死眼月下
男が立っていた。
けっして長身ではないが、分厚く存在感のある男だ。
禿げ上がった頭と、ゴワゴワとしタワシの様な口ひげを蓄えている。
一見すれば、童話か何かに登場する山賊の頭のような外見の男だ。
そして事実、その男が纏う雰囲気は、まさしく粗野で乱暴で危険な悪党のソレであった。
フリューロフ・ウルコンスキー。
それが男の名だ。
そして――
男の眼前に、人が倒れていた。
女だ。
まあ、年は若い。
腹部に深々とナイフが突き刺さり、仰向けに倒れている。
腹部から溢れ出る鮮血で、赤い血溜りをアスファルトの上に作っていた。
冷たい風が吹く。
生臭い血臭が男の鼻腔をついた。
嗅ぎ慣れた、錆びた鉄の匂い。
男の目が、大の字に転がる女の顔へ移る。
口から泡を吹いた女の顔は、青白く不気味だ。
『死』
かつて在りし戦場で見慣れた日常が、そこには在った。
つまらなそうに、男が鼻を鳴らす。
この女がおそらく自分の目的の情報屋だろう事を、男は察した。
女から情報を買う為に、この場で会う約束をしていたのだ。
だが、来てみれば、一人の女が死に掛けているだけ。
情報屋は裏家業。
恨みを買う。
憎しみも、だ。
だから、敵が多い。
だから――
こうして殺される事も珍しくない。
男は女から情報を聞きだすのが不可能だと悟り、その場を立ち去る事にした。
己の仕業でないにしても、人の死に関わるのは、面倒だ。
無感動に一瞥し、踵を返そうとした時――女と目があった。
いや。
既に焦点の合わない女の双眸が、ゆっくりと動いた結果でしかない。
その視線は遠くを見つめ、男を見てはいない。
そう、見ている筈がない。
だが……。
ああ、もう死ぬな。
男は、僅かに女から視線を外し、思考を傾ける。
だが、それだけだった。
戦場を駆けてきた男にとって、『死』は日常に過ぎない。
ふと、男の中に思考が浮かんだ。
それは、最近知り合った妙な青年の影響かもしれない。
セオ、コオロギ――通念には従わず、己の信念にて疑念を悉く踏破する彼ならば、こう口にするだろう。
『この女は、死を間際に何を見るのか?』と。
これまで幾百、幾千と接してきた『死』の中で、「他人の思考の軌跡」を媒介にしたとしても、男にとって初めての疑問であった。
数多の『死』に接していながらも、男には、これまでその疑問はなかった。
つまり『死』とは何か、という疑問である。
人は言うだろう。
『死』とは――人生の終焉、だと。
だが、本当にそうなのだろうか?
少なくとも男は『死』を拒み、抗い、否定し、踏破し続ける存在を知っていた。
永遠不滅たる不破不変。
吸血鬼。
彼らをして、永遠に辿り着けない境地。それが『死』。
女の体が不規則に震えた。
死の直前によくある痙攣だ。
女の瞳孔が、男を見つめたまま、開かれていく。
そして。
――女は、死んだ。
無味乾燥な骸となった。
瞬間――
ゾクリと男の背筋に悪寒が走った。
女が最期に見ていたのは、間違いなく男だった。
これまで看取ってきた戦友達にも、感じなかった悪寒。
これは何を意味するのか。
冷たい風が吹く。
男は双眸を伏せ、骸を背に歩み始める。
この悪寒。
そう、この悪寒を。
男は、知っていた。
瀬尾蟋蟀。
この柔和な青年が初めて発した言葉。
微笑を浮かべながら、青年は言った。
「『死』に興味はありませんか、ウルコンスキーさん? 私は貴方に『それ』を提供する場所に案内できます。どうですか、ウルコンスキーさん? 私と一緒に『死』を冒涜してみませんか?」
『死の冒涜』
なんと甘美で、魅惑的な響きだろうか。
ああ、そうだ。
この時、感じたのは悪寒ではなく、戦慄だ。
臓腑から震える程の、脳髄が痺れる程の、そんなそんな戦慄。
「ラルフェンタンツだったか……。フン、いいだろう。貴公の思惑に乗ってやる」
男は一人、言葉を発する。
ラルフェンタンツ。
瀬尾蟋蟀が男を誘ったゲーム。
『生命』をチップに愉しむ、究極のゲーム。
おそらく瀬尾蟋蟀は、己の目的を知っているだろう。
そして、瀬尾は自分の目的の為に、己を欲している事を、男も知っていた。
姑息な駆け引きは好きではない。
だが、瀬尾は『死』すらも利用する。
おそらく、己の『生命』すら意に介さないだろう。
ならば。
ならば、見届けてやろう。
2005年6月某日。
ロシアより一人の男が――フリューロフ・ウルコンスキーがアメリカの大地に立った。
ラルフェンタンツ参加者として。
その隣には、瀬尾蟋蟀が立っていたのは言うまでもない。