信頼ってやつがある
慧は学校中を走り回っていた。姿見も涙もいないのだ。協力を求められそうな人間は全て出払っていた。どうしてかは分からない。もしかしたら先手を打たれたのかもしれない。2人を探しにどこかへ行ってしまったのかもしれない。もともと、念のために涙と姿見には監視をつけていたのだが、そもそも東風派の教室なので効果はそこまで期待していなかった。しかし、こちらのクラスの人間もいないとなると話が変わってくる。やはり、待つしかないのだろうか。
ではどうするか。私たちの正攻法で攻めるしかないだろう。
1階の端っこから5階までこれは骨が折れるだろう。授業で山を登り、そして学校中を走り回った。手に膝を突き、屋内だというのに息が上がって呼吸が苦しい。顎先と鼻先に汗の存在を感じる。制服の乱れも気にする暇もない。これよりしんどい思いを昭穂もしているに違いない。そう思えば、まだ走れる。
声を届けるために、もう一走り。慧は強く地面を蹴った。全く何をしているのか分からない。馬鹿馬鹿しい争いに巻き込まれて、酷く迷惑な話だ。走る理由には足りない。それが好きな人のためなら、いいかもしれないが。
2人は走るに足る人間か?打算的な考えは悪ではない。私はこういう人間だから。そして答えはすぐに出てきた。
全くその通り、走るに足る友だちだ。たぶん
やっぱり私はいい奴だ。なら私は私でいられる。
慧は自問のなかで、この後の自分を想像していた。行き交う人々の間を縫って、呼吸をペースに歩調を統一する。まるで主人公が自分であるかみたいに、語りは饒舌に、劇的に。勇気はいつもその自己陶酔に生まれる。
階段を一気に駆け上がる。一段、二段と飛ばす段数を増やしていく。初めてやってみたが意外と気分がいい。今後もそうやって登っていこう。
放送室前、少し吐きそうになって胸に手を当てる。心拍は恐ろしく早い。
慧は扉の前の人影に気づく。昭穂か?そう思い顔を上げる。見覚えのある幼い顔が狂気に満ちた表情を浮かべている。双眸をかっぴらき、固く結ばれた口元が慧を見てゆっくりとほころびていく。
「そこどいてくれない?急いでるんだけど」
「もう少し丁寧な物言いの方がいいですよ」
手には薬瓶。茶の薄暗い瓶は例の盗品だろうか?慧の視線に気づくとおもむろに蓋を開ける。一瞬身構えるが、慧は元は空瓶だと知っていた。だからその波打つ液体が無害のものか、除草剤かのどちらかと踏んでいた。どちらにせよここで一歩でも引くようなことがあれば彼は一層強気に出るだろう。
「それ、偽物でしょ。もうなにしたって無理だよ。それとも殴り合いでもする?あなたに負けるほど柔なガールでもないよ、私」
「うるさい!」
「あなたうるさいばっかりね。人の話は聞かないと」
「黙れ!俺は期待されてんだ。高崎さんに!」
彼はついに液体をぶちまけた。
慧は動かなかった。ただ相手の目を見つめ、内側に滾る青い炎をそこに誇示するように胸を張る。夕日を見る時みたいに両目を眇め、それでも闘志に影は落ちない。
飛散した液体は黒い。左目が潰れる。これは墨汁か。制服の白は滲んだ黒が徐々に侵食していく。すぐに左手で顔を拭う。
相手をにらみつける。悪意に触れたその防衛機制が感情を媒介として全身に信号を送る。仇なす敵に何をしよう。それは殺意だろう、きっと。
いきり立つ少年は次の刃を慧に向ける。殺意には殺意を。そういうことだろう。コンパクトナイフを右手に跳びかかかる。それでも直立不動。
音がする。信頼の音がする。
これを待っていた。慧はその信頼という奴を待っていた。
「慧、しゃがめ!」
昭穂の帰りを待っていた。
後方からのその声に、慧はすぐさま反応する。頭を抱えてしゃがむ。黒い水溜に、飛び込むように。跳ねる飛沫に風の音。頭上をなにかがスイングする。カワセミが獲物を捕らえたみたいだ。そして鈍い音がする。
顔を上げる。のぞき込むように心配そうな顔をこちらに向ける昭穂がいる。
「野蛮だね」
慧は笑って見せた。
「非暴力は、努力目標なのでね」
彼も笑った。




