第四章:残酷に響く運命の足音①
身体が内側から灼けるように熱かった。全身を刃で刺されているかのような痛みがひっきりなしにドゥーエを襲い続けていた。
苦悶に顔を歪めながら、ドゥーエは涙で滲む視界に映る天井を見つめていた。うっ、と小さく呻くとドゥーエは痩せた身体を丸め、激しさを増した痛みの波を耐え忍ぶ。
(っ……痛い…苦しい……っ……! 痛い痛い痛い痛い……っ!)
もう何日眠れていないだろう。シュリが眠ってしまってから、次の朝を迎えるまでの間、毎晩一人でこの痛みと向き合い続けるというのは精神的に堪えるものがある。
胃を酸っぱいものが逆流してくる。口元を押さえようと動かした腕が自分のものではないかのようにひどく重い。
「ん、ぐ……っ、あっ……う……、っつ……」
どうにかしてやり過ごした痛みの波がほんの少し弱まっていくのを感じる。ドゥーエはぜえぜえと肩で荒い息をした。汗で顔に張り付いた自分の髪が鬱陶しい。
数日前に見たシュリの血に激しい衝動を覚えてからというもの、ドゥーエは全身を苦痛に苛まれ続けていた。精神力だけで己の本能を無理やりねじ伏せ続けているのだから当然のことだった。
シュリの元で過ごすようになってから、ドゥーエは人間を”喰って”いない。今、ドゥーエが感じている体調の悪さは、ひとえに”断食”を強いられ続けていることによるものだった。
”人喰い”としての自身の生存本能が警鐘を鳴らしているのだということはわかっていた。人を――隣で眠っている少女を食らってしまえば、自分が味わい続けているこの苦しみが和らぐことは理解していたが、ドゥーエはそうしたくはなかった。ドゥーエの葛藤に気づいている様子もなく、彼の隣でシュリは無防備に安心しきった寝顔を晒している。
(俺をそんなふうに信用するな。俺は”人喰い”だ。いつお前を喰ってしまうかわからない)
食道を急速に吐き気が込み上げてきて、ドゥーエはぐえっ、ぐえっとえずいた。手のひらを見るとべっとりと血液が付着していた。
ぐわんと意識が遠のくのを感じた。視界が一瞬、無に塗り潰される。闇の中に呑み込まれて消えかける自意識に代わり、彼の中で凶暴な本能が首をもたげる。喰いたい。この娘が欲しい。彼女を滅茶苦茶にして”喰って”やりたい。
衝動に駆られるようにドゥーエはベッドから上体を起こすと、眠るシュリの顔の横に両手を付き、上から覆いかぶさった。彼の見開かれた赤い目の奥では瞳孔が興奮で大きく開いている。精神の昂りに呼応するように薄い唇の間からはあ、はあと漏れる喘ぐような吐息がやけに艶めかしい。
シュリの白い喉に唇が触れる。彼女の首筋に牙を突き立てようとしたとき、ドゥーエは駄目だ、という己の声を聞いた。はっとして、妖美な猛獣と化していたドゥーエは動きを止める。
嫌だ、とドゥーエは思った。シュリを喰いたくない。しかし、その思考もひっきりなしに体の奥から突き上げてくる強い欲求に上塗りされていく。
獣欲に似た衝動に侵食されていく自分の意識を繋ぎ止めたくて、彼は思い切り舌を噛んだ。舌先の傷口から口内に鉄錆に似た味が広がっていく。舌の痛みに興奮で熱くなっていた頭がすっと冷えていき、ドゥーエは自分の意識に明瞭さが戻っていくのを感じた。
今、自分が何をしようとしていたのかという事実を自分の体勢からドゥーエは改めて理解する。先日よりも危うい状況に、ドゥーエはもう自分の中の猛獣を押さえ続けているのは無理だと察した。
(もう……駄目だ。これ以上、俺は自分を抑えきれない。俺が俺でいられなくなる)
シュリのそばに居続けることも、そのために極限に達している己の”人喰い”としての生の欲求に抗うこともドゥーエ自身が選んだことだった。
(ずっと、そばにいたかった……けれど、もうタイムリミットだ。シュリを傷つける前に、ここを去るしかない)
これ以上はシュリを喰わずにいられる自信がなかった。恐らく、次はもうないだろうということをドゥーエは痛いくらい感じていた。
「シュリ……さよならだ」
ドゥーエは低い声で別れの言葉を口にした。短いけれど、愛しく幸せだった日々の記憶が脳裏に蘇ってきて、視界が涙で滲んだ。心がずきずきと痛い。
もっと彼女と一緒にいたかった。他愛もない話をし、笑い合いながら、一緒に生きていたかった。もっとずっと、こんな日々が続いていってほしかった。
(俺は……シュリが好きだ……)
彼女のことが大事だからこそ、もう一緒にいるわけにはいかなかった。ドゥーエが彼女のためにできることは、一刻も早くここを去ることだけだった。己の感情に流されて、今度は決断を間違えるわけにはいかなかった。
「やだ……行かないで……。一人に、しないで……。ドゥーエ……」
一体どんな夢を見ているのか、眠るシュリの口からそんな言葉がこぼれ落ちた。縋るようなその声が痛々しくて、胸が苦しかった。
「すまない……シュリ、すまない……」
ドゥーエの目から涙が溢れた。ぼたぼたと彼の下にいるシュリのネグリジェに雫が滴り落ち、スモーキーグリーンの布地の色を濃いものへと変えていく。
眠っているはずのシュリの睫毛の先にも、なぜか涙の雫が光っていた。ドゥーエは彼女の顔に手を伸ばすと、強張った指先でそっと目元を拭ってやった。
「せめてどうか……健やかに、幸せに生きてくれ」
涙声でドゥーエは呟いた。それはこれからのシュリの行く末を想う、悲しく温かな心からの祈りだった。
最後にドゥーエはどうしても彼女のぬくもりを感じたくて、わずかに開いた彼女の唇に自分のそれを重ねた。生まれて初めて交わす幸せなはずのその行為は、塩辛い悲しみの味がした。
一秒、二秒。心臓が命の時を刻む音がやけに大きく聞こえた。名残惜しさを感じながら、ドゥーエはそっと顔をあげた。唇から愛しさの感触が離れていく。
「……くっ……」
ドゥーエの背骨をふいに激痛が突き抜けた。叫びだしそうなその痛みをぎりぎりと奥歯を噛んで耐える。脈拍とともに痛みがひっきりなしに満ち引きを繰り返している。胸骨の奥で心臓がどくどくと激しく暴れまわっていた。
痛みを堪えながら、ドゥーエはベッドを抜け出すと、自分のブーツに足を突っ込んだ。ダイニングチェアの背に掛けられた自分の外套を手に取ると、寝巻き代わりのシャツの上から羽織る。
さよなら、ともう一度ドゥーエは小さく呟いた。すぐそこにある冬の寒さと夜の静寂が満ちた部屋の中に、白い吐息が溶けていった。
身を切られるような思いで大切な時間に別れを告げたドゥーエは、重いチーク材の扉に手をかけた。力を込めようとした手がじくじくと痛みを訴えていたが、心の痛みに比べれば大したことがないような気がした。
家の外へ出ると、空がうっすらと明るくなり始めていた。もうこれで本当に終わりなのだとドゥーエは思った。分不相応な幸せな夢から醒めるときが来たのだと思った。
幸せな記憶が詰まった家をドゥーエは最後にちらりと振り返ると、重い身体を引きずって歩き始めた。
ざくっ、ざくっと彼が霜を踏んで歩く音が少しずつ遠ざかっていく。冬の初めの白い旭光が、生い茂る木々の間から差し込み始め、霜の上に刻まれた足跡を照らしていた。