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第五章:繋ぎとめゆく最後の鎖④

 一体何時間経ったのだろう。そう思いながら、ドゥーエは重い瞼を押し上げた。見慣れた小屋の中の景色が網膜に像を結んでいくとともに、全身を絶え間なく苛む痛苦の輪郭が鮮明さを取り戻していく。

 叫びだしたくなるほどに激しい全身の痛みと不快感と夜通し格闘したあと、日が昇るころになって眠気が訪れたことは覚えている。どうやらそのまま、シュリが眠るベッドに寄りかかって眠ってしまったらしかった。

 今は何時だろう、とドゥーエは窓へと視線を向ける。淡い色の日差しの角度から、今は恐らく昼すぎだろうと彼はあたりをつけた。彼自身もひどく衰弱していることもあり、長く眠ってしまったようだった。

(そうだ……シュリ……!)

 はっとして、ドゥーエは背後のベッドに縋り付くようにして、眠る少女の顔を覗き込む。

「え……」

 シュリの顔は血の気を失い、唇が青紫色に変色していた。眠っているのか、意識はないようだったが、浅く早い呼吸の合間を縫うようにして、時折痰の絡んだような湿った咳を漏らしている。

 ドゥーエはシュリの額へと手を伸ばすと、表情を強張らせた。昨夜までずっとずるずると続いていた微熱は嘘のように引いていた。

 しかし、それだけではなかった。ドゥーエが触れた彼女の肌からは、不自然なほど熱が感じられなかった。命の気配がひどく希薄になっているのだとドゥーエは思った。

 ドゥーエは毛布の端から覗くシュリの右手を握った。血色を失った指先は紫色に染まっていた。

(駄目だ……これ以上はもう、見ていられない……)

 こんなこと、シュリは望んでいない。もしかしたら、このことによって、シュリに恨まれたり、憎まれたりするかもしれない。

 それでも構わないとドゥーエは思った。彼女を死の淵からすくい上げられるなら、彼女にどう思われたとしてもいいと思った。

 ふいに、すっと背筋を何かが駆け上ってくるような感覚があった。物凄く大きな何か――彼自身の”生”の衝動だった。どうしてこんなときに、と思う間もなく、圧倒的な欲望に意識が塗り潰されていく。弱りきった彼女は格好の獲物だと、”喰って”しまえば楽になれると頭の中でもう一人の自分が囁く声がする。

(呑まれるな……!)

 ドゥーエの赤い目がぎらぎらと異様な光を帯びていく。身体の中で暴れまわる激しい衝動に視界が霞む。

(このままでは抗いきれなくなる……!)

 ドゥーエは自分の右腕へとかぶりついた。己の牙が深く刺さり、彼自身の肉を抉っていく。ぼたぼたと床に赤い液体が滴り落ちた。

 ぜえ、ぜえ、と肩で大きく息をしながら、ドゥーエは自分の腕から口を離した。肺が動く度に、気道を血の味が込み上げてくる。気管の一本一本が痛みを訴えている。

(早く、ノルスに医者を呼びに行かなければ……! 俺が、俺でいられるうちに……!)

 まだ、自分が自分でいられるうちに、自分自身の意志で動いていられるうちに、シュリのために何かをしてやりたかった。何もしないまま、大切なものを失って後悔するようなことだけはしたくなかった。

 ドゥーエは重くふらつく身体をひきずるようにして、何度もよろけて床に膝をつきながら立ち上がった。毛布の下からはみ出したシーツを細く裂くと、腕に巻きつけて申し訳程度の止血をする。

 これが最後になるかもしれない、とドゥーエは生気の失われたシュリの顔を見つめた。自分がもどってくるころには、もしかしたら彼女はもうこの世にはいないかもしれない。それでもどうにか彼女が生き繋ぐための望みをドゥーエは捨てきれなかった。すまない、と掠れた声で短く詫びの言葉を口にすると、ドゥーエは今にも倒れそうになりながら、小屋を出た。

 家の外は何日か前に降った雪で覆われており、地面に反射する光が眩しかった。ドゥーエは地面に落ちていた枝を拾い上げると、それを杖代わりにしながら、不香の花が咲き乱れる木立の中へと姿を消した。


 雪に包まれたエフォロスの森を抜け、街道を南下したドゥーエがノルスに着くころには、空がうっすらと夜の闇に覆われ始めていた。東の低い空でひときわ明るい三つの星が三角形を描くように輝きを放っていた。

 夕食時であるからか、辺りに人通りは少ない。このところ”人喰い”による事件が連発していた割には、当番の自警団員らしき男はおざなりな態度で町の中を巡回している。ドゥーエは重い身体を引きずりながらも、巡回中の自警団員の目を盗み、夜陰に紛れるようにして町の中に忍び込んだ。

 町の長のものと思われる周囲に比べて一回り大きな邸宅。うっすらと料理の匂いや喧騒が漏れ聞こえてくる酒場らしき建物。傾いた十字架を頂いた薄汚れた礼拝堂。馬で移動する旅人向けに厩が併設された小さな宿屋。町の様子になどさして興味もなさそうに夕方の新聞に視線を落とした男が申し訳程度に詰めている、自警団の詰め所。それらの町の主要な施設が立ち並ぶ一角に、ドゥーエの目的地はあった。

 全身からほのかな薬の匂いを漂わせる初老の女が、診療所の建物の前に立っていた。女は、門扉にかかった診療中の札をひっくり返し、今まさに戸締まりをしようとしているところだった。

「……お前がこの町の医者か?」

 ドゥーエは足音を消して、女の背後へと回り込むと低い声で囁いた。突然のことに、女は驚いたように身体をびくりと震わせながら、

「ち、違いますっ……医者は、私の主人でっ……!」

 女はしどろもどろになって否定しながら、背後を振り返る。背後に立つ男の口元に鋭い牙の存在を認めると、「ひっ……!」女は喉の奥で悲鳴を上げた。

 腰まである長い黒髪。冬の湖面のように冷たく圧倒的な美貌。血を思わせる赤色の切れ長の瞳。その姿は、以前にこの町の自警団員が持ってきた手配書の”人喰い”そのものだった。

 ちっと舌打ちすると、ドゥーエは彼女の首元に腕を回して、手で口を塞いだ。

「騒ぐな」

「んーっ! んむーっ!」

 口を塞がれた女はドゥーエの腕の中、身を捩ってじたばたともがいている。偶然、彼女の蹴り上げた足が門扉に掛けられたパンジーの鉢に当たり、衝撃で地面へと落ちて割れた。ガッシャーンという焼き物の割れる音が人気のない路地に響く。

(まずい……物音を聞きつけて自警団が集まってきたら厄介だ)

 衰弱しきって十全に動けない今の状況で、自警団に襲われようものならドゥーエはひとたまりもない。いっそ喰ってしまったほうが後腐れがないだろうか、とドゥーエの脳裏をそんな思考が掠める。喰ってしまえ、と凶暴な本能が首をもたげ、ドゥーエは女の細かなイボが散った首筋に牙を突き立てようとした。

 ”人喰い”としての自分は生きるためにこの女の血肉を渇望していたが、意識の奥底でシュリの顔がちらついて離れなかった。すんでのところで思い留まったドゥーエは、牙の代わりに手刀を女の首筋を叩き込んだ。意識を失い、力の抜けた女の身体がドゥーエの腕の中をすり抜け、どさりと地面へと倒れ伏した。

 女が倒れた音を聞きつけたのか、がちゃりと玄関の扉が開き、女と同じくらいの年格好の男が顔を覗かせた。

「アニシダ、どうした? さっきから表が騒がしいみたいだが……」

 くたびれた白衣に身を包んだ初老の男は、自分の妻が地面に倒れているのを認めると絶句した。毛髪の少ない男のこめかみに青筋が浮かび上がっていく。

「……っ、お前、妻に何をした……!」

 縁が鼈甲でできた眼鏡の奥に怒りの炎を滾らせながら、口調を荒らげる男をドゥーエは冷めた目で一瞥すると、

「気絶させただけだ。命に別状はない。それよりも、お前がこの町の医者か?」

「お、お前、指名手配中の”人喰い”だろう! 一体何が目的だ!」

 妻と同様、ドゥーエの正体に気づいたらしい医者が、彼を指差し、声を震わせながら叫んだ。ドゥーエが足を引きずりながら医者のほうへと一歩踏み出すと、怯えたように医者は玄関の扉へと縋り付いた。医者の様子には構わず、ドゥーエは距離を詰めると、医者の顎を手で掴み上げた。ドゥーエは冷ややかに男の顔を覗き込みながら、

「俺は今、気が立っている。妻ともども喰い殺されたくなかったら、俺の質問に答えろ。……お前、医者だな?」

「あ、ああ、そうだが……」

 蒼白な顔で男は頷く。男は顔を引きつらせながらも、高い位置にあるドゥーエの顔を睨め上げると、

「だからなんだと言うんだ! お前なんて、すぐに自警団が……!」

 静かにしろ、とドゥーエは不機嫌な低い声で凄む。自分の声がこめかみに突き刺さり、ずきずきと痛む頭の内側を揺らした。

「俺の頼みを聞いてくれさえすれば、お前たち夫婦にも、この町の人間にも手を出すつもりはない。今すぐに診てほしい患者が……」

 男の言葉を遮り、淡々とドゥーエが要求を述べていると、ふいに肩口に重い衝撃が走った。体が後ろへと傾ぎ、ドゥーエは腰を地面へと強かに打ちつけた。肩口に目をやると、深々と矢が刺さっている。

 ヒュウ、と後方から風切り音が聞こえた。ドゥーエが背後を振り返ると、騒ぎを聞きつけて駆けつけたらしいノルスの自警団が矢をつがえて立っていた。

「この前、この町を襲った”人喰い”だ! 仕留めろ!」

 武器を手にした人々が次々に集まってくる。瞬く間に包囲されてしまったドゥーエは、敵意がないことを示すように、矢傷の痛みに耐えながら、重い両手を上げてみせる。

「待て。俺は今、お前らに危害を加えるつもりはない。怪我人がいる。ただ、俺は医者に用があるだけなんだ」

「医者?」

 弓を手に携えた自警団員の男は小馬鹿にしたようにドゥーエを見やる。

「”人喰い”が医者に用だあ? 笑わせんな、お前らバケモンが怪我人に医者なんか呼ぶわけねえだろう! 弱ってる人間なんざ、お前みてえのからしたら格好の餌食だろうが!」

 男の言う通りだった。今までの自分なら、弱った人間などこれ幸いとばかりに喰っていただろうと思った。

 しかし、今のドゥーエは自分の意志で”人喰い”としての本能に抗い、人を”喰う”ことを己に禁じている。

 ドゥーエが人間を襲うことをシュリが厭うことが理由だった。自分が人間を手にかけることで、シュリの顔が悲しみに歪むのを見たくはない。

 シュリと出会ったことで、ドゥーエは自分の知らなかった誰かを大切に思う熱くて切ない感情――愛を知ってしまった。今のドゥーエにとって、シュリが何よりも大切だった。シュリのためであればどんなことだってできる、心からそう思えた。

 ドゥーエは地面に両膝をつくと、頭を低く垂れる。額が地面に擦れる感触がした。ドゥーエは地面を見つめながら、喉の奥から声を絞り出す。

「頼む。どうしても、医者が必要なんだ。あいつを診てくれさえすれば、俺のことはどうしてくれたって――殺してくれても構わない。どうか……頼む」

 真摯なドゥーエの言葉を、彼を取り囲む自警団の男たちは一笑に付した。斧を持った男はドゥーエへと唾を吐きかけると、

「そんな言葉、信じられるわけがないだろう! この町の人間を襲っておいて、虫のいい話だと思わないのか! それに人間の真似をして、そんなふうに情に訴えたところで、俺たちは騙されたりしない! 人間を馬鹿にするのも大概にしろ!」

 そうだそうだ、と周囲の人間たちが声を上げる。これまでに自分が人間に対してしてきたことを思えば、町の人々の言葉は当然のことだった。

 しかし、シュリのことを諦めるわけにはいかなかった。ドゥーエは人々の侮蔑の言葉と視線を浴びせられながら、必死で頭を下げ続ける。

 棍棒が振り下ろされ、どん、と背に衝撃が走った。脇腹へ、頬へ、ドゥーエを蹴り付ける人々の靴の爪先が食い込んでくる。

 シュリのために医者を呼ぶことすらできない自分が悔しくて、ドゥーエの表情が歪んだ。ただ、自分が”人喰い”に生まれてしまったせいで、大切な人のために何もできないという事実がひどく辛かった。

 ぶつけられるとめどない悪意と暴力に耐えながら、ドゥーエは唇を噛みしめる。靴先に抉られた頬の内側で欠けた歯が粘膜を傷つけ、鉄錆のような味が口内に広がっていく。振り上げられた棍棒に打ち据えられる度、傷が増えていく体がずきずきと痛みを訴えている。

 それでも、ドゥーエは暴力に嬲られることを受け入れ、その場に平伏したまま動かなかった。それしか、今のドゥーエがシュリのためにできることはなかった。

(……まずいな)

 殴られ続け、蹴られ続けたことで視界が霞み始める。浴びせられる罵声がどこか他人事のように遠い。暗転しかけた世界がぐるぐると回っているのを感じる。遠のきかける意識を気力で繋ぎ止めながら、ドゥーエは観念したように腫れ上がった瞼を伏せた。

(これ以上は……駄目だ……。これ以上は、俺の命に関わる……。俺が死ぬことは構わないが、医者すら呼べないまま、シュリを一人で死なせたくはない……!)

 何もできないのならば、せめて大切な人を一人で逝かせてしまいたくはなかった。自分が愛した彼女が、一人寂しく死を迎えるのは嫌だった。

 ぼろぼろの体を庇いながら、ドゥーエはふらふらと立ち上がる。呼吸をする度に脇腹を激痛が突き抜けていく。この分では肋骨が何本か折れていそうだった。

 ドゥーエは痛みを堪えながら、近くにいた自警団員の男に体当たりを食らわせ、包囲網を突き崩す。ドゥーエの行動に怯んだ人々を押し除けて、彼は体をふらつかせながらその場を走り去る。人々の怒号が背中を追いかけてきた。

 ドゥーエはどうにか自警団の面々を振り切ると、エフォロスの森を目指し、限界を押して足を急がせる。必死で足を動かしているはずなのに、遅々として周囲の景色が変わらない。動け、前へ進め、と気持ちが焦った。

(シュリ……! どうか、あと少しだけ、待っていてくれ……!)

 あともう少し――自分があの家に帰り着くまで、どうか死なないでくれ。ドゥーエはノルスを訪れたときよりも高い場所へと位置を変えた三つの冬の星へと祈った。


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