第31話 保健室で女子と二人きりとかいかがわしいにもほどがある
「真琴……」
「こんにちは。須賀先輩」
真琴の膝上には救急箱が乗せられていた。
「どうしたんですか? その傷」
「別に……転んだだけだよ」
「へえ、それはそれは。随分派手に転んだんですね」
そう言って真琴は立ち上がった。こっちに来たかと思えば俺を追い越し、本来養教さんが座るであろう背もたれのある椅子に腰かけた。
「さ、どうぞ」
「どうぞって……何が」
「手当て、するんでしょう?」
真琴はきょとんと首をかしげながら、俺の眼を真っ直ぐ見つめた。
「……いいって。傷の手当てくらい、自分一人でできるよ」
「まあまあそう言わずに」
真琴は笑顔で正面の丸椅子に手を向けた。笑顔に圧を感じる。
「……はあ」
ぶん殴られたダメージで反抗する気力もない。
渋々と彼女の言う通り、椅子に腰を掛けた。真琴は俺のズボンの裾に手をかけ、捲った。
「おい、そこは別に――」
「転んだんなら普通膝とかに怪我ないですか?」
……確かに。
「あれま。膝は大した怪我じゃないですね。器用な転び方をしましたね須賀先輩」
「…………」
「手、見せてください」
俺は両手を真琴に差し出す。てのひらには痛々しい擦り傷があった。
「おー、こりゃひどい。いたそ~」
真琴はピンセットで綿を摘み、消毒液を染み込ませた。
「ちょっと痛いですからねー」
真琴は俺の擦過傷に綿を押し当てた。
いっだだだだ。沁みる!沁みる!
擦り傷ってなんでこう、嫌な痛み方するんだよ。鋭いっていうか強いって言うか。刺す様な痛みだ。
歯医者で歯を削られている時の痛みにも似てる気がする。
「ぽんぽんぽん、と」
「~~~~~~ッッッ!」
「あはっ、先輩すっごい顔してますよ」
真琴は苦痛にもがき苦しむ俺を見てサディスティックに笑う。
「ばっかお前、これ結構痛いんだぞ」
「あはは、なんかイケナイ感じですね☆」
真琴は愉悦の混じった笑みを浮かべる。
こいつ、ゴアグラのグロジャケットやハードプレイのエロ漫画見過ぎて性癖歪んでるんじゃないか?
勘弁しろよ。俺にそんな趣味はない。
「まあ、こんなところでしょう」
ようやく鋭い刺激から解放された。
「次は顔ですね」
真琴は同じように消毒綿を作り、俺の前に立つ。
「じっとしていてくださいね」
顎をクイと持ち上げられ、一瞬ドキッとする。
「お、少女漫画のアゴクイみたいだって思いましたね?」
「いいからさっさとやってくれ」
唇の端を綿でぽんぽんされる。真琴の顔が少し近づいてまたドキドキしてしまう。
……さっきよりは痛くないな。
「ちょっと待っててくださいね」
真琴は氷嚢を二つ取り出し、それぞれに水と氷を入れる。
「はい。これ押さえてください」
二つの氷嚢を俺の頬に当ててくれる。ひんやりしていて気持ちいい。
「しばらくそれ押さえててください。打撲には冷やすのが一番です」
「お、おう。ありがとう……」
「いえいえ」
そう一言零して、真琴は椅子に座った。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。正直気まずい。
真琴も俺の脱退メッセージを見たはずだ。何か言ってくるだろうと思っていたが、一向に聞いてくるそぶりがない。
「……なあ」
「なんですか?」
「その、聞かないのか?」
「ん?」
「その……俺が抜けた理由」
「聞かなくてもわかりますよ」
真琴は平然と答える。
「どうせこれ以上自分がいても迷惑なだけだって思ってるんでしょう?」
「…………」
概ね正解だ。
「まあ、気持ちはわからないでもないです。私も先輩ファーストですからね。先輩の事を想って行動する人の気持ちは尊重したい気持ちはあります」
でも、と真琴は付け加える。その目は少し曇っていた。
「先輩、今日学校に来てないみたいなんです」
「……え?」
橘さんが?
「体調でも悪いのか?」
「さあ。ライン、帰ってきませんから。でも知ってます? 先輩って今の今まで皆勤賞だったらしいですよ? 風邪なんて引いたことがないって言ってたっけ」
「…………」
「須賀先輩。もっと、先輩の気持ち考えてあげてください」
真琴は真剣なまなざしを向ける。
……俺なりに考えた結果だ。出来の悪い頭で考えて、悩んで、苦しんだ結果がこれだ。
「……俺は――」
「須賀先輩は、先輩が情けや義務で須賀先輩と一緒に過ごしていた、なんて想っているんですか?」
「…………」
……確かに、橘さんは俺に同情してくれた。俺の過去や身の上を聞いて、憤りすら覚えてくれた。優しくて正義感のある人だから。
でも、それだけじゃなかった。
橘さんは俺にいろいろ教えてくれたり、時には助けてくれたりしたけど、俺を哀れんだりは決してしなかった。
「……そんなこと、思ってもいないさ。思うはずがない」
「それなら――」
「でも、だからって俺は……」
俺がいたら橘さんに不当な被害が及ぶ。でも、俺がいなくなったら橘さんが……
「どうすりゃいいんだよ……」
ギリリと奥歯が擦れる音がした。さっきまで鉄の味しかしなかった口の中が、妙に塩辛い。
鉄と塩が混ざり合って口内の傷に沁みる。
しょっぱくて、しょっぱくて、痛々しい。
「俺は……どうしたら……」
情けない。
情けなくて、情けなくて、
自分が嫌になる。
何もかもがうまくいかない。
一緒にいてもダメだ。かと言って離れたらこのザマだ。
俺は、どうすればよかったんだろう。なにがしたかったんだろう。
俺は――
「先輩、血!」
「へ?」
真琴は自分の口元を指さした。
「ほら、口! 口から血が垂れてる!」
口元を手で拭う。赤い液体が付着していた。
殴られたときに口の中も切っていたのを思い出す。そりゃあ鉄の味は消えないわな。
「あーもう! 口の中切っちゃってるじゃないですか!」
真琴は先程と同じ消毒綿を作ったかと思いきや、俺の下唇をひっつまんで引っ張った。
「ほらほらやっぱり傷が」
真琴は俺の下唇の裏側に綿を押し当てた。唾液が手に付着することなどお構いなしだ。
「ひ、ひみる!ひみる!」
「私はしみませーん」
「ひみーる!ひみーる!」
「しみなーいしみなーい」
さらに口内をがばっと開けられ、マジマジと観察される。
真琴は狙いをさだめて、ピンセットごと綿を突っ込んだ。患部にジュクッと消毒液がしみ込んだ。
「な、なんて奴だ……」
解放された俺は普通に涙を流していた。
この涙は痛みによるもので、決して感情がこみ上げてきたものではない。
いや、痛みで泣くのも情けなくて嫌になるな……。
「須賀先輩は考え過ぎなんですよ」
真琴はそう言って救急箱を片付ける。
「もっと普通に考えればいいんですよ」
「……なんだよそれ」
普通とか当たり前とか。そんなの人によって基準が変わるじゃないか。
圧倒的少数派の俺が普通なんてわかるわけがない。そうじゃなかったらぼっちなんてやってない。
「シンプルですよ。先輩は噂なんて気にせず元気に登校してました。でも須賀先輩がいなくなったら学校に来なくなって連絡がつかなくなった。だったらもう須賀先輩のやることは決まってるじゃないですか」
真琴は再び俺の正面に座る。
「須賀先輩は先輩の隣にいてもいいと思います」
「…………」
「私達はちゃんと見てましたよ。どんなに殴られても決して口を割らなかった須賀先輩の姿」
「っ! 見てたのか!?」
「感謝してくださいよ? 私と幸がいなかったら、國馬先生が気付くこともなかったんですから」
そういえば、随分とタイミングよく國馬先生が職員室の窓からこちらを見下ろしたと思った。
「かっこよかったです。ロックって感じで」
そうか。真琴達が助けてくれたのか。
「だから待ってますよ」
真琴は最後に俺の両頬にガーゼを貼って、
「言ったでしょう? 逃がしませんよって」
いつも通りきゃるんとウィンクをした。
ガラッとドアが開かれる。振り返ると塚見さんが立っていた。
「……やっぱりこっちにいた……」
「え?」
「須賀先輩の行く場所を予測して先回りしてたんです。職員室かここだろうなって」
「私は職員室担当……」
塚見さんはこちらに近づいて俺に何かを手渡してきた。
「これ、返してなかったから」
封筒だ。
「メロンパンの」
いつか、塚見さんの代わりに購買でメロンパンを勝ち取ってきたことがあった。そういえばお金は貰っていなかったかもしれない。
中には150円が入っていた。それともう一つ何か入っている。
なんだこれ、木で作られた札? 謎の文様が描かれている。
「なに?これ」
「開運梵字護符【十一面観音菩薩】」
ほ、本当になんなんだこれ……
「早く仲直りしてね」
そう言って塚見さんは踵を返して去って行った。真琴もそれを追うように保健室から出た。