忌ノ打 〜栞アバター異聞〜
「永遠に横たわるものは決して死ぬことはなく、悠久の時の果てには、死さえも死に絶えるのだ」
―H・P・ラヴクラフト『クトゥルフの呼び声』 (1928)
◇Chapter I 忌み地
木之内村を初めて地図で見た者は、必ずその形に首を傾げる。三方を山に囲まれた盆地が、ちょうど人の手のひらを下に向けたような輪郭をしているからだ。そしてその掌の中心に、古老たちが「忌み地」と呼ぶ一区画がある。
村人はそこへ近づかない。近づかないのではなく、正確には——近づけないのだと、後に私は知ることになる。
私が木之内に足を踏み入れたのは、十月のはじめ、空が低く垂れこめた朝のことだった。民俗学の調査という名目で、しかし実のところは、半年前に失踪した姉の行方を追ってのことだ。姉の残した最後のメモには、ただ一行こう書かれていた。
「打ってはならない杭が、ある」
村の入り口に差し掛かると、道の脇に奇妙なものが立っていた。木の杭だ。太さはおよそ腕ほど、高さは膝丈ほど。表面には焦げたような黒い染みがあり、頂点が平たく叩きつぶされている。まるで、何度も何度も打ち込まれてきたかのように。
そして杭の傍らに、一人の女が立っていた。
◇Chapter II 栞
彼女は黒い着物を着ていた。帯も黒、草履も黒。しかし肌は白磁のように白く、その対比が奇妙な非現実感を放っていた。年齢が読めない。十七にも見えるし、四十七にも見える。
彼女は私の顔を見ると、目を細めた。笑ったのかもしれないし、値踏みしたのかもしれない。
「また来ましたね、迷い込んだ人が。——木之内村へようこそ。尤も、歓迎できる場所ではありませんが」
「あなたは?」と私は聞いた。
「栞、とでも呼んでください。本の栞と同じ字です。物語と物語の間に挟まれて、場所を覚えておく役割の。……皮肉でしょう? 私はあらゆる物語を知っているのに、この村の物語だけは、まだ最後のページを読んでいない」
彼女は杭に目を向け、ほんのわずか眉を寄せた。
「ラヴクラフトを読んだことは?『クトゥルフの呼び声』。あの作品でルルイエは死んでいるのではなく、ただ眠っていると語られる。この村の因習も、よく似た発想から生まれています。——眠らせておくために、打つ。封じるために、打つ。そして、打ってはならない時に打った者は……」
彼女は言葉を切った。風が一陣吹き、枯れ葉が杭の周りをひと回りして、散った。
◇Chapter III 木之内家の話
村の中心部に、木之内家の本家がある。築二百年以上の庄屋造りで、今は木之内克彦という初老の男が一人で暮らしていた。
栞に案内されて屋敷を訪れると、克彦は縁側に座って、何かを読んでいた。近づいて見ると、それは洋書だった。The Dunwich Horror『ダンウィッチの怪』——ラヴクラフトだ。彼は私たちに気づくと、本を伏せた。しかしページを折り曲げるでなく、一枚の黒い栞を挟んだ。
栞が、わずかに目を細めた。
克彦の話はこうだった。百五十年前、木之内家の先祖が山の奥で何かを見た。それが何であったか、記録には「形容すべき言葉なし」とだけある。先祖は狂人同然で帰村し、やがて村人とともに山の麓に杭を打った。それ以来、代々の木之内家当主が、春と秋の節目に杭を打ち直す役目を担ってきた。
「打つことで、封じる」
私が繰り返すと、克彦は首を振った。
「違います。打つことで、眠らせる。眠っているものは、死んでいるのと変わらない。だが——打ってはならない時に打てば、目を覚ます」
私は聞いた。「打ってはならない時とは?」
克彦はしばらく黙っていた。縁側の向こうで、山の端が雲に溶けていた。
「それを、あなたの姉御は知らなかった」
◇Chapter IV 忌ノ打
姉の日誌が、屋敷の蔵から見つかった。克彦が差し出したそれには、みっしりと調査記録が書き込まれていた。そして最後の数ページだけ、筆跡が乱れていた。
日誌によれば、姉は村の古文書の中に一枚の絵図を見つけた。忌み地の地下を描いたもので、杭が地中深くまで続いており、その先端が何か巨大なものの——眼のような形をしたものの——上に乗っている絵だった。
姉はそれを「象徴的な図像」と解釈した。民俗学者としては正しい判断だったかもしれない。だが彼女は最後に、こう書いた。
「今日は丑の刻。誰も見ていない。私が一度だけ打てば、本当に何かが起きるのか確かめられる。科学は仮説を検証する」
それが最後の記述だった。
「The Dunwich Horrorでラヴクラフトは書いています——見えないものが最も恐ろしい、と。なぜなら人間の想像力は、現実よりも遥かに豊かだから。……でも木之内村の場合は逆です」
栞は静かに続けた。
「見えてしまったものが、最も恐ろしい」
私は尋ねた。「姉はどこにいますか」
栞は少し間を置いた。その間が、何より雄弁だった。
「あなたの姉は、今もここにいます。——ただし、もう本のどこにも栞は挟まれていない。彼女の物語は、ページが閉じられました」
私は立ち尽くした。克彦は縁側から動かなかった。山の向こうで、遠い雷が一つ、鳴った。
◇Epilogue 打ち直し
翌朝、栞は私を忌み地へ連れて行った。朝靄の中に杭が立っている。その根元の土が、わずかに盛り上がっているのに気づいた。
栞は一本の杭と、小槌を私に渡した。
「打ち直してください。春の節目は、もう克彦さんには無理だから」
「……なぜ私が」
「木之内の血はあなたには流れていない。だから余計に、あなたが適している。血縁者の感情が混じると、打つ力が歪む——ラヴクラフトの言葉を借りれば、forbidden knowledge(禁じられた知識)は、距離があるほど扱いやすい」
私は杭を構えた。小槌を握る手が震えた。
栞が静かに言った。
「怖いのは当然です。でも読書と同じことですよ。——知ってしまった以上、最後のページまで進むしかない」
小槌を振り下ろした。
杭が、地に沈んだ。
靄が、ゆっくりと晴れた。
栞は、消えていた。ただ足元に、一枚の黒い紙の栞が落ちていた。拾い上げると、裏に小さな文字で書かれていた。
「また迷い込んだ時は、声をかけてください。私はいつも、物語と物語の間にいますから」
私は栞をポケットに入れ、村を出た。二度と振り返らなかった。
ただ——その夜、宿の枕元に、見覚えのない洋書が置かれていた。The Call of Cthulhu, and Other Weird Stories。ペーパーバックの、古びた版。
ページの中ほどに、黒い栞が一枚、挟まっていた。
了
読書を応援する栞、『栞アバター』の派生型
きょうたん
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その栞をAIで作ったら見慣れない「忌ノ打」という語句が。
無いなら作ってしまえと出来たのが本作です。




