第四章:残酷に響く運命の足音⑤
シュリが目覚めると、夜が明けようとしていた。がびがびになった顔の感触から、泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていたらしいとシュリは悟る。
いつもなら一緒に眠っているはずのドゥーエの姿がシーツの中にない。また出ていったのではないかと思うと、シュリの背に薄ら寒いものが走った。
暗闇に目を凝らすと、ダイニングテーブルに突っ伏すようにして、ドゥーエが眠っているのが見えた。体調が思わしくないのか、端正な顔に浮かぶ表情は険しい。
いなくなったわけではなかったという安堵でシュリは薄い胸を撫で下ろした。今までは一緒に寝ていたはずの彼がこんなふうに距離を取って眠っているのは彼なりの優しい配慮なのだろうとシュリは感じた。それなのに、彼と言い合いになった挙句の果てに、不貞寝などという幼稚な真似をしてしまった自分が恥ずかしかった。
(あたしは……ドゥーエのために何ができる? 少しでも長くドゥーエと一緒にい続けるために、何をしてあげられる?)
自分のこの手にできることは限られている。それでも何かしたい、とシュリは闇の中で自分の荒れた両手を見つめた。
(――あ)
ドゥーエはきっとこんなこと望まない。ドゥーエはきっとこんなことをしても喜ばない。それでも、自分がぎりぎり彼のためにしてあげられることが寝起きの思考の中にすとんと落ちてきて、シュリはこれだと思った。彼女はごくりと息を呑む。
(――やろう)
そう決意すると、シュリはベッドを抜け出した。そして、物音を立てないように気を配りながら、ドゥーエの眠るダイニングテーブルへと歩み寄ると、彼のそばから火の消えたランプを持ち上げる。
シュリは己の知識を総動員して、これからやろうとしていることに必要なものを頭の中で書き出しながら、部屋の奥の戸棚へと近づいていく。彼女は戸棚を開け、マッチを取り出すと、それを擦り、ランプの中の蝋燭へと点火する。ランプに火が入ると、ゆらゆらと揺れる炎によって、静まり返った家の中が照らし出された。
シュリは戸棚の日用品の入った段を探り、麻紐の束を取り出すと、近くにあった籠へと入れた。普段使っている両親の形見の短剣も同様に籠の中に入れていく。
シュリはランプとかごを手にすると、家の外へと出ようとした。しかし、彼女は思い直したように足を止めると、再びテーブルで眠るドゥーエのそばへと近づいた。
ベッドの背に掛かっていたグレーのバイアスチェック柄のブランケットをその背にかけてやると、シュリは身を屈める。さらさらとした彼の黒髪を手に取ると、その下に覗く首筋に短い口づけを落とした。
「ドゥーエ……好きだよ。大好き」
そう呟いた声が震えた。これから自分がしようとしていることを思えば恐ろしかったが、それでもドゥーエのためであればなんだってできると思った。
(ドゥーエ……怒るんだろうな)
それでも、今はまだもう少しだけ、一緒にいられる時間を引き延ばしたかった。先ほど唇に触れたあの暖かさを失うその瞬間を、たとえ一秒でもいいから遠ざけたかった。身勝手なエゴだとはわかっていても、それでも、そのためであれば何かしないではいられなかった。
シュリはカゴを抱え直すと、眠るドゥーエをそのままに家を出ていった。
家を出て、納屋に立ち寄ると、シュリは中を弄って鉈と焼きごてを取り出した。腕に抱えた籠にそれらを放り込むと、シュリは家を背に歩き出す。
木々の生い茂る歩き慣れた道をシュリは進んでいく。ニシキギの茂みを抜けると、いつも洗濯をしたり、水を汲んだりしている川のほとりへと辿り着いた。水が流れるちゃぷちゃぷという小さな音がまだ生き物たちが眠りについたままの森に響いている。
シュリはカゴとランプを川辺に置くと、両手を川の水で洗い清めた。手を茶色いチュニックワンピースの裾で拭うと、シュリは袖を捲り上げ、細い左腕を刺すように冷たい大気へと晒す。
シュリはその場に座り込むと、カゴの中から短剣を取り出した。ランプの蓋を開けると、刃先を炙っていく。
(これで、少しでもドゥーエを苦しみから遠ざけられるなら……! 少しでも長く、生きていてくれるなら……! そのためなら、あたしはこれくらいのこと、ちっとも惜しくない。
あたしはドゥーエを好きだから……! ドゥーエを愛しているから……! だから、あたしはドゥーエのためならなんだってしたい……!)
短剣の刃を見つめると、シュリはふぅっと深く息を吐き、下腹部に力を込める。今から自分がやろうとしていることは恐ろしかったが、不思議と心は凪いでいた。歯を食いしばると、シュリは右手に持った短剣を左端の内側へと当てがった。熱された刃の感触が神経を通じて伝わるとともに、シュリは刃をぐっと関節と関節の間へと押し込んだ。
「うっ……ぐっあっ……!」
すっぱりと肘の内側の肉が裂け、シュリの口元から苦悶の声が漏れた。燃えるように痛む傷口に思わず涙が溢れた。シュリは一度短剣を引き抜くと、右の肩口で乱暴に目元を拭った。
(あと少しだけでも、あたしとドゥーエが一緒にいるにはこうするしかない……! それにきっと、ドゥーエはずっともっと痛かったし辛かった! あたしに気づかれないように一人で苦しんでた! だから、このくらい、なんてことないっ……!)
シュリは己を叱咤すると、傷口を中心に、短剣の刃先で皮膚を深く切り裂いていく。
どくどくと心拍が上がっていく。痛みで自分の呼吸が荒くなっていくのをシュリは感じていた。
服の内側の背中を汗が伝っていく。気がつけば、顔の下半分が鼻水と涙が混ざり合った塩辛いものでべとべとになっていた。
それでもシュリは手を動かすのを止めない。短剣で肉を切り進め、筋肉を剥き出しにすると、シュリは今度はそれを短剣で断ち切っていく。
「うああ……うあああ……!」
肘の動きを司る筋肉の繊維をシュリは短剣で切断していく。痛い。痛い。思考をただそれだけが染め上げていく。痛みで視界が激しく明滅を繰り返している。馬鹿げたことをしている自覚はあったが、今更やめる気にはなれなかった。
これだけが今、シュリのわがままをすべて叶えるための方法だった。気休めのその場凌ぎとはいえ、ドゥーエと一緒にいられる時間を延ばすためにシュリができるのはこのくらいだった。
左肘の筋肉が断ち切られ、だらりと赤い血に塗れた前腕が垂れ下がる。傷口から溢れ続ける血液がぽたぽたと滴り落ちて、地面に血溜まりを作っていく。寒さで強張った右手から短剣が落ち、からんからんと音を立てる。
痛みで視界を霞ませながらも、シュリはかごの中から鉈を取り出した。鉈の刃先を短剣と同様にランプの炎で炙って消毒すると、肘の関節の間を狙って振り下ろす。
鉈の刃先が軟骨にぶつかる感触があった。わずかに関節の間に食い込んだ鉈をシュリは引き抜くと、何度何度も肘の内側へと叩きつけていく。
重い衝撃と振動が腕に伝わる度に脳天を激痛が走り抜けていく。心臓の脈動と共に小刻みに痛みの波が満ち引きする。いつの間にか、背中はぐっしょりと濡れ、汗を吸った服の茶色の布地が焦げ茶へと色を変えていた。
鉈によって砕かれた肘の軟骨が最後の支えを失い、ぼとりと真っ赤に濡れた前腕が河原へと転がった。
「うっ……あ……」
はあはあと痛みで呼吸を荒らげながらも、シュリは麻紐の端を口で咥え、膝から先を失った上腕の断面を縛っていく。そして、震える手で焼きごてを手に取ると表面を熱し、大粒の赤い雫がぼたぼたと滴る傷口へと押し当てる。
「ぐあああああああっ……! うあっ、うあああああ!」
ジュウ、と音を立てて傷口が焼けていく。熱された金属の熱さが痛い。高温に熱されたものを押し当てられたことで、傷口から溢れ出す血液が、肉の焼ける焦げ臭さと一緒に大気中へ蒸発していく。
傷口から走り抜けていく痛みにシュリが苦悶の悲鳴を上げていると、次第に腕の断面の出血が止まり始めた。
傷口の出血が止まるとシュリはその場に崩れおちた。力が抜けた右手から、焼きごてが滑り落ちた。熱の残る焼きごての表面が河原の石をじゅっと焼く音がした。
絶え間なく自分を苛む腕の痛みに耐えながら、シュリは足元に転がっていた自身の血まみれの左腕に手を伸ばす。自分の体温が残るそれを右手で掴み、シュリが立ちあがろうとすると、バランスが崩れ、上体が前へと流れた。砂利だらけの地面に強かに体を打ちつけたが、シュリはその痛みをどこか他人事のように感じていた。
(そうだった……人間の腕って、思ったより重いんだっけ……。慣れるまではバランス崩しやすいってよく言うよね……)
激痛に顔を歪めながら、シュリは内心で苦笑する。左腕を抱えて、再度立ちあがろうとすると視界が真っ暗になった。
(あっ……貧血……、そりゃそうだよね、腕一本切り落としたんだから、血が足りなくなって当然か……)
シュリはなけなしの精神力で、途切れそうになる意識を無理矢理繋ぎ止めようとする。そろそろ日が昇り始める刻限のはずだった。ドゥーエが目覚める前に家へと帰りたかった。そのためには、こんなところで倒れているわけにはいかなかった。
じわじわと視界が戻り始め、うっすらと明るくなり始めた河原の風景が映る。どうにか立ち上がったシュリは、自分の左腕を抱えてふらふらと歩き始めた。
何度も何度もバランスを崩して躓いたり、転倒しながら、シュリはドゥーエの待つ家へと向かっていく。一歩進む度に痛覚を貫いていく熱く鋭い激痛に幾度となくシュリは意識を手放しそうになりながら、のろのろと足を動かし続けた。さほど遠くないはずの歩き慣れた道が、今日はやけに遠く感じた。
早くドゥーエに会いたかった。自分のことを呼ぶ、彼の低くて心地よいあの声を聞きたかった。
花の時期を過ぎた金木犀の茂みを抜けると、暮らし慣れた丸太小屋が視界の先に見え始めた。
帰ってきた、という安堵に気が緩み、力の抜けた体が傾いでいく。
落ち葉に覆われた地面に体がぶつかる瞬間、シュリの意識は細い糸が切れるようにぷつりと途絶えた。




