いに響く。続けて弾かれる弦は旋律を作り、ほろ苦い思いが胸に満ちる。
愛佳は手を舞わせた。東洋的な感じがする、しなやかで流れるような動き。それは天使を撫でるかのようにデリケートだ。
指一本。目線一筋までが、音楽に中に溶込んでいる。
カスタネットの連鎖が駆け込んできた。曲調はスリルをはらみ出し、音は大きく膨らんだ。まるで火がついたみたいだ。
踊りは熱を帯びたように大きくなる。彼女の足が舞台に叩き付けられると、空間に波紋が広がった。それはここに在るという苛烈で切実な宣言のようだ。
小刻みに踏まれる足音。そして、大胆に、誘うかのように伸ばされた手。情熱が手招きをしている。その上に、カスタネットの音が被さり、音は熱烈さを増してゆく。
流れるような身体の動きに幻惑される。床を叩き付けるステップは激しさを増し、ここまでパッションが伝わってきた。
回転するとスカートの裾が舞う。まるでハイビスカスがその美しさを誇るかのよう。愛佳はスカートの端を掴み、悪魔を挑発するかのように地面を打ち鳴らす。
こだまする足音は更に早くなる。滑らかな肢体の動き。神でさえ堕としてみせるかのような自信と傲慢さが心地良い。
フィナーレが決まった時、僕とシナガワは思わず立ち上がった。惜しみない拍手を愛佳に注ぐ。緊張を解いた愛佳の表情。輝かんばかりの笑顔。万年の氷河でさえ、一瞬で蒸発させてしまいそうだ。僕は思った。
ああ、僕達は幸福だ。
「ブラボー」
「シナガワ。やっぱり過去を変えるのは良く無いね」
「だろう?」
こういう輝きがある限り、どんな悲しい事があったとしても、捨てる気にはなれない。
着替え終え、出てきた愛佳を拍手で迎える。
「とても良かったよ、愛佳ちゃん」
「素晴らしかった。まさか、あれほどとは」
彼女の上気した頬が目に染みいるようだった。暖まった体が冷えないように、コートを掛ける。風邪をひいたら大変だ。
空港に向うべく、音楽ホールの入り口に行くと、南米の悪党共と中国マフィアの連中が首を揃えて待っていた。顔中傷だらけだ。
「シナガワ、悪巧みは全てわかったぞ。お前が仕組んだ事だと中国マフィアと話がついた」
「やれやれ、悪党らしく互いに食い合っていれば良いものを。とんだ計算違いだ」
両手を上げてため息をつくシナガワ。
「女を連れて呆けたか? ナイト気取りもここまでだ」
彼は鼻で笑った。
「忠義も無く、信義すら無い、俺を騎士だと? 笑わせるな。呼ぶなら夜と呼べ」
「ほざけ!」
「しかし、よくも見抜いたものだな。頭が回るようには見えなかったが?」
「中国マフィアの中に、お前に見覚えがある奴が居たんだよ」
誰かと思うと、肌色ロケットだった。僕の患者のスキンヘッド。傷だらけの顔を撫で回し、目を潤ませている。色々な意味で道を踏み外しているが、彼は本当の自分を見つける事ができたようだ。次の診察はないだろう。
でも、状況が厄介なのは違いない。シナガワの耳元で囁く。
「シナガワ、招待状作戦は失敗だったね」
「飽浦。俺が送った招待状はもう一つある」
また、訳のわからない事を言い出した。仕方が無いので、腕まくりをした。早い所、片付けてしまおう。でも、一応は聞いておいた方が良さそうだ。
「何処に送ったんだい?」
「もう少し、殴り合って疲れているはずだったんだがな。計算違いだ」
何が言いたいんだろう? 次の言葉を待ってみた。
「送り先は警察だ」
腕まくりは止める事にした。扉の向こうに影が見えたからだ。
「混乱や騒動を散らかす事もあるが、片付ける事だってあるさ」
機動隊員が殺到した。
ピンヒールのパンプスを履いた愛佳は背が伸びたかのようだ。歩き方もマスターしたのか、歩幅も安定している。
「さあ、お別れだ。愛佳」
「元気でね、愛佳ちゃん」
「楽しかったよ」
僕達はそもそも別世界の住人。それぞれはそれぞれの所に戻るべきだ。
闇の滴。
無の滴。
僕とシナガワは指先を切り、そこから流れる血の滴を、彼女の舌に落とした。
愛佳は愛佳の所へ帰った。
彼女が彼女らしくありますよう。
彼女は自分の世界へと戻り、僕達の事を忘れるだろう。だけど、願わずにはいられない。
「じゃあ、飽浦。俺はタイへ飛ぶ」
「大変だね。次はドアを蹴破らないようにして欲しいな」
「それはどうかな?」
笑って別れた。彼と笑みを浮かべて話をするのは随分と久しぶりだ。
シナガワはシナガワの所へと帰っていった。
太陽の光が雲に遮られた時、僕はその影の中へと消える。
闇は闇にあるべきだ。
僕は僕の世界に戻る事にする。
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フラメンコ動画【マリア・ページズ】
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