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屈折した視界

 東風派が陣取っている〈響の杜〉。群生する杉と雑多な広葉樹の混合林は1年中葉を絶やすことはない。風が吹けば木々はざわめき、リスや狸が出ると言われているが姿見(すがたみ)は未だにその姿を確認したことはない。そのような小動物に出くわすことができればこの鬱蒼とした雰囲気も大分和やかになるのだが。


 呼び出されたのはクレーターと呼ばれる場所だ。響の杜では木々が刈り取られたスペースがいくつか存在するのだが、その中でも最大のものを放送部ではクレーターと呼んでいるらしい。昭穂(あきほ)曰わく、5階からそこを見たときにぽっかりと穴が空いていることと、昔ここで大きな喧嘩があったことから「インパクトが起こった場所だ!」と慧が表現したことに由来するらしい。


 なぜここに呼ばれたのか、大体察しはついている。


「姿見くん、いや、中村くん。時間通りに来てくれてありがとう。私のことは知っているわよね、きっと紀伊くんから悪評をいっぱい聞いていると思うから」


 ちょうどよく存在している切り株に腰を下ろし、足を組んでいる彼女は高崎架純だろう。にこやかな笑みを浮かべている彼女と向き合う。確かに彼女は笑っているが、姿見の目にはそれが好意的には映らなかった。目が死んでいるからだろうか。いや、それは昭穂も同じだから他にも原因があるのだろう。その出所不明の冷徹さが彼女がこの派閥の長たる所以なのだろう。


「はじめまして。姿見かずまです。早速ですが流石に悪趣味すぎませんかね、脅しで呼び出すなんて」


「そうかしら、私にはそのつもりはなかったのだけれども。温室育ちは大変ですね」


「ええ、まったく。高くつきますよ、治療費は」


「あら、私はなにもしていないわよ。ただあなたの写真を友だちに見せただけで。だからそこの過失を問われたとしてもなにも言えないし、そもそも本当に私の友だちがしたことなのか分かりませんし。それに、今日はそんな不毛なお話をするためにここに来てもらったわけではないの。手短に終わらせましょう、放課後は大切な勉強時間なんですから」


 彼女が話をしている間に姿見は人の顔と配置を確認した。どうにも影になっていて見えていなかったが、クレーターの縁には4,5人配置されている。どいつもこいつも男ばかりで、何かあればすぐに飛びかかるであろう。それでいてフェアを装っているのが癪に障る。きっと放送室から見られてもいいように、なんなら見てもらうためにこうしているのだろう。出なければわざわざこんな場所に呼び出しはしないはずだ。


「そうですね、あなたがそうしてくれればぼくもありがたいです」


「では、あなたには放送部を解体して欲しいの。もちろん、有坂(けい)とかいう女のメンツを潰してね」


「そう言われても困りますね。ぼく自身が退部するか、退学するかで手を打ってくれませんか」


「冗談はよしてよ。私たちはあなたに恨みがあってこんなことをしている訳じゃないの。あの集団が、(まゆずみ)清司郎の意志を継ぐ人間が嫌いなの。無害なふりをして、自分たちの利益を追求するあの集団が」


 なぜ黛の事がそれほど嫌いなのか、姿見には分からなかった。それこそ彼女の個人的な怨恨なのかもしれない。しかし今それを聞いたところで正直に堪えてくれるわけでもない。

「あなた、よくしていた女の子に裏切られたんでしょう?なら、もうあの場所にいる理由もないじゃない。中村の子であるあなたを使って暗躍する集団を、あなたの手で解体する。そうすれば学校での立場は安定したものになるわ。あなたこそが天秤の支柱となるかもしれない」


 涙がどうして写真を流出させたのか、詳しい話は聞いていない。ただ、あの少年がぼくを殴ったとき、耳元で確かにそう言っていた。そして、涙のあの反応からそれは事実なのだろう。

 ただそれがどうしたというのだ。彼女と過ごした月日を数えれば、それが故意に起こった事象でないことは火を見るよりも明らかである。きっと涙は自責の念で押しつぶされそうになっていることだろう。それから解放してやれないのは心苦しい。


「もし、それが無理なら、なにが起きるかは分かるよね?」


 高崎は周りに目配せをした。まあ、そういうことだろう。


「分かりましたよ。善処します」


「そうそう。そうすれば、彼女の笑顔も守れるから」


 涙の笑顔なんて見たことないくせに、よくそんなことが言える。


 ただ、こんなことをしたとしても、姿見が放送部を自主的に抜ければ手を下そうが何をしようが関係ない。今躊躇しているのは放送部に迷惑がかかること。そして涙が標的にされること。涙はきっとあの2人が守ってくれる。昭穂もそこら辺の有象無象に負けるほど柔ではないだろう。いざとなれば東風派の手口を曝せばいい。

 姿見は高ぶる気持ちを抑え、ただその場を後にした。


 木漏れ日に腕を曝す。皮膚に映る黒や灰色の斑が本性から浮き出たシミのように汚れて見える。頭上には、名前も知らない花が爆発したように枝葉の隙間から現わし、モザイクのような色彩は、よく映えていた。久しぶりの晴れに浮かれて足取りも軽くなる。これから起こるであろうあれやこれやに苛むのは,もっと後でいいはずだ。姿見は響の杜で物思いに耽っていた。


 小学何年生の時だっただろうか、もう覚えていない。人生における自分の転機とはまさしくあの女性の言葉だった。ポケットにしまってあるメモ帳を取り出す。そこに描かれている世界は、植物だったり、無機物だったり、涙だったり。ボールペンの筆致は迷いなく、姿見の目に映るものをそのままに出力されていた。だから自分の見ている世界と実際の世界のあり方が大きく異なることも知っていた。きっと自分の方が正しいと思って生きてきたから葛藤なんてものを抱いたことはない。


 姿見はただそれを描くことのできる自分の能力に感謝していた。線一本に価値を生み出し、自分の世界を共有できるその能力に。だからあの人の言葉は酷く耳が痛かった。

 姿見は自分の絵を評価されるのを嫌った。その考えは今も変わっていない。それはその評価には必ず外的要因が作用するからだ。でも、描く以上、それは避けては通れない。だから自分を矯正する事にした。

困ったことにそれはあまりにも上手くいきすぎた。そこには涙の助けもあったが、彼自身の観察眼も大いに役に立っていた。誰が何をした、その結果はどうだったか。因果関係の理解を即座にインプットし、喜ばれる行動をはじき出す。それは簡単故に処方する処世術の用量を超過してしまい心理的な疲労を呼び込む。


 いわゆる恐怖だ。いつの日かの姿見は、自分の本来の姿をさらけ出す事に怯えていた。心身の疲労とともに、仮面が割れていくのをどうにか持ちこたえていた。彼の本性は、あまりにも社会不適合で、彼自身もそれを理解しているからこその心労であった。涙にも相談したこともあった。それほど追い込まれていたのだ。


 ただ、その思考と1年も連れ添う仲ともなれば可愛らしく思えてきた。それからは、自分の仮面を破壊することが楽しみで仕方なくなっていた。きっと深層には彼の父親に対する鬱屈とした気持ちも影響していたのだろうが、知るよしもない。その境地に至ったのが中学2年生の冬であった。


 そして今、彼の怯えは自身の崩壊ではなく、彼の自己の形成において多大なる影響を及ぼした2つの要素に帰因する。

 

 言うまでもない。涙と絵である 。そこに彼の全てがあるのだ。それがあるから彼は平気な顔をして生活できていたのである。


 だからそこだけは守らなければならない。いい感じの着地地点を、彼は今模索している。


 カチ。カチ。

 小刻みな音が湿った森に残され。


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