エピローグ:閉じた世界の真ん中で
ざく、ざくと森の奥へと向かって、深雪の上に一人分の足跡が刻まれていく。獣たちの大半が冬の眠りについてしまっていることもあり、時折どこかで雪の落ちる音がする以外はひどく静かだった。
氷の花がきらきらと光るハギの茂みを抜け、見覚えのあるハゼノキの前まで来ると、ドゥーエは足を止めた。この場所は、かつて八年前にシュリが”人喰い”に両親を喰われたという場所だった。
彼女の遺体をあのままにしておくのは、あまりに忍びなかった。シュリがこの世を去った後、ドゥーエは自身の身体を少し休めると、彼女を弔うために最後の力を振り絞ってここを訪れた。この場所を選んだのは、彼女が一人で寂しくないようにと思ってのことだった。
ドゥーエは大切に腕に抱きかかえていた少女の亡骸を、葉が散ったあとのハゼノキの根本へとそっと横たえた。以前にシュリが両親へと手向けた白いアスターの花束が、水分を失ってからからに乾燥した姿を雪の下から覗かせていた。
ドゥーエは着ていた黒い外套を脱ぐと、雪の上で眠る少女の細い身体へと掛けてやった。矢で射られた彼の肩の傷には、止血のためにシュリの作ったハンカチが申し訳程度に巻かれている。彼女の亡骸の横に腰を下ろすと、ドゥーエは細く骨ばった手で愛おしげに彼女の短い黒髪を撫でた。
「シュリ……」
愛しい人の名前が、吐き出された息と一緒に冬の沈黙の中へと溶ける。傍らの少女が返事をすることはなく、森の中に満ちる静寂が彼女はもうこの世にはいないのだという現実を痛いほどドゥーエに突きつけていた。
人間の風習では故人の亡骸を土の下に埋葬するのだということはドゥーエも知識として知っていたが、そんなことはできそうになかった。まだ生きているのが不思議なくらいに衰弱しきった今のドゥーエには、人間一人を埋めるための穴を掘るだけの力など残されていなかったし、何より冷たい土の下に彼女を埋めてしまえば今度こそ彼女と永遠の別れになってしまいそうな気がした。
だからといって、彼女が最期に望んだように、彼女を喰らい、生き延びるような真似は出来そうにもなかった。本能はそれを激しく渇望していたが、死に瀕してなお、心がそれを拒み続けていた。
「どうするか……」
花でもあればよかったな、とドゥーエはぼんやりと思う。彼女にはどんな花が似合うだろうか。どんな花を贈れば、彼女は喜んでくれるだろうか。
しかし、雪に閉ざされたこの季節のせいで、彼女へ手向ける花束など、用意できそうにはなかった。それにどのみち、花を探しに行く体力など、もうドゥーエにはない。
そうだ、と思いついて、ドゥーエはシュリの身体にかけた外套かのポケットから、短剣を取り出した。それを墓標に見立てて、地面へと突き立てる。
「ないよりはまし、か……」
ドゥーエは短剣を見やると、満足気に頷いた。無骨ではあるが、彼女の両親の形見でもあるというし、ないよりはずっといいだろう。
「あ……」
そのとき、ぐらりと身体が傾いだ。起き上がろうとするが、身体に全く力が入らず、微塵も動かない。ずっと気力だけでどうにかしてきていたが、今度こそ本当に限界のようだった。
不思議なくらい、ドゥーエの心は凪いだように穏やかだった。あれほど自分を苛み続けていた全身の痛みや倦怠感が今はひどく遠い。ああ、自分も死ぬんだな、とドゥーエは思った。
シュリは最期にドゥーエが生きることを望んだが、どうやらそれは叶えてやれそうにはなかった。それだけが心残りだったが、それでも最期にここまでやれたことは我ながら上出来だと思った。大切な人のことを想いながら死んでいけるのは、自分のような化け物には過ぎた幸福だとも思った。
「シュリ……すまない……」
ドゥーエは最期に気力の残滓をかき集めて自分のものではないように重い左腕を動かし、固く冷たくなったシュリの右手に指を絡めた。ドゥーエは白く霞みゆく視界に映るシュリを愛おしげに見つめた。だんだんと瞼が閉じていき、視界から光が失われていく。
眠りにつくときのように、ふうっと心地よい闇の中に意識が沈んでいく。己の生から意識を手放す直前、ドゥーエ、と彼の名を呼ぶシュリの声を聞いた。閉じたままの瞼の裏側で、幽世の闇の中からシュリがドゥーエへと向かって手を伸ばしているのが見える。
――まったくもう。生きてって言ったのに、ドゥーエは仕方ないなあ。
呆れたように笑う彼女の手をドゥーエは取った。世界で一番愛しいぬくもりと感触が、繋いだ手を通じて伝わってくる。
――一緒に行こう、ドゥーエ。強くて、弱くて、不器用で優しい、あたしが世界で一番大切なひと。
ほら、とシュリがドゥーエの手を引いた。ドゥーエは手を引っ張るその力に抗うことなく、されるがままにしていた。
ぷつり、とドゥーエは自分を現世に繋ぎ止めている何かが切れる音を聞いた気がした。何かから解き放たれたかのように、身体が羽のように軽くなるのを感じる。あんなにも身体を苛み続けていた苦痛も嘘のように感じなかった。これで自分もシュリと同じ向こう側へ行けるのだとドゥーエは思った。
「シュリ……ありがとう。愛している。この先も……」
この先も俺たちはずっと一緒だ。その言葉が彼の口から紡がれることはなかった。つう、と温かな涙が頬を伝い落ちた。
森の木々の間を吹き抜けていく冷たい雪風が二人の髪を揺らした。さらさらと降り始めた雪空の下、二つの人影が寄り添い合うように横たわっていた。