第一章:出会った二人の欠けし者たち⑦
暁闇の降りた森の木々の間から、白い光が静かに降り注いでいた。
紺碧の空に浮かぶ月は盈ち、尾のように残像を描きながらちらちらと星が走り抜けていく。
ダイニングテーブルで酒を垂らしたミルクをドゥーエが舐めていると、台所から何かが焼き上がる香ばしい香りが漂ってきた。
夕飯はとうに済み、片付けものが終わったシュリはベッドに腰掛けて紐で何かを編んでいる様子だった。
シュリは黄土色の紐を円状に編み上げると、ベッドから立ち上がった。台所へと向かい、彼女は竃の様子を確認する。
「うん、いい感じ」
シュリは焼き上がったものの具合を見て、そう独りごちた。ドゥーエはミルクを飲み干すと、椅子から立ち上がり、台所を覗き込む。
「こんな時間に何をやってるんだ? 夕飯ならさっき済んだだろう?」
「うん。今日はね、ちょっと特別」
シュリは部屋の奥の戸棚から温かみのあるクリームイエローのデザートディッシュを出してきて、こんがりとした狐色に焼き上がったそれを盛る。
「ドゥーエ。ちょっと外、付き合ってよ」
外、とドゥーエは怪訝そうに眉根を寄せる。
「構わないが、どうかしたのか?」
行けばわかるから、とシュリはベッドの上に置いたままの紐の編み細工を拾い上げる。彼女は戸惑うドゥーエをよそに、左手に皿、右手に編み細工を持ってチーク材の扉を肘で押し開ける。ドゥーエはベッドの背にかかっていたグレーのバイアスチェックのブランケットを手に取ると、彼女の後を追った。
外に出ると、シュリは軒から円状の紐細工を吊るしていた。
「それは何なんだ?」
「ドゥーエ、見たことない? これは収穫祭の飾りなんだけど」
「収穫祭?」
シュリは足元に皿を置くと、軒下に座り込んだ。ほら、と木々の間から覗く玉輪を彼女は指差した。ドゥーエはシュリと視点を合わせるように、皿を挟んで彼女の隣に腰を下ろす。
「ほら、今日、満月でしょ? 毎年、この時期の満月の夜はどこの街も収穫祭が行なわれるんだけど、知らない?」
「いや……知らない。ずっと旅暮らしで、あまりひとところに留まることをしてこなかったからな」
ドゥーエは自分が”人喰い”であることには触れないようにしながら、収穫祭を知らない理由を曖昧にぼかす。ふうん、と相槌を打ったシュリはそれ以上、ドゥーエの事情を深掘りしようとはしなかった。
「町では本当は七面鳥の丸焼きとかいろいろなご馳走を食べてお祝いするんだけど、こんなところで一人で住んでるとさすがにそんな余裕はないから。
それでも気分くらいは収穫祭を味わいたいなって思って、毎年、飾りとスコーンくらいは作るようにしてるんだ」
あったかいうちに食べよう、とシュリは生地にとうもろこしが混ぜ込まれたスコーンをドゥーエへと勧める。「貰おう」ドゥーエはまだほくほくと温かいスコーンを手に取った。
シュリも自分の分のスコーンを手に取ると、二つに割る。宵闇を白い湯気がふわふわと漂い、空気の中に溶けていく。隣でそれをドゥーエがなんとはなしに眺めていると、シュリがくちゅんと小さなくしゃみをした。
「寒いのか?」
「うん……まあ、ちょっと。こんな薄着で出てきちゃったしね」
ドゥーエは傍らに置いていたブランケットを広げると、シュリの背にかけた。ありがと、とシュリははにかんだように笑う。
「ドゥーエは寒くない?」
「俺のことは気にしなくていい」
そんなこと言って、とシュリは肩をすくめる。シュリはスコーンを皿に戻すと、皿を自分の膝に置いた。そして、シュリはドゥーエへと体を寄せると、彼の背にもブランケットをかけてやった。
「こうすればあったかいでしょ?」
シュリは得意げにそう言うと、スコーンを齧る。まあな、とドゥーエは気恥ずかしいのか、シュリから視線を逸らす。
月明かりに照らされて彼の長い黒髪はしっとりとつやめき、赤の双眸は宝石のような美しさを帯びている。月を弄する白皙の美貌はどこか神々しく、シュリは一枚の絵画を見ているかのような錯覚に襲われた。
「……どうかしたか?」
シュリの視線に気づいたのか、口の中のスコーンを飲み下すと、ドゥーエは訝しげな声を向ける。
「何でもないよ」
シュリは二個目のスコーンを手に取りながら、ドゥーエの肩に自分の肩を触れさせる。彼と過ごすうちにこの温もりが心地よいとシュリはいつの間にか感じるようになっていた。
スコーンは毎年作るものと同じ味のはずなのに、今年はやけに美味しく感じられる。自分一人なのか、誰かと一緒なのかというだけで、こんなにも違うのかとシュリはしみじみと思う。
(もしかしたら……ドゥーエとだから、なのかもしれない)
シュリにとって、ドゥーエはだんだんと特別な存在になりつつあるのを感じていた。それは家族のようで家族でなく、友達のようで友達でない、他人ではない何かであった。
月影に照らされた夜空は、いつもよりも透き通って美しくシュリの目に映った。ぽろり、とこぼれ落ちるように星が視界を流れていく。
今年の月は一段と美しい。その理由をそのときのシュリはまだ深く考えようとはしなかった。
皓月が身を寄せ合う二人の姿を静かに照らしている。スコーンの香ばしい匂いが夜風によって持ち上げられ、うっすらとした湯気とともに辺りを揺蕩っていた。