第一章:出会った二人の欠けし者たち③
妙なことになったものだ。暗闇の中、木の天井を眺めながらシュリは小さく息を吐いた。背中の下の木目の床はごつごつと固く、冷たい。
(本当に何やってんだろ、あたし……)
シュリが床で寝る羽目になった元凶たるドゥーエは、シュリのベッドの上で彼女に背を向けるようにして痩せた身体を横たえ、シーツに丸まって寝息を立てていた。傷が痛むのか、時折小さく呻き声を漏らしている。
今朝、川の近くの木立の中で見つけたドゥーエをこの家に運び込んだのは、仕方のないことだと言えなくもない。怪我の手当てをしたことだって、まだぎりぎり仕方ないで済ませられる範疇だと言えないこともない。
しかし、ドゥーエが”人喰い”だとわかっていながら、意識を取り戻した彼に『何日でもいてくれて構わない』などと言ってしまったのは、我ながらやり過ぎたと思った。目が覚めたらすぐにでも叩き出してやると決めていたはずなのに、何という体たらくだろうか。この家に自分以外の存在がいるのが物珍しくて、今日の自分は浮かれていたのだろうとシュリは己を苦々しく思う。
(だけど……今日は珍しく、夕飯が美味しかったような気がする)
夕方、シュリが作った玉ねぎと生姜のスープをドゥーエと一緒に食べた。どんなに腕によりをかけたとしても、普段ならどこか味気なく感じてしまうそれが、今日はやけに美味しく感じられた。
シュリは特段お喋りな性質ではない。ドゥーエも物静かな性質なのか、食事をしている間も、時折一言二言言葉を交わす程度で会話らしい会話もなかった。それでも、ドゥーエと囲む食卓はシュリにとって意外なほどに心地よかった。
(……駄目だ。あいつに――ドゥーエに気を許しちゃいけない)
夕方、シュリのベッドで目覚めたドゥーエは拍子抜けするくらい普通だった。シュリにとって”人喰い”はもっと獣じみた恐ろしい生き物だったにもかかわらず、ドゥーエとは普通に会話が成立したし、一人で暮らすシュリを気にかける素振りすらあった。”人喰い”だとはいえ、ドゥーエは普通の人間と大して変わらなかった。
(でも……あいつのあの態度は罠かもしれない。きっと、あたしをそうやって油断させて、”喰う”つもりなんだ)
現状、ドゥーエがシュリを”喰う”素振りはない。それでも、いつ彼がシュリに牙を剥くかわかったものではなかった。
絶対に油断しないようにしないと、とシュリは内心で己を戒めると、グレーのバイアスチェック柄があしらわれた厚手のブランケットの中に潜り込んだ。
「……おやすみ」
既に夢の中にいるドゥーエに聞こえるはずもないとわかっていながらも、シュリは小さな声でそう呟いた。一拍遅れて、もう何年も口にしていなかったその言葉がじわじわと胸の中を満たしていく。
なんだかなあ、と思いながらもシュリはブランケットの中で目を閉じる。閉じた瞼の裏では、ドゥーエと囲んだ食卓の暖かな情景がちらついていた。
儚く脆い泡沫の夢をあとほんの少しだけ見ていてもいいだろうか。ぼんやりとそんなことを考えたのを最後に、シュリの意識は穏やかな眠りの波間へと溶けていった。
◆◆◆
くつくつと鍋の中で液体が煮える音がしていた。立ち昇る湯気からはすうっとした薬草の香りがしている。
ドゥーエを拾った翌日の昼下がり、シュリは薬を煎じていた。軽い昼食の後に飲ませた抗生物質の影響か、ドゥーエはシュリのベッドで眠っている。
(意外。こんなにも何もないなんて)
”人喰い”であるはずのドゥーエが自分を”喰う”どころか、危害を加える素振りすらないことに、シュリは肩透かしを食らったような気分だった。昨夜だって、眠っているうちにシュリを喰ってしまうことだってできたはずなのに、なぜかドゥーエはそうはしなかった。
変なの、と呟きながらシュリは匙で鍋の中身が焦げつかないように掻き回す。今、シュリが作っているのは、ドゥーエに飲ませるための痛み止めの薬だった。
(変なのはあたしも同じなのかもしれない)
この家に自分以外の誰かがいる――それが”人喰い”であるにもかかわらず、そのことを少し嬉しく思ってしまっている自分がいる。ドゥーエに心を許しかけてしまっていることをシュリは自覚していた。
(だって……ドゥーエはあたしの思っていた”人喰い”とは何か違う)
”人喰い”など、人間を見れば問答無用で”喰らう”だけの化け物だとシュリは思っていた。実際、シュリは八年前に両親を”人喰い”の女によって喰い殺されている。噎せ返るようなあの血の匂いと恍惚とした笑みを浮かべて見せたあの女の姿をシュリは今でもありありと思い出すことができる。
しかし、昨日、シュリが拾ってきた彼はただの化け物と言い切ってしまうには随分と理性的だった。
人間と同じように”人喰い”にも個体差があるのだろうか、とシュリは思う。シュリが耳にしたことのある”人喰い”の話は、どれもあの女のように猟奇的で、ともすれば快楽のために人を喰い殺すようなものばかりだ。そういった一般的な”人喰い”の姿とドゥーエはかけ離れているように思えた。
(あたしに危害を加える気がないならそれでよし。ただ――あいつにあまり肩入れしないようにしないと。所詮はあたしたち人間とは違う生き物……裏切られたときにがっかりしたくないし、何よりあいつはずっとここにいるわけじゃない――怪我が治ったら出ていくんだから)
そう言い聞かせながら、シュリは緑色の液体の入った鍋を竃から下ろす。粗熱が取れたら、瓶に詰め替えて、夕飯の後にでもドゥーエに飲ませないといけない。
今日の夕飯は何にしようか。昨日、森の中に生えていたおいしいキノコを何種類か使って、リゾットでも作ろうか。頭の中で思案を巡らせながら、シュリは小さなカップでざるへともち麦を計って移し替えていく。
「……あ」
何も考えずに二人分の分量でもち麦を計っていたことに気づき、シュリは小さく声を漏らした。どうやら自分は、ドゥーエのせいで随分と浮ついてしまっているらしい。昨日といい、今日といい、彼と囲む食卓が思いがけず温かく居心地の良いものだったのが全て悪い。
ドゥーエが出ていくまでのほんの少しの間。自分の身に危険が及ばない範囲でなら、彼が自分のそばにいるこの状況を受け入れてもいいような気がした。
まずはドゥーエのことを知りたい。彼はあの女とは違うのだということを確かめたかった。
そのためにはもっとドゥーエと話をしないといけない。二人で囲む食卓を彩る食事を用意すべく、シュリはもち麦の入ったざるを流しへ持っていくと、甕から水を汲んできてふやかしはじめる。
ちろちろと竃の火が揺れる音とすうすうというドゥーエの安らかな寝息が家の中に響いている。窓から差し込む金色の日差しは西へと傾き、夕刻が近いことを知らせていた。