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第一章:出会った二人の欠けし者たち②

 ぺたり、と額に水気を含んだ冷たいものが触れたのを感じて、彼はうっすらと瞼を開いた。視界に木でできた天井が映り込む。すぐそばの窓から差し込んでくるオレンジ色の光が眩しくて、彼は思わず暗赤色の目を細める。

 意識と共に身体に痛みが戻ってくるが、思っていたほどではない。頭と背に柔らかいものが触れており、身体にも清潔なシーツが掛けられていた。

 知らない場所だった。ここは一体どこなのだろうと訝りながら彼は身体を起こした。どのくらいの時間気を失っていたのだろうか。骨が軋んだ。

「目が覚めた?」

 そんな問いかけとともに、水の入った琺瑯のたらいを手にした小柄な少女が彼の顔を覗き込んだ。顎の下で切りそろえたぱさぱさの短い黒髪。小動物を思わせるくりくりとした黒い瞳。見たところ、年齢は十五、六といったところである。

「ここは……?」

 彼は掠れた声で少女へ問うた。熱があったからなのか、喉が張り付いて上手く声が出ない。彼の様子に気づいた少女は、たらいを床に置くと、台所の隅にある素焼きの(かめ)から木の椀に水を汲んで持ってきた。

 彼は彼女から椀を受け取ると口をつける。甘やかな水が喉を滑り落ちていく感覚が心地よかった。少女はベッドの脇で腰に手を当て、彼が水を飲むのを眺めながら、

「ここはあたしの家。今朝、川の近くであんたが倒れていたのを見つけて連れてきたんだ。よくわからないけど、何かいろいろ怪我してたみたいだったから、手当しといたよ。あと、あんたの服も汚れたり破れたりしてたから、洗って直しといた」

 彼は少女の言葉に椀を手にしたまま、ガーネットの双眸を瞬いた。この非力そうな華奢な少女が自分をここまで連れてきたというのだろうか、と彼は意外に思った。いくら痩せ型なほうとはいえ、彼女が一人で男である自分を運んできたというのだろうか。しかし、家の中にこの少女以外が暮らしている気配が見受けられないことから、そういうことなのだろうと、彼は冷たい水とともに事実を飲み下す。

「すまない、すっかり世話になった。礼を言う」

 そう言うと、彼は少女へと椀を返す。そして、身体に掛けられていたシーツを払い除け、簡素な作りのベッドを下りようとした。ぼとり、と額に乗せられていた濡れた布が床に落ちる。立ち上がろうとすると、右股の傷が彼の体重を受けて悲鳴を上げた。

 あのねえ、と少女は呆れたように彼を押し留めると、

「そんなにいっぱい怪我してて、一体どこに行くつもり? 大人しくしていないと傷が開くよ。昼間はずっと熱だってあったんだし、本調子じゃないでしょ? 無茶は禁物」

「しかしだな……」

 少女の指摘は的を射てはいた。口ごもった彼に、少女は彼の鼻先にぐいと細い人差し指を突きつけると、有無を言わせない口調で畳み掛けてきた。

「怪我人は黙って寝てなさい。何か反論があるなら治ってから言って。……それに、どうせここはあたし一人だし、傷が塞がるまでは何日でもいてくれて構わないから」

 そう言うと、少女はわずかに表情を和らげ、口元ににっとした笑みを浮かべた。

「あたしはシュリ。薬師をしながら、この森に住んでるの。ちょっとの間になるだろうけど、これからよろしく」

「あ、ああ……。その、俺はドゥーエという。その……」

 荒れた小さな手を差し出してきた少女へと、ドゥーエも自分の名を明かす。しかし、どれだけ自分の事情を明かしたものかと彼は逡巡した。 

 シュリの様子から察するに、自分の背に流れる黒髪に隠れた”人喰い”特有の尖った耳や口元の牙には気付かれていないようだ。面倒がないように気づかれる前に彼女を喰って始末してしまおうか、という物騒な思考が脳裏をちらりと過ったが、それは合理的ではあってもあまりにも忍びないと思えるだけの理性がドゥーエにはあった。

 完全に厚意で助けてくれたのであろうこの少女に今この場で自分の正体と事情が知れ、彼女の顔が恐怖や憎悪に歪むのを見たくないとドゥーエは何となく思った。それに、しばらくここに逗留して傷を癒せるというのは、ドゥーエにとって悪くはない話だった。

(何にせよ、ここを去るときにはこの娘を”喰って”しまったほうがいいのは確かだ。しかし、今はこの娘に何をどこまで説明したものか……)

 嘘が多くなればなるほど、言動は不自然になる。ならば、なるべく嘘はつかずに真実を伏せたほうがいい。どう答えたものかとドゥーエが考えあぐねているといると、シュリは見かねたように苦笑を浮かべ、

「……いいよ。あんまり人が寄り付かないこの森で、傷だらけの血まみれで倒れてたんだから、何か事情があるんでしょ。あんたが話したくないって言うなら、あたしも無理には聞かない」

「……すまないな」

「いいよ。変に嘘つかれるよりはよっぽどいい」

 それよりさっさとベッドに戻りな、とシュリは床に落ちた布を拾い上げながら、ドゥーエをベッドへと追い立てる。ドゥーエは促されるまま、再びベッドに身を横たえると、

「ところで……俺は一体、どのくらいの間、気を失っていたんだ?」

「丸一日、かな。もう夕方だもん」

 床に置いたたらいの水で布を濯ぎながら、シュリはそう答えた。

「そうか」

 窓から差し込むオレンジ色の光は、朝日ではなく夕日だったらしいと得心すると、ドゥーエはベッドに身を横たえたまま、視線だけを動かして、室内の様子をつぶさに観察していく。

 ドゥーエが横になっているベッドから見て、奥の方に台所らしきスペースがあり、作業台や火の焚かれた(かまど)が設えられていた。ベッドに横たわるドゥーエの後方の壁に沿って、食材などの生活に必要な品と、用途の分からない萎びた草の束や謎の液体の詰まった小瓶の数々が収納された簡素な木の戸棚が並んでいる。

 ベッドと台所の間の手狭なスペースには落ち着いた色のオーク材のダイニングテーブルとチェアが置かれており、その背後の壁では小さな煉瓦の暖炉でちりちりと炎が揺れている。

 生活する上で必要最低限のものしか置いていない、殺風景でどこか寒々しい印象を受ける家だった。年頃の娘が好みそうな雑貨や装飾の類は一切見受けられない。室内はそれほど広いとはいえないが、それでも人が一人暮らすには充分だった。

「……お前、ここに一人で住んでいるんだろう? 寂しくないのか?」

 あまりにも年頃の少女らしい彩りに欠ける部屋の風景に、思わずドゥーエの口からそんな言葉がついて出た。一瞬の後、知り合って間もない相手に対し、無神経なことを聞いてしまったという後悔がひやりと彼の背筋を撫でる。

「……ううん、慣れたから」

 シュリはドゥーエの言葉に一瞬驚いたように、丸く黒い双眸を見開くとかぶりを振った。彼女は己を嘲るようにやけに大人びた笑みを浮かべると、

「それにあたしは……この先もずっと、一人だから。だから……あたしは、これでいい」

 諦観に満ちたその言葉に、ドゥーエは何も言えなかった。言葉尻からは悲しみの色が見え隠れしていて、なぜ、と問うのも憚られた。ドゥーエが今ここにいるのにも事情があるように、こんな森の中で年若い少女が一人で暮らしているのだから、何か相応の事情があるのだろう。

 黙り込んでしまったドゥーエを特に気にしたふうもなく、シュリはベッドのそばを離れ、壁際の戸棚の前へと立つ。彼女はタマネギのしまわれた木箱の中を手でまさぐりながら、

「そんなことよりも、あたしはそろそろ夕飯の準備するけど、あんた、何か食べられないものとかある?」

 とはいっても大したものはできないんだけど、とどこか楽しげに笑いながら、シュリはタマネギを手にドゥーエを振り返る。

「いや、特にないが、別に俺の飯など気にしなくても……」

 ドゥーエは整った顔に困惑を露わにする。”人喰い”である彼は、誰かと食卓を囲むということをしたことがない。

 ”人喰い”は基本的には人間の血肉しか口にしない。嗜好品のような感覚で、人間の食べ物を口にする個体もいるらしいが、さしたる栄養があるわけでもなく、意味のない行為だと彼自身は思っていた。

 人間に忌み嫌われる存在であるドゥーエは、もちろん誰かに手料理を振る舞ってもらった経験はなく、何だか不思議な心地だった。しかし、シュリにこのようなことを聞かれて、なぜか嫌な気はしなかった。

「それじゃあ、ドゥーエはしばらく休んでて。今日は冷えるし、身体が芯からあったまるあたしのとっておき、作ってあげる」

 シュリは台所の壁に吊るしてあった包丁を手に取ると、作業台の上でタマネギを刻み始めた。とんとんと小気味良く単調な音がドゥーエの聴覚と室内を心地よく満たし、眠気の波が彼の意識へと押し寄せてきた。彼は訪れた眠気に己を委ねると、そのまま眠りへと落ちていった。

 こうして、互いの事情も知らないままに、身寄りのない孤独な少女と”人喰い”の男の、束の間の共同生活が始まった。


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