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第一章:出会った二人の欠けし者たち④

 シュリとドゥーエが共に暮らし始めてから数日が経った。床でブランケットに包まって眠っていたシュリがもぞもぞと早朝に起きだした音でドゥーエは目覚めた。火の消えた暖炉の上の壁に吊るしていたココアブラウンのケープを羽織り、外へ出ようとしている彼女を、まだ半分眠りの世界に意識を残したままのドゥーエは呼び止める。

「ん……シュリ、どうした?」

 欠伸を噛み殺しながらむにゃむにゃとそんなことを問うたドゥーエにシュリは苦笑して、

「ごめん、起こしちゃった? まだ早いし、ドゥーエは寝てていいよ」

 ドゥーエはベッドから上体を起こすと、肩の傷に障らないように気をつけながら伸びをした。眠りの妨げにならないように緩められたシャツの胸元や、腰まである寝乱れた黒髪、半ば伏せられたままの暗赤色の双眸がやけに蠱惑的に存在を主張していて、シュリは少しどきりとした。

「お前はいつも、こんなに早い時間に起きているのか?」

 ドゥーエの疑問をシュリはまあね、と肯定した。先程の動揺を気取られないようにシュリは早口に、

「朝のうちにやらなきゃいけないことがいろいろあるから。川に水汲みに行ったり、(たきぎ)集めに行ったりとか」

「俺も行こう。ずっと寝たきりというのもあまり良くないからな。着替えるから、少し待っていてくれ」

 自分のぬくもりと夢の名残の残るシーツの間からドゥーエは抜け出ると、オールドブルーのダブルガーゼのシャツをするりと脱いだ。治りかけの生々しい傷が残る、細身だが程よく筋肉の付いた均整の取れた背中が長い髪の間から覗き、シュリの心臓はどくりと鳴った。見てはいけないような気がするのに、男の素肌が放つ色香から目が離せなかった。

「シュリ?」

 ベッドの背に掛けた黒いウールのアンダーシャツを手に取りながら、ドゥーエは訝しげにシュリを振り返った。名を呼ばれたシュリははっとして、剥き出しのドゥーエの背から慌てて視線を逸らす。何故か頬が熱かった。

「あっ、ドゥーエどうかした?」

「それは俺の台詞なんだが……ぼんやりしていたみたいだが、具合でも悪いのか?」

 自分を案じるドゥーエの言葉に、シュリはぶんぶんと首を横に振る。彼の裸体にうっかり見入っていたなどとは言えるはずがなかった。

「ううん、何でもない。ちょっとまだ眠かっただけ。あ、そうだ、着替えのついでに傷口診ちゃうね」

 適当な理由をでっち上げると、シュリは棚から傷薬の入った小瓶を取ってきて蓋を開ける。薄緑色の軟膏をシュリは右の人差し指に取ると、これはただの治療だと自分に言い聞かせながらドゥーエの背中へと触れる。しかし、男を感じさせる少しごつごつとした背中のぬくもりに、シュリの心臓がうるさくなる。

(あたし、なんか今日変……! 何でこんなに意識してるんだろ……)

 自分の無意識の反応に混乱しながらも、シュリはドゥーエの左肩の傷に軟膏を塗っていく。傷口はまだ少しジュクジュクとしていて、周囲が腫れていたが、多少動く程度なら問題はないだろう。

「シュリ、終わったか?」

 日に焼けた薄いコットン生地のカーテン越しに、朝の色を帯び始めた空を眺めていたドゥーエはそう訊ねた。シュリは羞恥と困惑で手を震わせながら、清潔なガーゼを傷口に貼り付けると、こくこくと頷いた。

「う、うん……っ」

「ありがとう。……シュリ、震えているみたいだが、どうかしたのか? 寒いのか?」

 自分の背に触れるシュリの手が震えていることに気づいたドゥーエは、シュリを振り返る。仄かな色艶を感じさせる白皙の美貌と男らしい逞しさのある裸の胸元が視界に飛び込んできて、シュリは顔を赤らめた。ドゥーエは怪訝そうに眉根を寄せると、膝を屈め、シュリの額に自分の額をくっつけた。

「シュリ、顔が真っ赤だぞ。熱は……無いみたいだが」

 至近距離でドゥーエの赤い瞳に見つめられたシュリは、慌てて彼から距離を取ると、

「全部全部、ドゥーエのせいでしょ! 何でもいいからさっさと服着て! 早く!」

「あ、ああ……悪い」

 何が何だかわからないまま、とりあえずドゥーエは詫びの言葉を口にすると、アンダーシャツの袖に腕を通す。大きな黒い目をわずかに潤ませてこちらを窺っているシュリのことを”喰って”しまいたいという食欲と紙一重の凶暴な欲求がむくりと大きくドゥーエの中で頭をもたげた。しかし、そんな彼女のことをどこかに大事にしまっておきたいような気もして、何だか変な感じだとドゥーエは思った。

 体の中を下りていく欲望に馬鹿馬鹿しいとドゥーエは蓋をすると、シュリの父の物だったというチャコールグレーのニットカーディガンをアンダーシャツの上に羽織った。ドゥーエは自分の黒いブーツに足を滑り込ませると、

「すまない、待たせたな。それじゃあ、行こうか」

 着替えを済ませると、ドゥーエはシュリに声をかける。うん、と頷くシュリの声は少し硬かった。

 何か彼女の気分を害するようなことをしただろうか。シュリに対して妙な気を起こしかけたことを悟られたわけではないと思う。一体何が悪かったのだろうかと、先程のシュリの言葉のを頭の中で反芻しながら、ドゥーエはシュリと共に小屋を出た。

 ザクッ、ザクッとドゥーエの古びたブーツの下で、かさかさに乾いた茶色い落ち葉が音を立てた。顔に触れる秋の朝の森の空気は、少し水気を帯びて湿っぽく、ひんやりとしている。

 シュリは両手に(かめ)を抱え、慣れた足取りで木立の続く森の中を歩いて行く。その後ろをドゥーエは微妙な距離感を保ちながらついていった。あまり近づきすぎると、なぜか先程のように彼女に怒られてしまいそうな気がしていた。

 シュリに連れられて、しばらく森の中を歩き続けていると、ドゥーエは辺りの空気が変わったのを感じ取った。近くで水の流れる音がしている。シュリはドゥーエを振り返ると、

「この茂みの向こうが河原になってるの。それで、あたしがドゥーエを見つけたのはもう少しあっちの方」

 森の奥へと続く細い道を手で指し示され、なるほど、とドゥーエは頷く。言われてみれば、シュリの示す先に広がる光景におぼろげに見覚えがあるような気がした。

「あたし、水汲んでくるから。ドゥーエは適当にこの辺散歩しててよ」

 そう言うと、シュリは空の瓶を抱えて、赤いニシキギの茂みの中へと消えていった。どうしたものか、とドゥーエは軽く肩をすくめた。

(そういえば、(たきぎ)も集めにいかないといけないようなことを言っていたな……)

 手持ち無沙汰になったドゥーエは辺りに落ちている枝の中から、程よい太さのものを拾い集め始める。地面に降りた朝露を吸った枝は、少し湿ってしまってはいたが、しっかり乾かせば充分に使えそうだった。

 (たきぎ)に使う枝は一本一本は細く軽いため、それほど嵩張りはしないものの、量が増えてくると、水分を含んでいることもあって、ずっしりとした重さが腕にのしかかってくる。普段はシュリが非力なはずの少女の細腕でこういった力仕事をこなしているのだと思うと、彼女のことをいじらしく感じた。野に咲く花のように一人で強く生きようとするその在り方に、なぜかドゥーエは胸が締め付けられるような気がした。

(シュリといるのは危険だ。このままでは何か……取り返しのつかないことになるような気がする)

 我ながららしくないと思った。”人喰い”であるドゥーエは、これまでただの捕食対象に過ぎない人間にこんなふうに心を傾けたことはなかった。喰えるかどうかという以外のことで人間に関心を持つことなどなかった。しかし、シュリと出会ってからのこの数日で、自分を自分たらしめていたはずのものが音もなく少しずつ崩れ去っていっているような不思議な感覚をドゥーエは味わっていた。

「ドゥーエ」

 がさがさとニシキギの茂みが揺れ、両腕に水がなみなみと入った素焼きの瓶を抱えたシュリが姿を現した。彼女はドゥーエの手元を見やると、

(たきぎ)、集めておいてくれたんだ? ありがと、助かる」

「……別に礼を言われるほどのことではない」

 シュリから向けられたはにかんだような笑顔と言葉が、何だかこそばゆくてドゥーエは顔を背けた。あまりにも素っ気なさ過ぎたかと思い直すと、ドゥーエはシュリが抱えた瓶へと手を伸ばし、

「それを貸せ。家まで持って行ってやる」

 言うが早いか、ドゥーエは水が入った(かめ)をシュリの腕の中から奪い取った。左手に瓶、右手に枝の束を抱えると、何をやっているのだろうと自分自身に呆れながら、ドゥーエは踵を返した。左肩の傷が痛みを訴えたが、ドゥーエは顔には出さなかった。

 呆気にとられていたシュリはありがとうと小さく呟いた。ドゥーエは互いの不器用なそのやり取りが何故か尊く思えて、ふっと表情を和らげた。

(もう少し……身体の傷が癒えるまでなら、こういう時間が続くのも悪くないのかもしれない)

 ドゥーエの心境を知ってか知らずか、シュリは先を歩く彼に追いついてきて横に並ぶと、

「ドゥーエ、帰ろっか。帰って朝ごはんにしよう」

「ああ」

 言葉と視線を交わし合うと、二人は連れ立って家への道を引き返し始めた。秋色に色づいた木の葉の先で、朝日を受けた雫が無垢な煌めきを放っていた。


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