第三章:愛しき時間、時計の砂は滑り落ちて③
シュリが作ってくれた鮭のムニエルの夕食を平らげた後、ドゥーエはダイニングテーブルの上に突っ伏していた。食後にシュリが入れてくれたマリーゴールドとローズヒップの茶の表面で、整っていながらもどこか疲労の色が滲んだ男の顔が揺蕩っていた。
ドゥーエはシュリと食卓を囲む時間が好きだ。シュリがドゥーエのために作ってくれる料理も美味しいとは思う。しかし、それはあくまで嗜好品としてである。
嗜好品に過ぎない人間の食事では、ドゥーエの飢えは本質的には満たされることはない。ドゥーエは飢えの渇きによって、熱っぽく重苦しい怠さを味わっていた。痛覚からなるべく意識を遠ざけ、極力気にしないようにしているが、時折、身体を内部から何かに刺されるような痛みもある。
シュリを”喰え”ば、この症状が和らぐことはわかっている。しかし、ドゥーエは彼女を”喰う”気にはなれなかった。
つまらない意地を張っている自覚はある。それでも、せめて自分が自分を保っていられる間だけは、その意地を張り通したい気がしていた。
シュリと出会い、彼女とこうして時を過ごすようになってから、彼女を単なる獲物として見られなくなっている自分がいた。
(俺はもう……シュリを純粋な”人喰い”としての視点から見ることはできない)
ドゥーエはシュリと過ごす時間が好きだった。この時間を壊すくらいなら、自分を徐々に苛みつつあるこの苦痛に耐えようと思うくらいには今の暮らしを気に入っていた。
(その結果、俺が衰弱して死ぬことになるかもしれない)
それでもいいかもしれない、とドゥーエは薄く笑った。自分の手でこの愛しく尊い時間を壊したくはなかったし、そうやって死ねるのなら自分のような化け物にしては上等だろう。
あとどれだけ今のままいられるだろう。そう思いながら、ドゥーエはテーブルの上の真鍮の砂時計を手で弄ぶ。砂時計をひっくり返すと、さらさらと灰白色の砂が下へと落ち始める。
ギィ、と裏口の扉が開く音がした。「ふぅ……寒かったあ……」今日ドゥーエが釣った鮭の処理をすると言って外で作業をしていたシュリが、身を縮こまらせながら部屋の中へ入ってくる。
ドゥーエはだらしなくテーブルに突っ伏していた体を起こした。ドゥーエは倦怠感に歪んでいた表情を消し、何事もなかったかのようにティーカップの中の冷めた茶に口をつける。自分の体調が芳しくないことをシュリに気取られたくなかった。
「ドゥーエ……」
ダイニングへ来たシュリは何か言いたげにドゥーエを見る。しかし、彼女はいいやとかぶりを振る。一瞬、ドゥーエを案じるようにシュリの顔が曇ったが、それを感じさせないからっと明るい口調で彼女はこう言った。
「それもう冷めてるんじゃない? あたし、これから自分の分淹れるけど、あったかいやつもう一杯どう?」
「ああ、もらおう」
ドゥーエは酸味と仄甘さを感じる冷めた液体を飲み干すと頷いた。それじゃ淹れるね、とシュリはケトルに甕の水を汲むと、竃で湯を沸かし始める。
何の変哲もない日常は少しずつ綻びを生じさせながらも紡がれ続ける。砂時計の砂は静かに落ち続けていた。
◆◆◆
日を追うごとに日々の冷え込みは加速し、季節が移りゆこうとしていた。赤や黄色に色づいていた葉々は生い茂る木の枝から姿を消し、確実に眠りの季節が森に訪れようとしているのを感じさせた。
冬に備えてやらなければならないことは多い。本格的に冬を迎えれば、この森は雪に閉ざされ、日々の食料を得ることすら一気に難しくなる。そのため、シュリとドゥーエは前日の衣替えを皮切りに冬支度ををせっせと進めていた。
「シュリ」
森の中で仕留めた野ウサギをぶら下げて帰ってきたドゥーエは、家の前にしゃがみ込んで焚き火の世話をしている黒髪の少女の姿を認め、その名を呼んだ。少女はドゥーエに気づくと顔を上げる。
「ドゥーエ、おかえり。それ、捕まえてきたの?」
シュリはドゥーエが手にぶら下げているウサギに視線をやると、そう聞いた。ああ、と頷くとドゥーエはシュリにまだ温かいウサギの骸を渡してやる。
「ありがとう。助かる。あっ、そうだ」
シュリはウサギを地面に置くと、紙に包まれた細長いものを棒で焚き火の中から取り出した。はい、とドゥーエはシュリにそれを差し出され、
「熱っ! 何だこれは!?」
あまりの熱さにドゥーエは包みを取り落とした。シュリは自分の分を同じように火の中から取り出ながら、
「何って……焼き芋だけど」
涼しい顔でシュリは包み紙を素手で剥くと、中から顔を覗かせたほくほくと湯気の立つ芋へとかぶりつく。ドゥーエは地面に転がった芋の包みと平気そうな様子のシュリを見比べながら、
「火傷しないのか? こんなに熱いんだぞ?」
シュリは口の中のねっとりと甘い芋をもぐもぐと味わいながら、
「んっ……大丈夫大丈夫。んむ……というか、熱いからおいしいんだし……はふっ」
「食べるか喋るかどちらかにしろ」
呆れたように肩を竦めると、ドゥーエは警戒しながら指で芋の包みをつまみ上げた。「っつ」熱い紙包みを苦労して剥がすと、ドゥーエはふうふうと芋に息を吹きかける。ドゥーエはしばらくそうしていたが、やがて覚悟を決めたように芋に口をつけた。
「ごふっ」
気道と食道を火傷してしまいそうな熱さが喉を突き抜けていき、ドゥーエは思わず噎せる。芋を食べ終えたらしいシュリは芋を包んでいた紙を畳んで服のポケットにしまうと、咳き込むドゥーエの背中を擦ってやりながら、
「もしかして、ドゥーエって猫舌?」
かわいい、とシュリは笑う。その言葉からは揶揄するような空気が滲んでいて、ドゥーエはむっとした。
「かわいいとは何だ、失礼な」
「ごめんごめん。ドゥーエはゆっくり食べてなよ。あたしは作業してるから」
「作業って、何をやるんだ?」
手の中で芋を転がして冷ましながら、ドゥーエは疑問を口にした。ああ、とシュリは焚き火の横においた大きな鍋を手で指し示すと、
「燻製作ろうと思って。昨日、ドゥーエが獲ってくれた鮭の残りがあったでしょ? 昨日のうちに処理して干しておいたんだ」
そう言うとシュリは鍋の底に白い粉と木屑のようなものを入れていく。ドゥーエは少し冷めてきた芋をまだ熱そうに齧りながら、
「今、何を鍋に入れたんだ?」
「杉の枝を削ったものだよ。それと砂糖。これを入れて燻すといい匂いになるんだ」
そう説明してやりながらもシュリは手を動かし続ける。杉の木屑の上に網を置くと、家の陰で干していた鮭の切身を持ってきて網の上に置いていく。
シュリは少し考える素振りを見せると、家の中へと戻っていった。すぐに銀杏といちじくの入った籠を持って出てくると、シュリは鮭の隣にそれらを並べていった。
食材を並べ終えると、シュリは鍋を焚き火にかけた。しばらくして、細い煙が立ち上り始めたのを確認すると、彼女は鍋に蓋をする。
「さて……燻製はこれでよし、と。しばらく時間かかるし、今のうちにさっきドゥーエが捕まえてきてくれたウサギを処理しちゃおう」
シュリは地面においたままにしていた茶色いウサギの死骸を掴み上げると、後ろ足を掴んで逆さ吊りにした。シュリは、腰に吊るした両親の形見の短剣を抜くと、下腹部に刃を押し込み、頸部まで一気に切り裂いた。真っ赤にぬらぬらと光る内蔵が露わになると、シュリは躊躇うことなく手を突っ込んで胃や腸を引きずり出していく。
ウサギの頸動脈をナイフで切ると、まだ温かい血液がどっと溢れ出した。シュリは溶けずに残っていた日陰の雪に切り開かれたウサギの腹を血が出なくなるまでしっかりと押し当てた。
血抜きが終わると、シュリはウサギの後ろ足に切れ目を入れていく。腹の内側からも短剣で切り込みを入れると、シュリは毛皮を引き剥がしていった。
「お前、慣れているんだな」
芋を食べ終わったドゥーエは感心しながら、表情一つ変えずにウサギの皮を剥ぐシュリの手元を覗き込んだ。
「まあね。もう何年もやってるから」
「嫌じゃないのか?」
「昔は嫌だったよ。動物を殺すのも、こうやって解体するのも。可哀想で仕方なかった。
だけど、生きていくためにはこれも仕方のないことだから、今は割り切るようにしてる。変に情けをかけると辛くなるしね」
淡々と答えながら、シュリはウサギの皮を剥ぐとためらいなく頭を短剣で断つ。ぼとりと地に染まったウサギの頭部が引っ張り出した臓物の隣に転がった。そのまま、シュリは骨に沿って短剣で切り込みを入れていき、後ろ足と前足も切り落とす。ウサギの四肢がぼとぼととウサギだったものの断片の横へと落ちていく。
残った胴体を前後に断つと、背骨を前半身の肉から切り離す。後半身から脂肪を取り除き終えたころには、ウサギは生前の姿など見る影もない物言わぬ肉塊に変わり果てていた。
「まあ、こんなところかな。塩漬けにするからドゥーエも手伝ってよ。お肉以外もやっちゃいたいし」
ああ、とドゥーエはシュリの頼みを快諾すると、捌いたばかりのウサギの肉を持って家の中へ入っていく彼女の背を追いかけた。