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ラトゥナ・ケートの児童文学集

「ドロ!」と呼ぶその子は、本当に戦争奴隷ですか? ~総督の娘とグルガァ族の少女~

作者: 宝田旗子
掲載日:2026/09/15

戦争が終わったばかりの新属州で、総督の娘と、言葉の通じない小さな少女が出会うお話です。


奴隷制度・人身売買・児童虐待を示唆する描写があります。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

市場の通りには、まだ旧王国の看板が残っている。


旧王国の文字が読めない帝国人のために、その横へ新しい木札が釘で打ちつけられていた。


古い金文字の隣に、素っ気ない帝国語。

粉屋、革屋、両替商。


ドロシー・エルナイツは、その二枚並びの看板を見上げながら歩いていた。


「エルク、これ持って」


振り返らずに包みを差し出す。


「姉さん、さっきから増えてない?」

「気のせいよ」

「絶対違う」


弟のエルクは文句を言いながら受け取った。

両腕にはすでに、布の見本と香料の小袋と、なぜか陶器の壺が抱えられている。


「何が悲しくて、護衛が荷物持ちになってるんだ」

「両方できるなんて優秀ね」

「褒め言葉の形をした搾取だよ、それ」


後ろを歩く侍女のサリアは、口を挟まなかった。

こうなった主人が止まらないことを知っている。


編入されてまだ半年に満たない属州である。

戦は終わったが、行政はまだ骨組みしかない。


役所は旧王国の館をそのまま使い、通りには帝国語の通じない住民が普通に歩いている。


市場は、それでも賑わっていた。


穀物の袋が積まれ、鶏が籠の中で鳴き、羊が引かれていく。

奥まった一角には、家畜と同じように人が並んでいる。


奴隷商の区画だった。


ドロシーは足を止めなかった。


帝国に奴隷はいる。


借金を返せなかった者。

刑を身柄で贖う者。

戦で捕らえられた者。


制度として法に書かれ、台帳に載り、税が課されている。

眉をひそめて通り過ぎることはあっても、そこに並んでいること自体を咎めるつもりはない。


問題は、それが法のとおりかどうかだ。


その一角で、ドロシーの足が止まった。


◆


最初に目に入ったのは、黄色だった。


黒い毛皮の裾から、小さな黄色い靴が覗いている。


毛皮のコートは異様に大きかった。

背丈よりも幅が勝って見えるほどで、フードが深く、中に何が入っているのか一目では分からない。


客らしい男が覗き込んだ。


毛皮が、ずるりと縮んだ。


子供だ。

フードの奥へ頭を引っ込め、膝を抱えて、丸くなる。

毛皮の塊が小さくなっただけのように見えた。


「……エルク」

「ああ」


ドロシーは近づいた。

客が離れるのを待って、しゃがみ込む。


フードの奥に、黒い目があった。

黒髪。歳は十かそこら。


「こんにちは」


反応がない。


「名前は?」


まばたきをした。

それだけだった。


怯えて黙っているのとは違う。

ドロシーが何をしているのか、その仕組みからして分かっていない顔だった。


「……言葉が通じないのね」

「グルガァ族でございます」


太い声がした。


でっぷりとした男が、揉み手をしながら出てくる。

年の頃は五十手前。

上等ではないが、仕立てのきちんとした上着を着ている。


「ゴルド・バッカスと申します。バッカス商会の者でございます。お目が高い」

「高くはないわ。ただ見ていただけ」

「正式な戦争奴隷ですよ、お嬢様。北西の山地で捕らえた者でして」


ゴルドは懐から折り畳んだ紙を出した。


奴隷証書だった。


ドロシーは受け取って開いた。

書式は整っている。


捕獲年月日、捕獲場所、民族名、性別、推定年齢。

商会の印。

帝国式の欄がきちんと埋まっている。


「言葉が通じないのは難でございますが、その分おとなしい。手もかかりません」


ドロシーは証書から目を上げ、子供を見た。


毛皮は、まだ縮んだままだった。

ゴルドが近づいてから、ぴくりとも動かない。


子供が知らない人間を怖がることはある。

だがこれは、知らない人間への怯え方ではなかった。


何をされるか知っている者の縮み方だった。


「そう」


ドロシーは証書を畳んだ。


「なら、私がこの子を買うわ」


ゴルドの揉み手が止まった。


「……は?」

「表示額でいいのでしょう? それとも言い値が別にあるの?」


背後でエルクが小さく「姉さん」と言ったが、ドロシーは聞こえなかったことにした。


ゴルドの顔に、じわりと笑みが戻った。

こちらの身分に気づいているらしい。


「いえいえ、表示のままで結構でございます。お売りいたしましょう」

「ええ、確かに聞いたわ」


ドロシーは証書を開き直した。


「ただし、戦争奴隷の所有権移転には、事前検認が必要よね」


ゴルドの笑みが、半分のところで固まった。


「……それは」

「父の出した暫定令よ。旧王国側の記録と照合するまで、戦争奴隷の所有権は動かせない。市場へ並べるのは自由。でも、売るなら検認がいる」


ゴルドの視線が、証書とドロシーの顔のあいだを一度だけ往復した。


「もちろん存じております……申請は、追って」

「今からでいいでしょう」


ドロシーは立ち上がり、通りの奥へ目をやった。


「市場監督官を呼んで」


ゴルドは何か言いかけて、やめた。


断る理由がない。

断れば、自分の証書に自信がないと言うようなものだ。


やって来た市場監督官は、証書を確かめ、面倒そうな顔をした。


「所有権移転の申請ということでよろしいですな。検認が済むまで、引き渡しは停止です」


そして商会の男に向き直る。


「証書の正本は検認資料として総督府で預かります。商会には預かり証をお渡しします」


市場監督官はその場で二枚の紙を書き、一枚をゴルドへ、もう一枚をドロシーへ渡した。


ゴルドの手には預かり証、ドロシーの手には申請受理の控えが残った。


「……結構でございます」


ゴルドが渋々答えた。


「その間、この子は?」


ドロシーが子供を見て尋ねた。


「本人確認も含む検認ですので、検認中の身柄は総督府でお預かりします」


市場監督官は事務的に答えた。


毛皮の塊が、また少し縮んだ。

ドロシーは、それを見てから言った。


「ちょうど官邸へ戻るところよ。連れていくわ」


エルクが荷物を抱え直しながら、小声で言った。


「姉さん、散歩に出たはずだったよね?」

「そうだったかしら」

「絶対覚えてるだろ」


ドロシーは答えず、毛皮の塊へ手を差し出した。


握られはしなかった。

ただ、小さな黄色い靴が、半歩だけこちらへ動いた。


◆


総督官邸の勝手口を入ったところで、サリアは一度だけ子供を見た。


それから、何も聞かずに言った。


「事情はあとで伺います。まず、お湯と食事を用意いたしますね」

「お願い」


サリアの視線が、子供の身体を包む大きな毛皮へ移った。


「毛皮は、お預かりしないほうがよろしいかと」

「……そうね」


子供は毛皮を掴んだまま、ずっとドロシーの三歩後ろを歩いていた。


逃げようとはしない。

かといって近づきもしない。


執務室の父は、書類から目を上げ、娘の後ろに続く小さな毛皮を見て、眉間を押さえた。


「……また厄介事を持ち込んだな」

「正式な検認案件よ。勝手に拾ってきたわけじゃないわ」


ドロシーは申請受理の控えを机に置いた。


リッター・エルナイツ侯爵はそれに目を通し、しばらく黙ってから、端を指で叩いた。


「所有権移転の申請者はお前になっているぞ」

「私が買うと言ったもの」

「代金を払うつもりはあるのか?」

「検認が通れば払うわ」


父は娘の顔を見た。

娘は目を逸らさなかった。


「ならば検認を進めろ」


それだけ言って、リッターは書類に戻った。


◆


湯を使わせ、食事を出したあとで、ドロシーは改めて子供と向き合った。


毛皮は返してある。

着せた寝間着の上から、また羽織っていた。


「私はドロシー」


自分の胸を指差す。


「?」


子供は首を傾げた。


「ドロシー」


もう一度、胸を叩く。

子供の目が、指の動きを追った。


「ドロシー」


三度目。


子供が、おそるおそる手を伸ばした。

ドロシーの胸元を指す。


「……ドロ!」


ドロシーは一瞬、動きを止めた。


「……ドロシー」

「ドロ!」

「ド・ロ・シー」


子供は意味も分からないまま、嬉しそうに目を細めた。

フードの奥で、白い歯が少しだけ覗く。


「ドロ!」


諦めた。


「……まあ、いいわ」


次に、ドロシーは子供のほうを指差した。


「あなたは?」

「?」


自分を指す。


「ドロ」


子供を指す。


「……あなたは?」


子供の目が、二つの指の間を往復した。

それから、自分の胸を叩いた。


「アム!」


得意そうだった。


「アム?」

「アム! ドロ!」


アムは両手で、自分と、ドロシーを、交互に指差した。


何度も。

嬉しくて仕方がないというふうに。


ドロシーは思わず笑った。


「アムね。分かったわ」


通じたのは、互いの名前だけだった。


◆


翌日、検認担当の官吏が官邸へ来た。


初老の男で、証書を長いこと眺めてから言った。


「書式そのものに、不備はございません。ただ――少々、確認しづらい記載がございます」

「どこ?」

「捕獲場所が『北西山地一帯』となっております」


官吏は地図を広げた。


「この範囲に、グルガァ族の集落は十四あります。証書は集落名まで書いておりません。もっとも、戦時中の捕獲であれば、集落名を書けないことは珍しくありませんが」

「軍の記録は?」


ドロシーは地図へ目を落とした。

十四という数は、思っていたより多い。


「捕虜の記録は照会いたしました。該当しそうな記載はいくつかございますが、この子だと特定できるものはございません。そもそも戦時の名簿には抜けがございます。載っていないから捕虜でなかった、とも申せません」


官吏は証書と地図を見比べながら、わずかに眉を寄せた。


「……この子の名前、アムというみたいよ」


官吏は顔を上げた。


「名が分かっているのでしたら、照合は可能です。降伏の際に作られた『集落別降伏者名簿』と突き合わせます」

「じゃあ」


ドロシーの表情がわずかに明るんだ。


「ただ、十四集落分ございます。索引もありません。一冊ずつ当たることになりますので、少々お時間を頂戴します」

「どのくらい?」


官吏は少し考えてから答えた。


「他の案件と順に回しますので、一か月ほどかと。本人から集落名が聞ければ、その日のうちに済むのですが」

「聞けないわ。帝国語が一語も通じないもの」


官吏はアムへ目をやり、すぐにドロシーへ視線を戻した。


「では、順番に当たるほかございません。検認は、それまで保留といたします」


官吏が帰ったあと、ドロシーは父の執務室に寄った。


「通訳を探せないの?」


リッターはペンを置いた。


「軍付きの通訳は、本隊の撤収と一緒に引き上げた。今の総督府に、グルガァ語を解する者はいない」

「降伏のとき、名簿を作ったんでしょう?」

「作らせた。当時いた軍付きの通訳と、旧王国語を話せる集落代表に立ち会わせてな。あの手続きが済んだから通訳は用済みとして帰された」


父は娘を見た。


「呼び戻すなら帝都へ申請だ。半年はかかる」


ドロシーは廊下へ出た。


中庭で、アムが黄色い靴の先で石をつついていた。


◆


検認は保留のまま、日だけが過ぎた。


その間、アムは官邸で暮らした。


最初の数日で、サリアはいくつかのことを覚えた。


食事を出すと、アムは必ず一部を毛皮の中へ入れる。

パンの端、干した果物、肉の欠片。


サリアは取り上げなかった。


「あとでも食べられますからね」


通じるはずもない。

ただ、毎日同じ時刻に、同じ場所へ、同じように皿を置いた。


四日目に、アムは隠す量を減らした。

六日目には、パンの端だけになった。


サリアが手を伸ばすと、アムは身をすくめる。

急な動作が駄目らしい。


そう分かってからは、サリアは必ず一度手を止めてから動くようになった。


意味の分かる言葉も増えた。

皿を置くと、アムは毛皮から顔を出して言う。


「リィリィ」


着替えを渡しても、「リィリィ」。


水を持っていっても、「リィリィ」。


「お礼でしょうか、これは」


サリアがそう言ったのは、その頃だった。


「ありがとう、ってこと?」

「何かを差し上げたときにしか言いませんので」


嫌なときは、はっきりしていた。


髪を梳かそうとしたときも、靴を脱がせようとしたときも、アムは手を振り回した。


「ノンノ! ノンノ!」


黄色い靴だけは、寝るときも脱がなかった。


廊下の隅で毛皮に埋もれて座り込み、誰とも目を合わせずに、小さな声を出していることもあった。


「ビービー……」


その日は、皿にほとんど手をつけなかった。


一方で、上機嫌なときは分かりやすかった。


厨房で焼きたてのものをもらったとき。

庭で猫を見つけたとき。

両手を上げて跳ねる。


「グガ! グガ!」


一番とばっちりを食ったのはエルクだった。


「姉さん」

「なに」

「この子まで俺に荷物渡してくるんだけど」


見れば、エルクの腕の上に、アムが拾ってきたらしい木の枝が三本載っていた。


「懐かれたじゃない」

「便利な人間だと思われてるだけじゃない?」

「違いがあるの?」

「あるよ」


言い終わるより早く、四本目の枝が腕の上に載った。


アムは満足そうに頷いて、また庭のほうへ駆けていく。

エルクは枝を持ったまま、しばらくその背中を見送っていた。


◆


寝台の件だけが、いつまでも片づかなかった。


サリアが整えた寝台に、アムは決して近づかない。


夜、様子を見に行くと、いつも部屋の隅にいた。

壁際に背をつけて、毛皮に潜って、膝を抱えている。


寝台は一度も乱れていない。


その夜も同じだった。


ドロシーは燭台を置き、寝台を指差した。


「ここで寝ていいのよ」


毛皮は動かない。


「怖くないわ。誰も来ないから」


フードの奥で、黒い目がこちらを見ていた。

何を言われているのか分からない目だった。


当たり前だ、とドロシーは思った。


言葉が通じないのに、言葉で説得しようとしている。


ドロシーは寝台から離れた。

そして、床に座った。


毛皮から、少し離れたところ。

手を伸ばしても届かない距離。


それから、何もしなかった。


燭台の炎が揺れた。

廊下の向こうで、誰かが扉を閉める音がした。

窓の外で、風が屋根瓦を鳴らした。


ドロシーは膝を抱えて、黙っていた。


どれくらい経ったのか、毛皮がもぞりと動いた。


フードの縁から、黒い髪が出てきた。

目が出てきた。


アムはドロシーを見た。

ドロシーは何も言わなかった。


毛皮が、少しだけ床を滑った。


また止まった。


また、少し。


ドロシーの左袖の端に、小さな手が触れた。

それから、掴んだ。


握った、というより、指に巻きつけただけのような掴み方だった。


「……そこならいいの?」


アムは答えない。


言葉の意味が分かるはずもない。

それでも、掴んだ手は離れなかった。


毛皮の中で、呼吸がゆっくりになっていくのが分かった。


ドロシーは、袖を引かれたまま、朝まで動かなかった。


目が覚めたとき、腕が痺れていた。


アムは毛皮の中で丸くなって眠っていて、ドロシーの袖はまだ握られていた。


やがてアムが目を開けた。


自分がどこにいるのか確かめるように、ゆっくりと周りを見た。

ドロシーの顔を見つけて、動きが止まった。


それから、笑った。


「グガ」


ドロシーは首を傾げた。


「……なあに、それ」


昼過ぎ、サリアに聞いてみた。


「グガ、って言われたのだけど」

「ああ、それは」


サリアは洗濯物を畳む手を止めずに言った。


「たぶん、嬉しいとか、楽しいとか、そういう意味では? この子、ご機嫌なときによく言いますので」

「そうなの?」

「お嬢様、それを言われたのですか」

「ええ」

「では、そういうことでございましょう」


サリアは畳んだ布を重ねて、それ以上は何も言わなかった。


◆


帝都から来客があったのは、その二日後だった。


ドミニク・ヘイル子爵令息。

新属州を訪れたついでに、総督へ挨拶をというのが名目である。


母が亡くなってから、こうした接遇はドロシーの仕事になっていた。


面談を終えて、応接室から玄関へ案内する途中だった。


廊下の先に、サリアとアムがいた。


ドミニクの足が止まった。


「おや」


顔に、面白いものを見つけた笑みが浮かんだ。


「お前、バッカスのところにいた奴じゃないか」


アムが動いた。


ドロシーが止める間もなく、小さな体が横をすり抜けた。


次の瞬間、背中に衝撃があった。


「ノンノ! ノンノ!」


声が違った。


これまで一度も出したことのない、喉を裂くような声だった。


「ノンノ! ノンノ、ノンノ!」

「アム」

「ビービー……! ビービー!」


ドロシーの背中に、小さな体が押しつけられていた。


震えている。

毛皮ごと震えている。


ドミニクは笑っていた。


「お前、まだ売れ残っていたのか」


そして、ドロシーへ向き直る。


「失礼、エルナイツ嬢。その毛皮は、どういう経緯でこちらに?」

「……この子をご存じなの?」

「バッカスの収容所で何度か。買おうかと思っていたところですよ」


ドミニクは首を伸ばして、ドロシーの背中を覗こうとした。


毛皮の塊が、床へ沈むように低くなった。


「怯えさせると面白い声を出すんですよ、グルガァは。あれは何度聞いても飽きない」


ドロシーの顔から、接遇用の笑みが消えた。


「玄関はこちらです」

「ああ、これは。少々口が過ぎました」


ドミニクは悪びれなかった。

悪びれるという発想がないようだった。


馬車が門を出ていくまで、アムはドロシーの背から離れなかった。


◆


その夜、アムはサリアが連れていくまで、ずっとドロシーの服の裾を掴んでいた。


ドロシーは父の許可を得て、検認資料として総督府に保管されていた奴隷証書を借り出した。


執務室の隣の小部屋で、それを広げた。


書式に不備はない。

官吏はそう言った。


捕獲年月日。

捕獲場所、北西山地一帯。

民族、グルガァ。

性別、女。

推定年齢、十。


インクの色。

紙の質。

商会の印。


何度見ても、書類としては正しい。


「そもそも」


ドロシーは声に出した。


「この子、本当に戦争奴隷なの?」


戸口にもたれていたエルクが、顔を上げた。


「そこから?」

「そこが一番大事でしょう」

「……まあ、そうだけど」


検認は、十四集落分の照合待ちで止まっている。


官吏を責める気はない。

彼は順番どおりに仕事をしているだけだ。

一か月と言われたなら、それくらいはかかるのだろう。


だが今は、その順番を待つ気になれなかった。


名前は分かっている。

あとは、誰かが一冊ずつ頁をめくるだけだ。


「エルク、調べてきて」

「姉さんさあ……」

「なによ」

「弟って、そんなに便利な生き物じゃないんだけど?」


エルクは呆れたように姉を見た。


「でも、頼めばやってくれるでしょう?」

「そこにつけ込んでるって言ってんだよ」


エルクは壁から背を離した。


「記録室だな。明日の朝からでいい?」

「今からでいいわ」

「よくないよ」


結局、二人は蝋燭を持って記録室へ向かった。


◆


総督府の記録室には、戦が終わって間もない土地らしい雑然さが残っていた。


帝国軍が残した捕虜名簿。

旧王国から引き継いだ地図。

降伏の際、集落ごとに作られた『集落別降伏者名簿』。


棚ごとに大まかな分類はされているものの、帝都の官庁ほど整然とはしていない。


エルクは机の上へ奴隷証書を広げ、その横に地図を置いた。


「まず、ここ」


証書に記された捕獲場所を指で叩く。


「北西山地一帯。これ、場所としては相当広いよ」

「グルガァ族の集落は、十四だったわね」

「十四。ここからだ」


エルクは地図の端に付された一覧へ視線を走らせた。


帝国軍が降伏を受け入れた際、各集落には整理番号が振られている。

その中から、証書に書かれた地域に含まれるグルガァ族の集落だけを拾っていく。


一冊目。

違う。


二冊目。

そこにもアムという名前はない。


三冊目を開いたところで、ドロシーが横から頁を覗き込んだ。


「これ、子供の名前も全部載っているのね」

「降伏時にそこにいた住民は、原則全員。帝国側が人数を把握する必要があったからね」


名簿は世帯ごとにまとめられ、名前の横には、父、母、子といった続柄まで添えられていた。


頁の末尾には、帝国側担当官の署名。

その隣に、集落代表が残した印と署名がある。


「だから、この名簿に載っているなら、少なくともこの日にはその集落にいたことになる」

「自由民として?」

「そう。これは捕虜名簿じゃない。降伏後、自由民として保護対象になった住民の名簿だから」


エルクは次の冊子を取った。

ドロシーも黙って頁をめくり始める。


「姉さん」

「なによ」

「手伝うなら順番崩さないでよ」

「分かってるわよ」


ドロシーは不服そうに頁へ視線を戻した。


「さっき一冊飛ばしかけてた」

「細かいわね」

「こういうのは細かくないと駄目なの」


もっともだったので、ドロシーは黙った。


名前だけを探しているわけではない。


グルガァ族。

女児。

現在十歳ほどなら、降伏時には九歳前後。

名前はアム。


同じ名があったとしても、年齢や性別が違えば除外する。


軍の捕虜記録も横に置いてあった。

該当しそうな記載はいくつかあった。


だが、アム本人だと特定できるものはなかった。こちらだけでは、あってもなくても決め手にはならない。


だからこそ、降伏者名簿を一つずつ見るしかなかった。


何冊目かの名簿を開いたときだった。


エルクの指が止まった。


「……いた」


ドロシーが顔を上げる。


「どこ?」


エルクは一行を指した。


「ラグナ集落。グルガァ族、女児――アム。降伏時九歳」


ドロシーが身を乗り出した。

そこには確かに、そう書かれていた。


アム。

女児。

九歳。

ラグナ集落。


同じ世帯欄には、父と母の名も並んでいる。


頁の下には、帝国側担当官と集落代表、双方の署名が残っている。


「……今、何歳?」

「見たところ十歳くらいだろ」

「この子ね」

「待って」


エルクはすぐには頷かなかった。


残っている名簿を指す。


「同じ名前の子が他の集落にいないか。全部確認した方がいい」


ドロシーは少しだけ目を丸くした。


「まだ見るの?」

「ゴルドに『同じ名前の別人です』って言われたい?」

「……続けましょう」


それから二人は、残りの名簿をすべて確認した。


アムという名そのものはいくつか見つかった。


だが成人だったり、男児だったり、年齢が大きく違ったりした。


証書に記された地域の中で、グルガァ族、女児、降伏時九歳前後、アム。


その条件に当てはまる者は、ラグナ集落の一人しかいなかった。


エルクは最後の冊子を閉じ、今度こそ言った。


「この子で間違いないと思う」


ドロシーは奴隷証書を手に取った。


そこに書かれた捕獲日は、ラグナ集落が降伏した日より前だった。


一度、証書を見る。

次に、名簿を見る。

もう一度、日付を確かめる。


「……おかしいわ」

「うん」

「この証書だと、アムはこの日にはもう戦争奴隷になっている」

「そうなる」


ドロシーは名簿の一行を指でなぞった。


「でも、そのあとに――」

「ラグナ集落の自由民として、帝国側の名簿に載ってる」


沈黙が落ちた。


戦争中に捕らえられ、奴隷になった少女が、その後の降伏時に自由民として集落へ存在している。


両方が正しいはずはない。


ドロシーは奴隷証書を机へ置いた。


「戦争中に奴隷になった子が、あとから自由民として村に降伏しているわけがない」


エルクが椅子の背にもたれた。


「証書の日付が嘘だ」


ドロシーの頭に、黒い毛皮へ潜り込む小さな少女の姿が浮かんだ。


自分を指差して、


『アム!』


と得意そうに言った顔。


ただ名前を教えてくれただけだった。


その名前が今、彼女が誰なのかを記録の中から引きずり出していた。


ドロシーは立ち上がった。


「エルク」

「今度は何」

「お父様のところへ行くわ」

「はいはい」


エルクも立ち上がり、窓へ目をやった。

外が、わずかに白み始めていた。


「……姉さん」

「なによ」

「今回は俺も行く。これ、説明する人間が二人いたほうがいい」


エルクは、短くなった蝋燭の芯を指でつまんで消した。


◆


朝一番の報告を聞いたリッターは、その日のうちに動いた。


ただし、ゴルドを呼び出しはしなかった。


奴隷証書の正本と、ラグナ集落の降伏者名簿。

その二つの真正を、別々の担当官に確認させた。


娘と息子が一晩で出した結論を、総督府の手続きとして踏み直させたのである。


「……疑ってるの?」

「裏を取ると言うんだ」


父はそう言っただけだった。


照合が終わった二日後、ゴルド・バッカスが自分から総督府に現れた。


通されたのは総督の執務室だった。

奥の机にリッターが座り、その手前にドロシーとエルクが立っている。


ゴルドは扉のそばで一礼し、預かり証を手に持ったまま言った。


「検認はいつまでかかるんです? 私の商品を返していただきたい」


誰も答えなかった。


「お嬢様がお買い上げくださるというお話でしたが、これほど待たされては商売にも差し支えます」


リッターは机の上の資料へ、ゆっくりと目を通していた。


最後の一枚を読み終えると、顔を上げ、娘を見た。


「お前が見つけた案件だ。説明してみろ」

「はい、お父様」


ドロシーは前へ出た。


「言っておくけれど、私は買うと言ったわ。合法的な戦争奴隷なら、約束どおり代金を払っていた」


ゴルドの表情が緩んだ。


総督が娘に任せた。

つまり大した話ではない。


そう受け取った顔だった。


「でも、あなたが売ろうとしたこの子は、あなたの言う戦争奴隷じゃなかった」

「……は?」

「だから調べたのよ」


ドロシーは机の上へ、三つの資料を並べた。


「あなたの言う『正式』が、本当に正式なのかを」


一つ目。ゴルドの奴隷証書。

二つ目。軍の捕虜記録。

三つ目。集落別降伏者名簿。


「この証書では、あの子は北西山地一帯で、戦闘中に捕獲されたことになっている。日付はここ」


指を置く。


「この名簿は、ラグナ集落が降伏したときに作られたもの。帝国側担当官と集落代表、両方の署名が入っている公式記録よ」


もう一方へ指を移す。


「作られた日は、あなたの証書の捕獲日より、後」

「……それが何か」

「その日、アムはラグナ集落にいたの。自由民として、名前が載っている」


ゴルドの喉が動いた。


「同じ名の子供でしょう」


ドロシーは頷いた。


「そう言われると思ったわ。だから全部調べた」


エルクが一歩前へ出て、名簿の束を示した。


「証書に書かれた捕獲地域に含まれるグルガァ族の集落、十四すべての降伏者名簿を照合しました。アムという名前自体は他にもありました。ですが成人、あるいは男児、あるいは年齢が大きく違う」


ドロシーが引き取る。


「グルガァ族、女児、降伏時九歳前後、名はアム――この条件に合う者は、この地域にただ一人。ラグナ集落のあの子だけ」

「……」

「ずいぶん都合のいい同名ね」


ゴルドの手の中で、預かり証が音を立てた。


「言っておくけれど、軍の捕虜記録であの子を特定できないことは、証拠にしていないわ。戦時の記録に抜けがあるのは知っている」


ドロシーは証書と名簿の間で、指を行き来させた。


「問題はここ。捕らえられたはずの日より後に、自由民として公式の名簿に載っている。この二つは同時には成り立たない」

「……書き間違いということも」

「両方の署名入りの名簿が? それとも、あなたの証書が?」


ゴルドは答えなかった。


ドロシーは、机上の証書を裏返した。


「少なくとも、この証書を根拠にこの子を戦争奴隷として扱うことはできないわ」


そこで、ドロシーは口を閉じた。

それ以上は、彼女の役目ではなかった。


「もうよい」


リッターが立ち上がった。


ゴルドが、ようやく机の奥の男へ目を向けた。


「バッカス商会主ゴルド・バッカス。文書偽造ならびに誘拐、違法人身売買の容疑で身柄を拘束する」


扉が開き、衛兵が入ってきた。


「商会は営業停止。施設を捜索する。貴殿が過去に取り扱った戦争奴隷は、全件を再検認とする」

「お待ちください、総督閣下、これはお嬢様の思い違いで――」

「思い違いかどうかは、こちらで調べた。二日かけてな」


ゴルドが連れ出されていく足音が、廊下の奥へ消えた。


リッターは椅子に座り直し、証書を手に取った。


「所有権移転の申請は、却下だ」

「はい」

「売り物ではない者を買うことはできん」


リッターは証書を、机の端の書類の山へ載せた。

一番上に。


ドロシーはそれを見て、小さく息を吐いた。

背後で、エルクが名簿の束を抱え直す音がした。


◆


バッカス商会の捜索には、三日かかった。


床下から、二重帳簿が出た。


表の帳簿に載っていない取引の記録。

捕獲日を書き換えた下書き。


同じ手口で戦争奴隷に仕立てられた者が、アムのほかに十一人いた。


記録を辿ると、いずれもリッターが事前検認の暫定令を出す以前に取引されていた者だとわかった。


制度ができる前は、証書だけで所有権が動いていたのである。


全員が属州の住民で、帳簿の備考欄には十一人とも「帝国語不可」の記載があった。


その帳簿の中に、ドミニク・ヘイル子爵令息の名があった。


「ヘイル子爵令息向け――グルガァ族女児二名。降伏後確保。戦時捕獲として証書処理」


エルクが写しを持ってきたとき、ドロシーは最初、これで十分だと思った。


「これ、駄目なの?」

「ゴルドが書いた帳簿だからね」


エルクは肩をすくめた。


「『商人が勝手にやったことで、私は正規の奴隷だと思って買った』で逃げられる。買い手側が知っていた証拠にはならない」


だが、商会の別の箱から、それも出てきた。


ドミニク本人の署名が入った注文書と、往復書簡の控えである。


珍しい個体を優先して回すよう求めるもの。

降伏後に確保した者でも構わないと明記したもの。

証書は戦時捕獲扱いで整えるという商会側の返信に対し、了承の旨を書き送ったもの。


ゴルドの帳簿と、ドミニクの文書。

二つが揃って、初めて話が閉じた。


属州での滞在予定をまだ終えていなかったドミニク・ヘイル子爵令息は、違法人身売買の共犯容疑で拘束された。


帝都の貴族であるため、属州で刑が確定することはない。

証拠一式とともに、帝都の司法機関へ送致された。


罪状の中心は、違法に奴隷化された者と知りながら買い付けを続けたこと。


あの廊下での言葉は、罪状には入らなかった。


偽装された十一人については、身元照会と再検認が始まった。

名簿の照合には、また誰かが一冊ずつ頁をめくることになる。


「時間がかかるわね」

「かかるよ」


エルクは書類の山を見ながら言った。


「でも、やり方は分かってる」


窓の外では、荷車が一台、記録室のほうへ名簿の箱を運んでいくところだった。


◆


アムの出身は、ラグナ集落と分かっている。

同じ世帯欄には、父と母の名も載っていた。


だから、ドロシーは当然のように言った。


「だったら家族のところへ帰せるわね」


リッターは、ラグナ集落の現況と、名簿に記された二人の転居先を、帝国内の関係各所へ照会させた。


その返事が揃うまで、十日かかった。


ラグナ集落は、もうなかった。


降伏のあと、住民は各地へ散っていた。


戦後の混乱で作物が採れず、若い者から順に出ていき、残った者も冬を前に近隣へ移った。


名簿にあった名前の何人かは、別の州で確認されている。

何人かは、どこにいるか分からない。


アムの父と母の名も、名簿にはある。

どこにいるかは、どの返事にも書かれていなかった。


「探すのは続ける」


リッターは報告書を置いた。


「だが、明日見つかるという話ではない」

「……ええ」

「家族が見つかるまで、総督府で保護する。それでいいな」


ドロシーは頷いた。


中庭へ出ると、アムが石段に座って、黄色い靴の先を眺めていた。


ドロシーはその隣に座った。


「あのね、アム」


顔が上がる。


「あなたの村は、分かったの。ラグナ集落。ちゃんと名簿に載っていたわ」


アムはドロシーの口元を見ている。


「でも、みんな散らばってしまったみたいで、お父さんとお母さんがどこにいるか、まだ分からないの。だから探すわ。時間はかかると思うけれど、必ず探すから」


手振りを加えてみた。

地面を指し、遠くを指し、両手を広げた。


「それまでは、ここにいていいのよ。ここは安全だから。誰もあなたを売ったりしないから」


アムは、まばたきをした。


後ろから声がした。


「姉さん、それ絶対分かってないよ」

「分かってるわよ」

「じゃあなんでそんな長文で喋るの」

「気持ちよ、気持ち」


エルクは呆れた顔で石段に腰を下ろした。


ドロシーは膝の上で手を組み、しばらく黙っていた。


通じていない。

それは分かっている。


申請すれば、半年ほどで通訳が来るかもしれない。

そのときに、もう一度きちんと説明すればいい。

それまでは。


袖を引かれた。


アムがこちらを見上げていた。


「ドロ」

「なに?」


アムは、ドロシーの袖を掴んだまま、少しだけ首を傾けた。


「リィリィ」


ドロシーは、息を吸った。


それから、笑った。


アムも笑った。

歯を見せて、目を細めて、掴んだ袖を二度、三度と引いた。


「グガ!」


黄色い靴が、石段の上で跳ねた。


「グガ! グガ!」

「ええ」


ドロシーは、袖を掴んだままの小さな手を、上から包んだ。


「私もよ」


帝国語は、まだ通じない。


ドロシーもグルガァ語を話せるわけではない。


それでも。


ありがとうも、嬉しいも、嫌だも、悲しいも、出会った日より少しだけ分かる。


事件は、ここで終わる。


ドロシーとアムの関係は、ここから始まる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


言葉は通じなくても、名前を知り、喜びや悲しみを少しずつ知っていく。

ドロシーとアムにとって、これは事件の終わりであり、二人の関係の始まりでもあります。


「グガ!」と笑える日が、これから少しずつ増えていけばと思います。

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