第四章:残酷に響く運命の足音④
「……これでよし、と」
ドゥーエの怪我の処置をし、包帯を巻き終えたシュリはそう小さく呟いた。ドゥーエは両手に巻かれた、薬草の匂いがする包帯を見下ろした。自分のしたことを思えば、シュリの顔をまともに見られなかった。
「ほら、早く服着ちゃいなよ。ただでさえ体調悪いのに、風邪まで引いたら大変でしょ」
シュリはグレーのボタンダウンシャツとネイビーのざっくりとしたニットのカーディガンをドゥーエへと押しやった。
「……ああ」
ドゥーエはシュリから服を受け取り、裸の上半身へともそもそと纏っていった。その間にシュリはドゥーエの手当に使った薬品類を奥の戸棚に片付けていく。
「……シュリ」
ドゥーエは着替えを終えると、戸棚の前に立つシュリへと躊躇いがちに声をかけた。
「その……いつ、どうして、気づいた?」
シュリはドゥーエを振り返ると、己を嘲るような笑みを浮かべた。
「最初から知ってたよ」
「え……」
ドゥーエは赤い目を見開いた。あまりの事実に唇が戦慄くのを感じた。
「なら……どうして俺を追い出さなかった!」
激しい語調のドゥーエの言葉に、シュリは己を嗤笑した。
「最初はさ……目を覚ましたらすぐに追い出せばいいって思ってた」
「だが……お前はそうしなかった。そうだな?」
そうだね、とシュリは目を伏せる。
「お父さんとお母さんが死んでから、あたしはずっと独りだった。だから……誰かが近くにいるっていうのが新鮮で。それにドゥーエは”人喰い”のくせに、あたしを襲って食べようともしなかったから、もう少しだけって、欲が出た。ねえ……どうして、ドゥーエはそんなふうに弱っちゃうのをわかってて、あたしのことを食べなかったの?」
「最初は、俺なんかを助けるなんて物好きな人間だと思った。ノルスの自警団に怪我を負わされていたし、お前は俺が”人喰い”だと気づいている様子もなかったから、ゆっくり傷を癒せるならしばらくここにいるのも悪くないと思っていた。面倒がないようにここを発つときにお前なんて喰ってしまえばいいと思っていた」
はずだったんだがな、とドゥーエは薄く笑うと、言葉を続けていく。
「早い話が、一緒に過ごすうちに情が移ってしまったんだろうな。お前のそばは思いの外居心地が良くて、一緒に過ごすうちに気がつけば”喰う”ことなんてできなくなっていた。喰いたいと思ったことは何度もある。だが、どうしても喰えなかった。お前だけはどうしても喰いたくなかった」
あたしも同じだよ、とシュリはじっとドゥーエを見つめた。その目には後ろめたさがちらちらと見え隠れしている。
「あたしは、”人喰い”を憎んでた。お父さんとお母さんを”喰った”あの女をいつか殺してやるんだって、復讐してやるんだって思いながら、この八年間ずっと生きてきた。
なのに……ドゥーエは”人喰い”のはずなのに、あたしの思っていたような化け物なんかじゃなかった。普通の人間と全然何も変わらなかった。一緒に他愛もない話をすることもできれば、感情だってある、そういうことに気づいちゃったら、これまで通りになんて見られなくなってた」
そんなことはないだろう、とドゥーエはシュリの言葉に否を唱えた。
「先程、お前も見ただろう? 俺が人を襲うのを。あれが俺の本性だ。人間と変わらないなんてことはない」
「だけど、ドゥーエはあたしを庇ってくれたでしょ! 誰かを守りたいって思うのは人間と変わらない! ドゥーエが本当に化け物なら、あたしのことを見捨てればよかった!」
烈しい感情を孕んだシュリの声がドゥーエの耳を劈く。ドゥーエは俯いた。彼女にここまで言ってもらえて嬉しくないはずないのに、胸が苦しかった。暗い感情が喉を締め付けてくるのを感じながらも、なあシュリ、とドゥーエは低い声で彼女の名を呼んだ。後ろめたさで声がわずかにひっくり返った。
「俺はお前のことが大事だ。だから、お前が苦しむようなことはしたくない。
以前に俺がここを出ていこうとした夜の約束をまだ覚えているか? シュリが追い出したくなるまで、俺はここにいる、という」
シュリは小さく頷く。彼女の顔には戸惑いの色が浮かんでおり、ドゥーエの言葉の真意を測りかねているようだった。
ドゥーエは顔を上げ、ガーネットの双眸で目の前の少女を見据えた。これから自分は己の本心に背く言葉を口にせねばならない。シュリのことを一番に思えばこそ、自身の望みとは裏腹なことを彼女に告げねばならない。
それでも、シュリの口から「わかった」と(そう)言われるのであれば、ぎりぎり受け入れられる気がした。どれだけ辛くとも、それでいいと思えるような気がしていた。
「……シュリ。ここから出て行けと、もう一緒にいたくないと言ってくれ。俺を嫌いだと、顔も見たくないと言ってくれ。お前がそう言うのなら、俺はそれを喜んで……」
受け入れる、と言おうとしたドゥーエの頬でパァンと音が鳴った。「……え?」一瞬何が起きたのか理解できずにドゥーエは思わず間の抜けた声を漏らした。次第にじんじんと頬が痛みを訴えてきて、自分はシュリに引っ叩かれたのだとようやく理解する。
恐る恐るドゥーエが視線を上げると、丸く大きな黒瞳にシュリが涙を溜めていた。彼女は手を振り上げたままの格好で、顔を真っ赤にして、
「ばっかじゃないの! あんまり、あたしのことを見くびらないで! 今更嫌いなんて、出て行けなんて言うわけないじゃん! もう二度とそんな馬鹿なこと言わないで!」
「だが……一緒に居続ければ、この先、何度だって今日のようなことは起こる。だから……」
わかってる、とシュリは眦を吊り上げ、ドゥーエの言葉を遮った。
「わかってるけど嫌なの! なんでそんなこともわからないの!?」
感情を剥き出しにしてシュリは吠える。つ、と彼女の頬を涙が伝い落ちる。
ドゥーエはこの期に及んで、シュリに甘えようとした自分を呪わしく思った。シュリならば、全部飲み込んで、「わかった」と言ってくれるのではないかという期待があった。
「もういい! ドゥーエの馬鹿! もう知らない!」
そう言って一方的に話を終わらせると、シュリはベッドへ潜り込んだ。頭まですっぽりとシーツを被って出てくる様子はない。
「シュリ……」
ドゥーエが声をかけても、シュリが返事をすることはなかった。しばらくすると、シーツの中から小さな啜り泣きが聞こえてきて、ドゥーエの心はずきずきと痛んだ。自分は一体、彼女にどれだけ酷なことを強いようとしてしまったのだろう。後悔が胸の底からこみ上げてくる。
シュリのためにはどうするべきだったのだろうとドゥーエは薄く形の良い唇を噛む。彼女の傍に居続けるとして、これから彼女のために自分は何をしてやれるのだろう。
わずかながら今日口にできた血肉のお陰で、心身を苛んでいた痛苦は限界から少し遠ざかっていた。しかし、そんな自問自答ばかりが彼の中で渦を巻き、胸を重苦しく締め上げていた。




