第三章:愛しき時間、時計の砂は滑り落ちて④
「……もしかして、ドゥーエって料理できない?」
シュリはウサギの肉を包丁で切り分けていた手を止めると、苦笑しながらドゥーエの手元を覗き込んだ。ドゥーエには塩漬けにする水菜とキノコの下処理を頼んだだけだったが、包丁の握り方からして何かがおかしい。一体、何をどうしたら、ペンを持つような握り方になるのか、シュリには理解できなかった。
そういえば、とシュリは以前にドゥーエが作ってくれたスープのことを思い出した。あれは確かカブとブロッコリーのスープだったはずだが、カブは皮がついたままだったし、ブロッコリーに関しては手で無理やり引き千切ったような形跡があったのを覚えている。
「まったく、どうやったらそんな握り方になるの? それにキノコ押さえてる手もそれじゃ駄目。そんなんじゃうっかり手を切りかねないよ」
貸して、とシュリはドゥーエの手から包丁を奪い取ろうとする。「あっ」包丁の刃先がシュリの手を掠り、皮膚を切り裂いた。じわじわと一拍遅れて、シュリの右手に血が滲んでいく。「……あーあ」シュリは右手を心臓より高い位置に掲げると、左手で手首を抑えて傷口を圧迫する。
ドゥーエの喉がごくりと鳴った。喉の奥から唾液が込み上げてくるのをドゥーエは感じた。シュリの手を汚す血の赤色に、”喰いたい”という衝動が身体の奥からせり上がってくる。
なるべく意識しないようにしていた、飢えと渇きの感覚をドゥーエははっきりと知覚した。目の前の少女を食えば、体の内側を断続的に突き刺し続ける痛みからも重苦しい倦怠感からも解放される。
シュリを食いたい。シュリの肉を、血を、骨を、臓物を――彼女のすべてがどうしようもなく欲しかった。
目の前の誘惑に、ドゥーエの身体と精神はどうしようもなく昂ぶっていく。自分の中を突き破って出てこようとする欲望の激しさに、嗚呼、とドゥーエは切なげな声を漏らした。
すっと無意識にシュリの喉元へと向かって手が伸びた。指先に彼女のぬくもりを感じた瞬間、ドゥーエは愕然とした。
(俺は今、シュリに大して何を考えた……? シュリに何をしようとした……!?)
自分がシュリを喰おうとしたという事実に背筋が凍った。シュリから指先が離れ、行き場を失くして不自然に宙を彷徨った。
「ドゥーエ、どうしたの? 何か顔色悪いよ?」
「なんでも、ない」
そう言った声が掠れた。顔がひどく強張っているのを感じる。先程、シュリと食べた芋が食道を逆流してきて、気分が悪かった。何よりもシュリに対してあんな欲望を抱いた自分にドゥーエは嫌悪感と吐き気を覚えていた。
「すまない、少し外で風に当たってくる」
「え、ちょっと……! ドゥーエ、本当に大丈夫!?」
心配するシュリの声が背中を追いかけてくる。しかし、ドゥーエは返事をすることなく、足早に台所を通り抜けると、裏口の扉から家の外へ出た。
扉が閉まったのを確認すると、ドゥーエは外壁に背を預けてその場にずるずると座り込んだ。
(俺はあとどのくらい、シュリのそばにいられるだろう)
今日のところはすんでのところで思いとどまれたからよかった。だが、またいつドゥーエがシュリに対してあのような欲望を抱いてしまうともしれなかった。
(俺はシュリを傷つけたくない。間違ってもシュリを喰うなんてことはしたくない)
ドゥーエは唇を噛んだ。シュリを大切に思うなら、今すぐにでもここを離れるべきだった。
(だけど、俺はシュリのそばにいたい……)
離れたくない、という感情がドゥーエの理性を邪魔していた。自分が”人喰い”なんかに生まれなければ、とドゥーエは己を呪った。
目頭に熱いものが込み上げてきて、ドゥーエは暗赤色の目を伏せる。頬を何かが伝い落ちていくのを感じ、自分が泣いていることにドゥーエは気づいた。
冬を運ぶ冷たい風がドゥーエの長い黒髪をふわりと揺らした。ドゥーエはその場に座り込んだまま、しばらく動かなかった。




