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第五章:繋ぎとめゆく最後の鎖③

 森を覆う雪が深まり、日を追うごとにシュリは弱っていった。ぱんぱんに腫れた腕の傷口は皮膚がぶよぶよと柔らかくなって黒ずみ、滲出液(しんしゆつえき)には膿だけでなく血が混ざるようになっていた。傷口を起点に赤い水疱が彼女の二の腕に広がっていき、死臭にも近い、腐った肉の匂いが漂うようになっていた。

 左腕の壊死の進行とともに、次第にシュリは眠っている時間が増えていった。定まらない意識の中で、心細げにドゥーエの名を呼ぶことも多かった。次の朝、目を覚ませば、シュリはもう息をしていないのではないかとドゥーエは毎日朝を迎えるのが不安で仕方がなかった。

 シュリが弱っていく一方、ドゥーエもまた弱っていった。常に全身が刃物で刺し貫かれているような痛みに苛まれ、目の奥にまで及ぶ激しい頭痛や胃を抉り出してしまいたくなるような吐き気、指一本動かすのも辛いほどの倦怠感に襲われ続けていた。目の前の少女を喰ってしまえば、楽になれるとわかっていたが、ドゥーエは決してそうはしなかった。シュリの腕を”喰った”あの日に立てた『もう人を”喰わない”』という誓いを破りたくはなかった。

 本能に自分が塗りつぶされてしまいそうになる度に、ドゥーエは自分の舌を噛み、手のひらに爪を突き立てて耐えていた。シュリとドゥーエは、助かる術がないわけではないというのに、二人とも互いを想い合うあまり、その選択肢を躊躇うことなく切り捨ててしまっていた。

 ベッドに横たわるシュリの胸が苦しそうに浅く上下動を繰り返していた。汗で張り付いた彼女の黒髪をドゥーエはそっと撫でる。今この瞬間も、急速に迫りくる死の気配に抗うように命を燃やしている彼女が痛ましくてならなかった。

「……大丈夫か?」

 ドゥーエが声をかけると、シュリは巣穴にこもる小動物のように毛布の中から顔を覗かせた。よほど身体が辛いのか、シュリは目を涙で潤ませながら小さく頷くと、

「ドゥーエ……ごめんね」

「なぜ、シュリが謝るんだ」

「だって……あたし、ドゥーエにひどいお願いしかしてない。ドゥーエが今、そんなふうに苦しそうな顔をしているのは、ドゥーエが人間を殺すのを見たくない、ってあたしが言ったからでしょ? だから、ドゥーエは誰かを食べれば楽になれるはずなのに、あたしを食べることもなければ、ここを離れることもできないでいる。あのときのあたしの言葉が、呪いみたいにドゥーエを縛っちゃってる。

 せめてドゥーエの身体が少しでも楽になるようにって、もう少し今のまま一緒にいられるようにって、あたしの腕をドゥーエにあげたけど、それだって、結局ドゥーエのことを苦しめただけだった……。あたしのくだらない自己満足で、ドゥーエをいっぱい苦しめて、傷つけてる……」

 そんなことはない、と言いかけてドゥーエは込み上げてきた吐き気の波に口元を押さえた。ほらね、と悲しそうな顔をしたシュリへ、ドゥーエは慌てて否定の言葉を発した。

「違う! これは……その、自分で採ってきたキノコに少しあたっただけだ!」

 嘘だ、とシュリは苦笑する。本来、人間と同じ食事など必要としないドゥーエがわざわざそんな真似をするはずはないとシュリは知っていた。

「ドゥーエ。そんなふうにごまかさなくていいよ。それがドゥーエの優しい嘘で、本当はすごく体調が悪いんだってことくらいわかるから。ドゥーエがそんなふうに辛そうにしてるときに、何もしてあげられなくてごめん……」

「俺は……」

 ドゥーエの声が掠れる。そんなふうにシュリに謝らせてしまう自分が嫌だった。悔しさを噛み締めながら、ドゥーエは言葉を絞り出す。

「俺は、シュリがいてくれればそれだけでいい。それだけで、どんな苦痛にだって耐えられる」

 だから死なないでくれ。哀切な祈りは喉の奥に引っかかったまま、言葉にならなかった。シュリは毛布の中から寝返りをうち、ベッドの中から右手を伸ばすと、

「ドゥーエ……泣かないで」

「泣いてなど……いない……」

 説得力なく、言葉尻が滲んで揺れた。ううん、とシュリはかぶりを振ると右腕でそっとドゥーエの頭を抱き寄せた。今の彼女は熱があるはずなのに、黄疸の浮いたその手はひどく冷たかった。

「ごめんね。ずっとは一緒にいられない。あたしはきっと、もうすぐドゥーエのことがわからなくなっちゃう……」

 ごめんね、と辛そうに繰り返すシュリの背をドゥーエはたまらなくなって衝動的に抱きしめた。飢えの渇きで腕がひどく痛み、鉛のように重かったが、そんな些細な事を気にしている場合ではなかった。

「言うな。聞きたくない。頼む……死なないでくれ。俺を置いて逝かないでくれ。それが叶うなら、俺はなんだってする」

 腕の中の命のぬくもりを失いたくなかった。そのためならば、ドゥーエは自分がどれほど苦しみ、傷ついたとしても構わなかった。自分が死んでシュリが助かるのならば、命を投げ出すことすら今の彼は厭わなかった。しかし、それをシュリが望まないことをドゥーエはわかっていた。わかっているからこそ、何も出来ないという事実が心に痛かった。

 最後の力を振り絞るように、彼女の心臓が激しく脈動を繰り返しているのを感じる。彼女の命があの世の闇の中にこぼれ落ちていこうとしているのを繋ぎ止めたくて、ドゥーエは手に力を込める。

 痛いよ、とシュリは困ったように笑った。それでも、ドゥーエはどうしても彼女を抱く力を緩めることができなかった。それほどまでに、シュリを失うことが怖かった。

「ねえ、ドゥーエ」

 キスして、とシュリはドゥーエの耳元で囁いた。耳朶(じだ)を打つ切なげなその声に、ドゥーエは頷く。涙に濡れた赤い目でシュリを見つめると、ドゥーエは誰より愛おしいその少女の唇に口づけを落とした。

 唇と唇が離れると、シュリは大好き、と嗚咽混じりに呟いた。彼女の充血した黒の双眸からこぼれ落ちた滴が頬を伝う。

「ねえ、ドゥーエ……あたし……まだ、ちゃんと、生きてるんだ……ね……。あたしも、ドゥーエも……まだ、こうして……こうして、生きてる……。ねえ……あたしたち……あと、どのくらい、こうしてられるかな……あと、どのくらい……」

「言うな」

 シュリの言葉をドゥーエは押し留めた。シュリの口が紡ごうとした言葉の先を思うと、胸が押しつぶされそうだった。

「言うな……頼むから……これ以上、言わないでくれ……」

 懇願するようにドゥーエは喉の奥から声を絞りだす。彼女の口から、間近に迫った残酷な運命について突きつけられたくはなかった。シュリはひくっ、ひくっと小さくしゃくり上げながら、

「ねえ……あたし、ドゥーエと生きたい……。死ぬのが怖いんじゃない……ただ、ドゥーエと……離れたくない……。さよならなんて、したくない……! あたし……ドゥーエと、ずっと一緒に、生きてたい……!」

「しかし……シュリ……」

 そんなことはできない。そう言いかけたドゥーエをシュリがわかってる、と制した。二人とももう長くないということは、どちらも痛いくらい理解していることだった。

「だからお願い……あたしを、ドゥーエの中で生きさせて……。この先もずっと、一緒にいられるように……」

「……シュリ?」

 言葉の真意が掴めず、ドゥーエは訝しげに彼女の名を呼んだ。何でもない、と首を横に振ったシュリの表情が諦観で翳った。シュリは涙で濡れた目で切なげにドゥーエを見つめると、

「ねえ、ドゥーエ……好き、だよ……」

「俺も、お前を愛している」

 迫り来る終焉の影を感じながらも、儚い刹那が愛おしくて、二人はどちらともなく、互いの唇を再び重ね合った。「ん……」貪るようなドゥーエの雄の荒々しさに、シュリの口から小さく息が漏れる。

 唇から伝わる熱と荒い吐息が、今、確かにここにある二人の”生”を感じさせて、切なかった。華奢な身体の熱さと柔らかさが今すぐにでも消えてしまいそうな気がして、ドゥーエはこの一瞬が永遠に続いて欲しいと心から願った。


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