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第五章:繋ぎとめゆく最後の鎖①

 その夜、シュリは高い熱を出した。片腕を切り落としたことを思えば、無理もないことだった。

「寒い……」

 ベッドの中でシュリは身震いをする。少し前から悪寒が止まらないし、体がだるくて仕方がなかった。

 どれ、とドゥーエはシュリの額に自分の額を近づける。ドゥーエの涼やかな美貌が近づいてくる。憂いの色が濃い赤い双眸には、しっとりとした色気が揺れている。すぐ近くで聞こえるかすかな息遣いが、衣擦れや長い髪の揺れる音が、やけに生々しく淫靡に聞こえる。迫りくる甘やかな予感に、シュリは思わず目を閉じた。

「……どうした?」

「べ、別にっ」

 またキスされるのかと思ったなどとは恥ずかしくて言えなかった。ふむ、と至近距離でドゥーエは目に面白がるような光を浮かべる。ぺろりと舌で唇の端を舐める仕草がやたらと婀娜っぽい。

「何か、期待したか?」

「……っ!」

 思考を見透かされ、シュリは絶句した。ドゥーエはふっと柔らかく微笑むと、

「今は熱があるからな。熱が下がったらいくらでもしてやるから、今はきちんと休んでくれ」

 今はこれで我慢してくれ、とドゥーエは少しぱさついたシュリの髪にキスを落とすと、顔を上げた。恋人じみたやりとりが恥ずかしくて仕方ないのに、彼のきれいな顔が離れていってしまうことをシュリは少し名残惜しく思った。まだもう少しこうしていたかったような気がするし、”その先”にあるものを知りたかったような気がした。

「もう他に毛布はないのか?」

 ドゥーエはシーツの上から重ねたローズブラウンの毛布へと目をやりながら、そう聞いた。シュリは照れと熱で真っ赤な顔を小動物のようにちらりと覗かせると、

「裏の納屋にもう一枚あったはず。ずっとしまい込んだままで干してないから、かなり埃っぽいと思うけど」

「取ってきてやる」

 ないよりはマシだろう、とドゥーエは踵を返す。ありがと、とその背を見送ろうとしたシュリは、ふと思い出したことがあってドゥーエを呼び止めた。

「納屋に軽石がいくつかあったはずだからそれも持ってきてくれる?」

 シュリの頼みにドゥーエは怪訝そうに振り返ると、

「構わないが……軽石など何に使うんだ?」

「軽石を暖炉で温めて、ベッドの中に入れるんだ。そしたら、何時間かあったかいから」

「なるほど」

 疑問が解けると、ドゥーエは再び踵を巡らせる。ドゥーエはダイニングテーブルの上にあったランプを手に取ると、表の扉を開き、いつもより強く暖炉の火が燃え盛る部屋を出た。

 ドゥーエは凍てつくような寒さに肩を縮こまらせながら、家の裏手へ向かった。夕方の雨はいつの間にか雪へと変わっていて、夜の闇に白いものがちらついていた。

 ドゥーエは手に自分の息を吹きかけると、ダークブラウンのスギで作られた納屋の扉を開けた。ランプを翳しながら、ドゥーエは目的のものを求めて納屋の中を探り始める。納屋の中はきっちりと整頓されていて、まめで真面目なシュリの性格を感じさせた。

 すぐに軽石を見つけ出したドゥーエは、それらを足元に置いた。昼間、河原までドゥーエが回収に行った鉈や焼きごて、短剣が無造作に置かれているのが視界の隅に映った。後で油を塗って片付けておかないといけないな、などということを思いながら、ドゥーエはシュリから頼まれたものを探すのを再開する。

 程なくして、上から二番目の段の奥から毛布を見つけて引っ張り出すと、ランプの火が引火しないように気をつけながらドゥーエはぱたぱたと手で埃を払った。彼の視界を灰白色の塊が牡丹雪のように宙を舞った。

 毛布の間から、ぼと、と何かが落ちた。毛布が地面につかないように、ドゥーエは毛布を畳んで自分の腕に掛けると、腰を屈めてそれを拾い上げる。

(日記……?)

 ぺらぺらとページを捲ると、流麗な女の文字で他愛もない日常が記されていた。時折、繊細な筆致による小さな娘のスケッチが挟まれており、それが幼いころのシュリであると容易に推して知れた。

(……これは、シュリの母親が書いたものか)

 シュリが生まれた春霞の立つ朝のこと。庭のラベンダーの時季が終わるころ、シュリが初めて寝返りをしたこと。早い秋が訪れ、金木犀が香り始めたころ、シュリがつかまり立ちができるようになったこと。月冴ゆる夜、シュリが初めてママと呼んでくれたこと。

 シュリの母親の日記を読んだだけで、シュリがいかに両親に慈しまれ、幸せに育ってきたのかをひしひしと感じさせた。ちくちくと心に痛みを感じながら、ドゥーエは日記を読み進めていく。

 パパと一緒にシュリがお店に立って接客の真似事をした。シュリがいくつか薬草の種類を見分けられるようになった。シュリが料理の手伝いをしてくれた。誕生日にシュリが木の実で作ったブレスレットをプレゼントしてくれた。

 シュリの誕生から八年前に両親を失ったあの日まで、彼女の成長が温かな視点から書き綴られていた。ドゥーエの同胞がシュリの両親を喰ったりなどしていなければ、この日記帳には今も日々のささやかな幸せが記され続けていたのだろう。

 日記に目を通したドゥーエは、失われてしまったシュリの幸せな日常を埋めるために、できる限りのことを彼女にしてやりたいと思った。

 しかし、ドゥーエは自分に残された時間が少ないことに気づいていた。シュリの腕のおかげで、まだあと少しは大丈夫そうだったが、もう人間を喰わないと心に誓った以上、ドゥーエには衰弱し、苦しんで死んでいく道しか残されていない。

 それでもドゥーエは、ほんの僅かな間だっとしても、自分が生きていられる間くらいは、シュリが幸せでいられるようにしてやりたかった。

(しかし、俺といて、シュリは本当に幸せなのだろうか)

 ドゥーエのために、自ら腕を切り落とすような今が彼女にとって本当に幸せだと言えるだろうか。彼女はしたくてやったと言っていたが、果たしてそれは本当に幸せなことなのだろうか。そんな疑問がドゥーエの頭の中でとりとめもなく渦を巻き、心の中に暗く影を落とす。

 ドゥーエのせいでシュリに自身の腕を切り落とすような選択をさせてしまった。そして、彼女は今、ドゥーエのせいで苦しんでいる。なのに、ドゥーエがシュリのためにしてやれることなどほとんどないという事実が辛い。

(俺は、シュリのために食べるものを作ってやることもろくにできなければ、シュリと違って薬の扱いの心得があるわけでもない。今、俺がしてやれるのは、こうやってシュリに言われたことをやってやることだけ……それこそ、小さな子供にもできるようなことだ)

 己の無力さを情けなく思いながら、ドゥーエはそっと納屋の中へと日記帳をしまった。納屋の扉を閉め、足元の軽石を拾い上げると、彼は家の中へと戻っていった。

 ふわふわと宙を舞っていた泡雪(あわゆき)はいつの間にか白い花びらのように姿を変え、辺りを銀世界に変え始めていた。



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