予兆
「霊峰・燻山。雨期にはここの山頂に雲がかかれば雨が降るとされています。歴史的に銅山としても活躍し、この地域はそこへ出稼ぎに来た人たちが住み着いたことで繁栄していきました」
まさか社会の勉強もされるとは。昭穂は下山しながらの解説にうんざりしていた。足下はぬかるみ、蒸し返す草いきれは鼻腔にとどまる。気温や湿度以外の要因が複雑に絡み合って自然のあるべき姿を教えようとしてくる。街中にあるお情けの緑や街路樹とは違う、友だちじゃない自然の姿。無関心な隣人みたいな存在。そんな場所に長くいると、心身ともに疲弊するのは至極当然のことである。
バスで10分。学校との距離はそこまで遠くはないぶん、時間いっぱいまでこの空間にいなければならない。慧は列の最後尾で友だちと楽しそうにしていた。この後に会議が待ち受けているというのに、それについての質問は受け付けないといった感じで昭穂の声を突っぱねていた。その拒絶がなにをもってのものなのかを十分に推し量ることのできる判断力と人並みの自尊心と自己肯定感と自己評価を持ち合わせていれば、そこに不和が生じることはなかっただろう。
だが、男はそれを持ち合わせていなかった!
こんな些事なことでも発芽する不安の芽、それがなにかの予兆である事は彼の目にあきらかであった。朝とは打って変わった慧の態度。女の子は気分屋なのよとふざけ調子でいつもいっているがそれにしても気分屋すぎないだろうか。自分が何かしでかしたのか、やはり昭穂と友だちでいることは隠しておきたいのか、いや、慧に限ってそんなことはしないだろう。昭穂は慧がそんな人物でないことは知っていた。でも知っているからといって安心できるわけではない。心と脳は乖離している。
じゃあ、どうして距離を取る。
困ったことにそんなことばかりを考えはじめた脳みそは、すぐさま脳内会議の開催を決定し、昭穂の頭の中のあらゆる担当者が学校のそれに倣わんとして催される。
自己嫌悪担当
妬み担当
嫉み担当
厭世的価値観担当
猜疑心担当
ネガティビティバイアス担当
彼のなかにある負の感情は細分化されていた。
そして好感情は不在という全くもってQOLが低そうな精神衛生上よくない状態である。
彼は考える。汗だくな体躯を前傾にし、サイケデリックな混沌を見せる思考回路。同系統の感情は統率が取られていない。その手綱を握るは…
希死念慮担当である。
昭穂は人には生きて欲しいくせに、すぐに希死念慮に縋る。いまもその恩恵を受けている。
そうだ、いつか死ぬのだ。なら無問題!
紀伊昭穂、希死念慮より諦観の境地に至り、正常な思考を取り戻す。
諦めは救いである。昭穂にとって信頼も、期待も、喜びも、全てが諦めという地盤の上に成り立っている。そうだ慧に裏切られたとて、いいのである。自分はその裏切り以上に受け取ったものもあるのだから。
足下の根に躓き、前行く誰かがはじいた木の枝が顔にぶつかろうとも、一度安定した彼のマインドは凪いだままであった。
やっと下山できたことに、雲行きは少し怪しくなっていた。雨が降りそうだ。
バス停の近くには屋根のついた待合所があり、生徒たちはいったんそこにあつまり、各自靴の泥や汚れを拭き取ってバスに乗車する。明澄は外界とは区分された空間であるため、そこでしかない種も多く植生している。だから、このような対応が求められる。昔は生徒が自由に植える事もできたそうだが、悪意ある人間が葛や藤のようなものも持ち込んだため、今では許可制となってしまった。
昭穂は教師に頼まれ、用具倉庫に箒と雑巾を取りに向かった。放送部ということもあって勝手に「真面目な子」のレッテルを貼られた彼はこのような雑用もよく頼まれる。教師からの信頼を獲得できるのはいいことであるが、きっと昭穂が一般家庭の出身である事も関係しているのだろう。そう思うとあまり気分のいいことではない。倉庫は黴臭く、コンクリートがむき出しの床は虫の死骸とペンキのシミで汚れていた。
扉を閉じると思ったよりも暗く、安心できる空間が出来上がる。疲れた脳を休めるには適していたが、すぐにまた光が差し込む。
「誰だ」
「私。分かるかな」
慧はいつもの調子に戻っていた。先ほどまではなんだったのだろう。
「なんだ」
昭穂は口角が緩むのが自分でも分かった。安心したのだ。
「さっきまではごめんね。ちょっと都合が悪くて。昭穂くんの事だからしょげてると思って手伝いに来たよ」
「ありがとうな。でも俺だってそこまで繊細じゃない」
彼は強がりが板についていた。
「ほんとかな?でも信頼してくれているって事だよね」
「ああ、もちろんだ」
慧は息が抜けるように笑った。短い笑い方は彼女が得意とするものだ。とても似合っている。昭穂は慧に背中を向け、掃除用具を探す。
おもむろに腰のあたりに重みを感じた。見ると慧の手が触れていた。
「なんの真似だ?」
「信頼してくれてるんでしょ。昭穂くん」
慧の声は酷く落ち着いていた。いつもの鈴のような声ではない。子どもをたしなめる母親のようなゆっくりと静かで重みのある声。
なにをしでかすのか。昭穂には想像つかなかった。予感は正しかったのか?背中が冷える思いをしながら、ただ硬直している。
「まずは、パンツを脱いでください」




