第五章:繋ぎとめゆく最後の鎖②
それから数日が過ぎたが、シュリの容態は一向に改善されてはいなかった。初日の夜の熱こそ今は微熱となってはいたが、腕の傷口は痛々しく腫れ上がり、薄膜の向こうからは膿混じりの透明な液体が滲み出していた。
朝食にドゥーエが四苦八苦しながら作ってくれた半分炭化した麦粥を彼に食べさせてもらった後、シュリは左腕の傷口の処置をしていた。シュリは良好とはいえない経過を辿っている傷口を観察しながら、冷静に所見を述べていく。
「うーん……これは悪い菌が入っちゃったかな。あたしみたいな素人の処置じゃさすがに無理があったかも」
「……大丈夫なのか?」
ドゥーエは不安げに顔を曇らせながら、抗菌成分の入った軟膏を掬ったへらをシュリへと手渡した。
「どうだろ。何にしても今は安静にして様子を見るしかないかな」
そんな顔しないでよ、とシュリは苦笑しながら、真っ赤に腫れ上がった傷口へとシュリは手早く軟膏を塗っていく。
「ドゥーエ、次、包帯取ってくれる?」
ああ、とドゥーエはシュリに言われた通り、ベッドの上に転がっていた包帯を手渡した。シュリは器用に包帯の端を口で咥えて引き出し、先端を失った二の腕へとあてがうと、
「ドゥーエ、そこの包帯の端、押さえてくれる?」
シュリは包帯の巻き始めを顎で押さえながらそう言った。ドゥーエは包帯へと手を伸ばし、端を押さえてやりながら、
「俺が巻こうか?」
「いいよ。ドゥーエ、あんまり得意じゃないでしょ? 昨日巻いてもらったとき、びっくりするくらいゆるゆるだったもん」
「……」
そう言われてドゥーエは沈黙する。昨日、ドゥーエが見様見真似でシュリの腕の包帯を変えてやったところ、あまりに出来がひどすぎて、結局、シュリが自分で巻き直すことになったのはまだ記憶に新しい。それを考えると、ドゥーエは自分がやるとは強く言えなかった。
シュリは慣れた手付きで左腕へと包帯を巻いていく。包帯の残りが少なくなると、シュリは端を口で加えて細く引き裂いた。
「ドゥーエ、手、離していいから、包帯の端を結んでくれる?」
ああ、と頷くとドゥーエは細く割いた包帯の先端の片方をぐるりとシュリの二の腕に沿って巻きつける。こわごわと壊れ物に触れるようにそっと、裂いた包帯の両端を結ぼうとしていると、
「ああもう、ドゥーエ。そんなんじゃほどけてきちゃうってば。あたしに変な気を遣わなくていいから、もう少し強くやっていいよ」
結び目も曲がっちゃってる、とシュリはおかしそうに笑った。彼のそんな不器用さがシュリの目にはたまらなく愛しく映った。
先程、ドゥーエにああは言ったものの、自分はきっとこの傷がもとで死ぬだろう。こんなふうに他愛のないやりとりをしていられるのもあとわずかだろうということにシュリは気づいていた。だからこそ、こんな何でもないやりとりのひとつひとつがシュリにとって大切で仕方がなかった。
ドゥーエがシュリの包帯の結び目を直し終えると、シュリはベッドを抜け出し、立ち上がろうとした。「あっ」上体が前に泳ぎ、床が近づいてきて、シュリは思わず声を上げた。この後に訪れるであろう衝撃を覚悟して、シュリは目を閉じる。
「大丈夫か?」
バランスを崩して倒れかけたシュリの細い身体をドゥーエは抱きとめた。腕にかかる体重が記憶にあるものよりもやたらと軽い。
普段よりも少し熱いその身体を支えてやりながら、ほんのりと赤い少女の顔を覗き込む。うん、と目を開いたシュリは、照れくさいのか至近距離にあるドゥーエの顔から視線を逸らす。シュリは、苦々しげな表情を熱で上気した頬にのせると、目でネグリジェの袖の先の空洞を示しながら、
「それにしても……慣れるまではもうちょっと掛かりそうだね、これは」
「無理をするのは良くない。やらないといけないことがあるなら、俺が代わりにやってやる。まだ少し熱もあるし、お前は休んでいたらどうだ?」
ドゥーエの申し出はありがたかったが、シュリはかぶりを振った。不器用なドゥーエに甘えっぱなしでは家の中が大惨事になってしまいそうだし、何よりも自分が動けずにいることでドゥーエに罪悪感を覚えてほしくなかった。
「いいよ、大丈夫。何もしないで寝てばかりだと身体も鈍っちゃうし。そうだ、ドゥーエ。熱冷ましのお茶を入れるから、手伝ってくれる?」
構わない、と頷くとドゥーエはシュリの身体を支えながら、ゆっくりと台所へと向かった。久々に台所に立ったシュリは、ネグリジェの右の袖口を口で咥えてまくり上げると、
「それじゃあドゥーエ。ベルガモットとセージ、ローズマリーの瓶を取ってもらってもいい?」
気軽な気持ちでシュリはドゥーエへと小さな頼み事をする。しかし、ドゥーエは端正な顔に困惑を露わにすると、
「ベルガモットと……何だって? 俺にはどれも同じように見える。違いがわからん……」
シュリはドゥーエが困惑している理由に得心すると、あー、と間の抜けた声を漏らした。ハーブの違いなど、慣れていないとなかなか見分けられるものではない。幼いころは、シュリ自身もどれがどれだかさっぱりわからなくて、半べそになりながらハーブを見つめていた記憶がある。
「それもそうだよね。じゃあいいや、茶葉はあたしが自分で出すから、ドゥーエはお湯を沸かしておいてくれる?」
シュリはバランスを崩さないように気をつけながら、よたよたと部屋の奥の戸棚へと向かって歩いていく。シュリが針のように細長い葉や乾いて丸まった落ち葉のようなものが入った小瓶を棚から出してくるのを横目で眺めながら、ドゥーエは台所の隅に置かれた甕の中身を小鍋へと汲み、竈へとかけた。
「これがベルガモット、これがセージ、これがローズマリー」
シュリはどれがどのハーブなのかを歌うように説明しながら、匙で茶葉をティーポットへと移し替えていく。やはりさっぱりわからない、と思いながらドゥーエはシュリの手元を見つめていた。
小鍋から白い湯気がふんわりと立ち上り始める。ぶくぶくと温度が上がった小鍋の中の水が激しく泡立ち始めると、
「ドゥーエ。ポットにお湯を入れてもらっていい? そっと、静かにね」
ドゥーエは緊張した面持ちで小鍋の湯を丁寧にポットへと注いでいく。そのくらいでいいよ、とシュリがポットの蓋を閉めると、ドゥーエは小鍋を流しへと持っていった。
シュリはポットをダイニングテーブルへと持っていくと、テーブルの隅に置いてあった真鍮の砂時計をひっくり返した。さらさらと音もなく、灰白色の砂が時間を刻み始める。
「ドゥーエ、カップ持ってきてもらっていい?」
シュリが台所のほうへ声を投げかけると、ああ、と低い声が返ってきた。奥の壁際の戸棚から二人がいつも使っている一対のカップを持ってくると、ドゥーエはシュリの向かい側へと腰を下ろした。
砂時計の砂を見つめながら、自分たちには一体あとどれくらい時間が残されているのだろうとドゥーエは思った。あの日、口にしたシュリの腕の血肉により、多少は苦痛が和らいでいた身体にまた時折、灼けるような痛みを覚えるようになっていた。痛みに身体の内側を刺される度に、確実にドゥーエの身体は死へと近づいていっている。
シュリにしても、このままでは腕の傷が元で死んでしまうかもしれない。今ならばまだ間に合うかもしれない、とドゥーエは口を開いた。
「……なあ、シュリ」
「なに?」
「俺がノルスまで行って、医者を呼んできてやる。手遅れになる前にその傷を医者に見せた方がいい。今ならまだきっと……間に合う」
嫌、とシュリの黒い目がドゥーエを睨んだ。どうしてそんなことを言うの、と彼女は眦を吊り上げる。
「ノルスになんて行ったら、ドゥーエは絶対に無事じゃすまない……! ドゥーエはノルスの自警団に目をつけられてるんでしょ……! ドゥーエが殺されちゃう!」
ドゥーエは真摯な眼差しでシュリを見つめると、構わない、と首を横に振った。
「俺は、シュリが助かるならそれでいい。そのためなら、俺の命くらいいくらだってくれてやる」
「駄目! そんなのはあたしが嫌だ!」
馬鹿なことを言うなと言わんばかりにシュリは声を荒らげた。悪い、と呟くとドゥーエはきまり悪げに俯いた。目の奥がじわりと熱くなり、何かが鼻の奥をつんとついた。シュリと出会うまで、ろくに泣いたことなどなかったというのに、最近はすぐに涙腺が緩んでしまう。
「俺は……シュリのことが大事だ。そうやってお前が苦しんでいるのを見ていられない。だから……どうにかしてやりたいと思うのに、俺にはそのくらいしかしてやれることが思いつかない」
ぽたぽたと透明な雫が床を濡らした。知ったばかりの愛の味はいつだって塩辛いとドゥーエは思った。
こんな思いをするのならば、いっそ、シュリと出会わなければよかった。こんなことになるならば、こんな感情は知らないままでいたかった。人間となんて、こうして深く関わらずに、普通の”人喰い”のままでいたかった。それでも、出会ってしまった運命と自分の中にいつの間にか深く根付いてしまった感情は、最早、理屈ではどうにもならなかった。誰かを好きになるということは、そういうなのことだとドゥーエは今、身に染みて感じていた。
「ドゥーエ……泣いてるの?」
驚いたようにシュリは丸く大きな目を瞠った。がたん、と席を立ち、よたよたとバランスを崩しながら近づいてくる足音がドゥーエの耳朶に響く。とん、と丸まったままのドゥーエの背にシュリは頬をつけると、
「ごめんね。あたしのせいでそんなふうに泣かせちゃって。それと、ありがとう。あたしのことを思って、そんなふうに泣いてくれて。
だけど……あたしは、これから自分がどうなったとしても、ドゥーエが傍にいてくれればそれでいい。だから……」
背中越しにくぐもって聞こえてくるシュリの声が湿り気を帯びてくる。彼女を泣かせることしか出来ない自分の弱さが憎かった。いつの間に自分はこんなにも弱くなってしまったのだろうとドゥーエは思う。
「……一緒にいて、あたしから離れないでよ……っ……一人に、しないで……っ! それ以外、何もいらないから……だから、あたしのためにそんな危ないことをしようとなんてしないで……!」
切実な声の波紋が、彼女の顔を接した背中から全身へと広がっていくのをドゥーエは感じた。悲痛に満ちたその声に、ドゥーエはわかったと言うことしかできなかった。
寄り添い合って啜り泣く二人の声が小さく室内に響く。テーブルの上の砂時計の砂はとうに落ちきってしまっていた。




