第五章:繋ぎとめゆく最後の鎖⑤
シュリの待つ家まであともう少し、というところでドゥーエはよろめき、倒れた。視界がぐるぐると回っていて気分が悪いし、もう一体どこが痛いのかわからなかった。
清冽な白色が視界に映る。腫れ上がった頬に触れる、溶融と凍結を繰り返して固くなった粗目雪の冷たさに、少しずつ思考が冷静になってくる。
(何をやっているんだ、俺は……)
彼女のことを思ってノルスに医者を呼びに向かった。しかし、結果はこの体たらくだ。医者も連れてこれず、こんなふうにぼろぼろになっただけで何もできなかった。俺は駄目だな、とドゥーエは自嘲で口元を歪める。
身体に力が入らなかった。元々”断食”の飢えによってひどく衰弱しているのを押してノルスに向かったのだ。そんな状態であのように一方的な暴行を受けた上でここまで帰ってこられたのは最早奇跡だといっても過言ではない。痣の出来た口の端を血の筋がつっと伝って、顎を流れ落ちていく。
ドゥーエは口元の血を拭うものはないかと、ぼろぼろになった外套のポケットを探った。「……ん?」外套のものとは異なる柔らかな布地が指先に触れ、ドゥーエは緩慢な動きでそれを引っ張り出した。
(あ……)
紺地に白と赤のバイアスボーダーが走った布地。赤いポインセチアの刺繍。丁寧に心を込めて作られたそれは、いつだったかシュリが縫っていたハンカチだった。
(俺は……どうして何もできないんだ)
ドゥーエはぐしゃりと手の中のハンカチを無力感とともに握りしめた。
銀華を纏った木々の間から冴え冴えとした光が降り注いでいる。夜空に浮かんだ氷輪は南西へと傾き始めていて、もう夜も遅いことをドゥーエに知らせていた。
シュリはまだ待っていてくれているだろうか。そう思いながら、ドゥーエはずっしりと倦怠感で重い手足を動かし、雪の上を這って進み始めた。今の彼にはもう立って歩くだけの力は残っていなかった。
全身を雪まみれにしてどうにか家まで帰り着くと、ドゥーエはウォールナットの引手に手を伸ばし、どうにか扉を押し開ける。扉の隙間にぼろぼろになった痩躯を押し込み、ドゥーエは部屋の中へと転がり込んだ。
「ドゥーエ……?」
気配に気づいたのか、ベッドの上のシュリが彼の名前を呼んだ。ぜえぜえと苦しげな吐息にかき消されそうなか細く小さな声だった。
「来て」
ドゥーエは床を這って、ベッドへと近づいた。雪まみれで傷だらけのドゥーエの姿を認めると、シュリは仕方ないなあ、と柔らかい顔で笑った。
「まったく……あたしなんかのために、そんなふうにぼろぼろになって。顔もそんなに腫れて……せっかくの綺麗な顔が台無しじゃない」
「このくらいのこと、どうだっていい。お前が助かるなら、このくらいの怪我、いくらだってしてやる。お前が死なないで済むなら、お前に恨まれたって、憎まれたって構わない」
ドゥーエはシュリの右手を掴んだ。青紫色になって斑点が浮いたその手からは生の温度が既に失われ、脈拍が感じられなかった。いよいよそのときが来るのだとドゥーエは血で汚れた唇を噛んだ。
「ドゥーエは馬鹿だなあ。全部あたしのことを思ってやってくれたんだってわかってる。だから、ドゥーエのことを憎んだり恨んだりなんてしないよ。
でもね……もういいよ、ドゥーエ。もう、あたしのためにそんなふうに無茶しなくていいんだよ……」
下顎で喘ぐような呼吸を繰り返すシュリの喉の奥でごろごろと音が鳴った。力の失われた黒い目から透明な雫がこぼれた。
「あたしね……少しの間だったけど、こうやってドゥーエと暮らせて楽しかった。幸せだった。こんなふうに思ったの、お父さんとお母さんが死んでから初めてだった。だからもう……充分だよ。
あたしを食べて、ドゥーエ。あたしはもう助からない。だったらせめて、ドゥーエと一つになることで、ずっとドゥーエのそばにいたい。
ドゥーエはこれからずっと長い時間を生きていくから、いつかあたしのことを忘れる日が来るかもしれない。それでも、ドゥーエが幸せに生きていてくれれば、あたしはそれでいいから……だから、あたしを食べて。その生命を繋ぐために。――生きるために」
嫌だ、とドゥーエは激しくかぶりをふった。自分が生きるためにシュリを”喰う”など、できるはずもなかった。
「シュリのことを”喰う”なんて、絶対に俺は嫌だ! お前のことを”喰って”、これまで通りに生きていけるわけがない!」
怒りとも悲しみともつかない感情で精神が昂っていく。こんなふうに生まれてしまった自分の運命が憎かった。
「俺が……俺が、”人喰い”でなければ良かった……。俺が”人喰い”でなければ、こんなふうにシュリに辛く苦しい思いをさせることもなかったし、シュリを助けることだってできたはずだ……! 俺が”人喰い”だから、シュリのために何もしてやることができない!」
そんなことない、とシュリは冷たい手でドゥーエの顔に触れた。彼を見つめる目の焦点は定まりきらずに細かく揺れている。
「ドゥーエ……そんなこと、ない。ドゥーエは……ひとりぼっちだった、あたしに……いろんなものを、くれたよ……。誰かと過ごす、あたたかさも……誰かと、一緒にテーブルを囲む、幸せも……、誰かを好きになる、喜びも……。全部、全部……ドゥーエと出会わなければ、あたしは……知ることなんて、なかった……」
だんだんとシュリの声が細く小さくなっていく。けほっ、けほっ、と時折混ざる咳の音が弱い。
「シュリ……」
ドゥーエが見つめた彼女は滲み、まるで少しずつ、この世から輪郭が消えていこうとしているような気がした。今にも消えてしまいそうな命の残り火を燃やしながら、シュリはゆっくりと、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ねえ、ドゥーエ……好き、だよ……。愛……して……る……。だか……ら……」
だから、生きて。その言葉を最後に、シュリは瞼を閉じた。たまらなくなって、ドゥーエは青紫色のシュリの唇に自分のそれを重ねた。その幸せな感触が、シュリにとって最後の記憶となった。
びくっ、びくっと跳ねるようにシュリの身体が大きく痙攣した。「シュリ!?」驚いたドゥーエは押さえつけるようにして、シュリの冷たい身体を抱きしめた。
「うあっ……んぐっ………あっ……」
瞼は閉じられたままで、シュリに意識はない。喘ぐように苦悶の声を漏らしながら、彼女は弓なりに身体をのけぞらせていく。死すら安らかに迎えることができないシュリが痛ましくてたまらなかった。
弓反りになって強張った細い身体から、命を刻む心音が少しずつ弱く、ゆっくりになっていく。
とくり、とく、ん。とく、とかすかな鼓動を刻んだのを最期に、彼女の生命は時間を止めた。
死に際まで、あれほど苦しんだはずなのに、少女の死に顔は満足気で穏やかだった。カーテン越しにうっすらと差し込み始めた淡い色の朝日に照らされたその顔は柔らかな微笑を浮かべていた。
「シュリ……シュリ! シュリィィィィィィ!」
細い肩をドゥーエは掴んで揺さぶったが、彼女はもう二度と、その声に応えることはなかった。彼女の名を呼んでは泣き叫ぶ彼の声が悲しく響きわたった。