星の輝きは幾ばくか
保健室で泣いていた。中村はただ泣いていた。
そのそばにはびしょ濡れの少女がいた。彼女は泣いていなかった。
「起きた?はいこれ」
彼女はセロハンテープで止められたあの絵を手渡した。今すぐにでもボロボロになってしまいそうで心許なかったが、姿見のなかのなにかもまた形を取り戻していった。
「私、知ってるかしら。よくお家にお邪魔してたんだけど」
中村は知らなかった。
「そう。斉藤涙。何度かお話ししたこともあったのに忘れるなんて酷い子ね」
そんなことより、濡れているその姿が気になって仕方なかった。自分のせいでそうなったのか?思い出せないまま彼女の髪に触れた。
「濡れたままだ」
「そうよ。濡れたまま。拭いたら負けな気がしたから」
さっぱりとした口ぶりに初めて尊敬のような感情を同世代に抱いた。それは中村になかった強さだったからだ。あの女性に抱いていた気持ちの行き先が見つかったのだ。
「ねえ、どうすればみんなに好かれるかな」
彼女は笑った。
「私に聞いてどうするの」
中村は分かっていた。彼女は正解を知っている。ただやり方が下手なだけ。
「教えて」
「分かった。とりあえず、涙拭いて、私、勝ち気なあなたが好きなんだから」
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目の前に涙がいた。彼女の手には今さっきまで握っていたカッターナイフがあって、そして姿見はその場に尻をついていた。
「バカ!なにやってんのよ」
涙は背を向けたまま説教をはじめた。状況が飲み込めない。
「私かばって全て終わらせるつもり?全部勝手に片をつけるつもり?冗談じゃないわよ。あなたは知らないでしょ、私が今までどれだけ疎まれてきたか。どれだけいじめられたか。冬のバケツの水の冷たさも、田圃の泥の匂いも、あらかじめ換えの靴を用意して登校する朝の憂鬱も!全部知らないでしょ!だってずっと逃げてきたじゃない。あの日からずっと逃げてきたじゃない」
言い返せない事実。あの日から、姿見はずっと優しくなることを目標にしてきた。そしてそれは彼を捨てることでもあった。
「私が大切だって言うのも、絵が大切なのも、結局は全部自分を放り出しているだけじゃない。自分の大切なものを他に移して、否定されないようにしてきただけじゃない。あなたの絵だって自慢げに掲げなさいよ!憧れだなんていってはぐらかさないでよ!それで全部が面倒になったら自分まで捨てようとして、少しは傷つきなさいよ」
私が教えたのはそんなことじゃない!
初めて自分への悪意を認識したあの日、初めて自分を嫌われたと認識したあの日、姿見はあの日から全て自己保身に走っていた。本来の自分の醜さを知ってしまった以上、そうしなければ生きていけないと半ば脅迫じみた自問自答が常に頭の中で反芻されていた。
「ぼくの事なんてどうでもいいだろ」
「あなたの気持ちはどうでもいい!さっさと立ちなさいよ」
「だからお前が来たら意味がないだろう」
もし、向田に歯向かう瞬間を写真に収められたらどうだろう?きっと涙も共犯扱いされてしまう。せっかく守ろうとしたのに。やはりどうしても上手くいかない。
いやもう詰んでいるのだ。どう足掻いたって放送部の評判も落ちる。ぼくたちも学校での居場所を失う。だってたくさんの悪意がぼくたちに向いているから。なら、もうなにも気にしないでいいんじゃないか?
「かずま、あなた人を信じたことある?」
「あるに決まっているだろ」
「予想なんだけど、それって裏切られたっていいって信頼じゃない?」
まさしくそうだ。だが、それがなんだ。裏切られたって蔑ろにされたって仕方ないと思えるその関係性の構築を信頼というのではないか。
「教えてあげる。こうやって怖い相手を前にして、膝を震わせている間にも、助けてくれるって思うことが信頼なんだよ」
涙は突き上げるような視線を向田に向ける。なにも進まない時間はただ緊張と不安を孕んで膨張して、一秒がとてつもなく長く感じる。
静寂、それを切り裂くチャイムが鳴る。姿見は顔を上げる。
放送が始まる。




