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第四章:残酷に響く運命の足音⑥

 ドゥーエが目を覚ますと、ベッドで眠っていたはずのシュリの姿がなかった。一体何処へ行ったのだろうと、ドゥーエは眉を顰める。以前にオオカミの群れに襲われていたこともあったし探しに行くべきか、とドゥーエが逡巡していると、外でばたん、と物音が響いた。

(何の音だ……?)

 何故か嫌な予感がした。ドゥーエは外套に袖を通す間も惜しんで外へと飛び出した。

 金木犀の茂みを抜けたところに、小柄な人影が倒れていた。その正体に気づいたドゥーエは顔から血の気が失せていくのを感じた。

 茶色のチュニックワンピースの左袖が千切れ、血で染まっていた。何よりも目を引いたのは、その袖の中にあるはずの前腕が失われていることだった。

「シュリ……!」

 ドゥーエはシュリに慌てて駆け寄ると、冷たく華奢な体を抱き起こした。「ドゥーエ……?」シュリは力なく笑うと、血を失って真っ青な唇で彼の名を呼んだ。

「シュリ、一体何が……! 誰にやられたんだ! 言え! 言ってくれ!」

 違うの、とシュリは弱々しく首を横に振ると、

「誰かにやられたんじゃない、あたしが自分でやったの」

「どうしてそんなことをしたんだ!」

「あたしが、そうしたかったから。ねえ、ドゥーエ……あれを――あたしの腕を、食べて」

 シュリは無事な方の右手ですぐ近くに転がっていた細い丸太のようなものを指し示した。それはよく見ると、血染めの布をまとわりつかせたシュリの前腕だった。ドゥーエは絶句した。

「なっ……何故俺なんかのためにそんなことをしたんだ!」

 切断されたシュリの左腕に、ドゥーエの喉がごくりと鳴った。昨日の件で、人間の血肉をドゥーエは多少口にしており、体調も多少は改善されていたが、それでもまだ”食事”が足りていなかった。ドゥーエを苛む飢えの渇きは目の前の腕一本などで満たされるものではなかったが、それでも欲しいと本能が訴えていた。しかし、ドゥーエは理性で目の前の誘惑を断固拒絶する。

「何でって……」

 ドゥーエの腕の中で、シュリの表情が泣きそうにぐしゃりと歪んだ。

「あたしは、あんたがあたしに黙ってこそこそするのなんて見たくない! だけど、あんたがこの前みたいにこれ以上誰かを殺すのも見たくないし、あんたが飢えで苦しむのだって見たくない! 何よりも……あたしは、あんたに……ドゥーエに死んで欲しくない!」

 涙声で叫ぶシュリの背をドゥーエはそっと撫でる。ぬくもりと一緒に彼女の感情が痛いくらい伝わってくる。互いが互いを思うからこそ、起きてしまったことのままならなさが辛かった。

「……馬鹿だな、シュリは」

 小さく呟いた自分の声がやけに重く心に響いた。馬鹿げてはいるけれど、そんな彼女の弱いけれど優しく真っ直ぐな部分に惹かれてしまった自分自身も同じくらい馬鹿なのかもしれないとドゥーエは思った。

「馬鹿なことをしてるってことくらい、自分でもわかってる。だけど仕方ないじゃん。ドゥーエのことが好きになっちゃったんだから。こういうのって、時間でも理屈でもないんだよ……」

「シュリ……」

 たまらなくなってドゥーエは腕の中の少女の身体を抱きしめた。彼女が自分と同じ思いでいることはとても嬉しいことであるはずなのに、何故かひどく苦しかった。シュリは涙で濡れた顔で小さく笑うと、

「あたし、知ってるから。ドゥーエは”人喰い”だけど、本当はすごく優しいことも、あたしのことを何かと気にかけてくれていることも。とても綺麗な顔で笑うことも、実は猫舌なことも、料理が下手で不器用なことも。そんなドゥーエの全部が、あたしは大好きなんだ」

「だからといってどうして……!」

「好きな人の――ドゥーエのためなら、あたしは腕の一本や二本くらい惜しくない。こんなの一時凌ぎにしかならないし、独り善がりで中途半端なことくらいわかってる。ドゥーエのことを思えば、あたしを全部食べてもらったほうがいいってことくらいはわかっているけど、せめてあともう少しだけ、あたしがドゥーエと一緒にいたいから。

 だからお願い。あたしのわがままを聞いて。あたしの腕を食べて。なるべくドゥーエには人を傷つけて欲しくないし、だけど飢え死にだってして欲しくないから……このくらいしか、できなくてごめん……」

 こんなふうに懇願されてしまっては、ドゥーエはもう嫌だとは言えなかった。愛する人にこんなことをさせてしまった自分が情けなくて、視界が幾重にも滲んだ。

「どうして……どうして、シュリが謝るんだ。詫びるべきはシュリにこんな思いをさせ、こんなことをさせてしまった俺の方だ。

 お前が俺に死んでほしくないと思っているように、俺もお前にこんな自分を傷つけるような真似はして欲しくない。お前が大事だから、俺なんかのことより、自分のことを大事にして欲しい。頼むから、もう二度とこんなことをしないでくれ……!」

 ごめん、とシュリが繰り返した。その声の響きには愛おしさと苦々しさが混ざり合っていた。

「似た者同士だね、あたしたち。お互いにお互いのことを思うほど、すれ違って空回っちゃう。不器用なんだね、あたしたち……」

「今更だろう。だけど、俺が好きになったのはそんなシュリなんだ」

 ありがと、とシュリははにかんだように言った。少し照れたシュリの顔は、涙が朝日できらきらと光っていてとても綺麗だとドゥーエは思った。

「……シュリ。好きだ。――愛している」

 ドゥーエはシュリを優しく見つめると、柔らかく穏やかな口調でそう告げた。次の瞬間、彼の白皙の端正な顔と夜闇と同じ色の長い髪がシュリの視界を覆い尽くす。

 二人の唇が重なった。やはり、愛おしさは切なさと涙の味がするとドゥーエは思った。けれど、自分は今とても幸せなのだとも思った。

「あたしも、好き、だよ……」

 弱々しい声でそう呟くと、シュリはドゥーエの腕の中で再び意識を失った。幸せの余韻をかき消すように、冷たい死の気配が一歩ずつ自分たちに忍び寄ってきていることをドゥーエは感じていた。


 日没前、ドゥーエはシュリの左腕を喰った。ばき、ぼき、と骨が砕ける音が響く。血に塗れて冷たくなった肉はなぜかゴムを食べているかのようだった。

 人の肉を不味いと思ったのはドゥーエにとって、これが初めてのことだった。しかし、ドゥーエのそんな感情とは裏腹に、あっという間に愛しい少女の細腕は彼の胃の中へと消えていった。

 シュリの腕は、わずかにドゥーエを限界から遠ざけてはくれた。しかし、これがシュリが望んだことであったとはいえ、苦しくて、涙が溢れて止まらなかった。

(どうして、どうして俺はシュリの肉を喰わないといけないんだ……!)

 ”人喰い”である自分のおぞましさに胃の内容物が逆流してくる。「うぐっ……」口の中が吐瀉物で満たされたが、歯を食い縛って耐える。シュリの思いを無碍にはしたくなかった。

 すり潰された固形物が混ざった()えた液体を飲み下すと、ドゥーエはシュリの血がこびりついた手で目元を乱暴に拭った。自分で自分の腕を切り落とすなどという猟奇的な無茶をやってのけたシュリは今ごろ、ドゥーエとは比べものにならないくらい辛い思いをしているはずだった。それに比べれば自分のこの苦しさなんて大したことはないとドゥーエは思った。

 自分が”人喰い”であるという事実がひどく憎かった。自分が”人喰い”でさえなければ、彼女のそばにいるために、こんなふうに彼女の肉を喰らわずに済んだ。しかし、ドゥーエはこうすることでしか生きることができなかった。

 すまない、とドゥーエは呟くとその場に座り込んだ。降り始めた北時雨が彼の白い頬を涙のように伝う。

 もう人間を口にするのはこれを最後にしようとドゥーエは心の中で誓った。シュリはドゥーエが人間を”喰う”のをよく思っていないし、何よりもう二度とシュリに今日のようなことをさせたくなかった。

 ドゥーエは悲しげな赤い目でじっと泣き出した空を見つめる。冴え冴えとした夜の気配が、東の果てから顔を覗かせようとしていた。

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