第一章:出会った二人の欠けし者たち①
色づいた木々の間から漏れる眩しい光が、新しい一日の訪れを告げていた。顎の辺りで切り揃えた黒髪に利発そうな丸い黒瞳の、十代半ばほどの少女はチーク材の重い扉を開けると、朝日に目を細めた。
秋色に染め上げられた落ち葉をオークグレーのレースアップブーツの底でかさりと踏みしめながら、彼女――シュリは素焼きの甕を抱えて歩き出した。喉がひりつくような冷たく尖った早朝の空気に深まる秋を感じながら、シュリは慣れた足取りで森の中を進んでいく。霜風に揺れる野草に降りた朝露が透明な輝きを放っていた。
清冽な朝の静けさの中、一日の始まりを歌い上げる野鳥の声が響いていた。森に住む動物たちが緩やかに活動を始め、今日という日が動き始めていく。
生き物たちの営みが息づく森の中をシュリは奥へと向かって歩いて行く。ニシキギの鮮やかな赤色の茂みをかき分けて、小川のほとりへと辿り着くと、シュリは膝を折ってかがみ込んだ。
腕に抱いていた甕を川の中に下ろして水を汲むと、シュリは凍てつく水面に手を突っ込んだ。寒さで赤く悴んだ手で水を掬いあげると、ぱしゃぱしゃと顔を洗う。ひどく冷たいけれど、清く甘やかな水の感触に、ほんの少し残っていた眠気の靄が晴れていく。
小さな花の刺繍が散りばめられた茶色のチュニックワンピースの袖で、ぽたぽたと雫が滴る顔を拭うと、ずっしりと重い甕を抱えてシュリは立ち上がった。そういえば来るときに煮込むと美味しいキノコが生えていたな、などということを思い出しながら踵を返そうとして、シュリは違和感に気づいた。
妙に森の中がざわめいていた。本来ならばここにいないはずの異質な存在に、森に住まう獣たちが騒いでいるようにシュリには感じられた。
(何か、いる……? たぶん、そんなに遠くない)
シュリは水の入った甕を地面に下ろす。甕の中で水がちゃぷりと小さな音を立てた。
違和感の正体を確かめるべく、なるべく音を立てないように気を配りながら、シュリはニシキギの茂みをかき分けて、木立の中へと慎重に足を踏み入れた。気を張りながら、さざめきの中心へとシュリは歩を進めていく。
(……人? たぶん、怪我をしてる……!)
背の高い男がうつ伏せに倒れ伏せていた。身に纏った黒い外套は汚れてボロ同然にずたずたに裂けてしまっている。かなり出血したのか、男からは濃い血の匂いがした。
獣に襲われたときのために持ち歩いている短剣の存在をそっと右手で確かめながら、シュリは男へと近づき、身を屈めた。
ひどく美しい顔立ちの男だった。「っん……」薄い唇から時折漏れる息には思わしげな色気があって、冷たく圧倒的な美貌に対してアンバランスな艶めかしさを放っていた。
傷だらけの白い肌は、男性のものとは思えないほどにきめが細やかで整っていた。長く豊かな睫毛に覆われた瞼をそっとシュリは指で押し上げる。気を失っているらしく、開いた瞳孔の周りを縁取る虹彩は血と同じ赤色をしていた。
背に流れる長い黒髪は、適当にしか手入れしていないシュリのものとは異なり、艶やかでさらさらとしている。年齢は恐らく自分よりも一回り上くらい――二十代後半だろう。
シュリは男の体を仰向けにすると、彼の背中の下に膝を突っ込んだ。意識のない男の頭の下に自分の手を差し入れ、手首の辺りに重心を集めると、シュリは彼の重い上体を起こし、手近な木の幹へと寄り掛からせる。
男の足の下に自分の膝を差し入れると、シュリは脱力した男の両腕を自分の背へと乗せる。左手を膝の裏、右手を背中に回すと、男の頭を下に傾けながらシュリは立ち上がる。
(重っ……)
腕に感じるずっしりとした重さにふらつきながらも、シュリはよたよたと歩き出す。
こんな朝っぱらから何をしているのだろうと、自分のお人よしっぷりを苦々しく思いつつも、がさがさと落ち葉を踏み鳴らしながら、シュリは思いがけない拾得物を抱えて家路を辿った。
茂みを彩るオレンジ色の小さな花々が、ほのかに甘い秋の香りを漂わせていた。
シュリは自分の暮らす小屋へと帰り着くと、まだ微かに自分の温もりが残るベッドの上へと男の体を横たえた。ずっしりとした重みから解放されたシュリはふう、と息を吐いた。
ベッドに横たえた男の体へとシュリは視線を走らせる。まずは傷の具合を見ると同時にまずは傷口を洗ってしまいたかったが、甕を河原に置いてきてしまったことをシュリは思い出した。
いけない、とシュリは再び扉を開けて外へ出る。足早に先ほどの河原に向かい、水の入った素焼きの甕を拾い上げたとき、自身のらしくなさに苦笑いが滲んだ。孤独な生活に自分以外の存在が急に入り込んだことで何故だか気持ちが浮ついてしまっているようだった。
(……らしくない。本当に、らしくない)
甕を抱いてかぶりを振ると、シュリは踵を返し、再び家への道を急いだ。
シュリは再び帰宅すると、ずっしりと重い甕を台所の隅に下ろした。部屋の奥にあるスギの無垢材の戸棚から、オフホワイトの琺瑯のたらいを持ってくると、甕の中身を注ぎ替えてシュリはベッドで眠る男の元へと向かった。ベッドサイドで膝立ちになり、たらいを足下に置くと、彼女は着せたままになっていた男のぼろぼろの外套を慎重に剥いでいく。
血のシミが大きくできたグレーのベスト。銀糸のストライプの入った黒のシャツにはところどころ大きな裂け目ができてしまっている。
血で赤黒く染まった上の肌着を脱がせると、シュリは続けて履かせたままだった黒いブーツの革紐を解いていく。紐を解き終えると、泥と血で汚れたブーツを男の足から脱がせてベッドの脇へと揃えて置いた。
シュリは無駄な肉のない男の腰へと手を回すと、黒い蛇革のベルトを引き抜いた。そのままシュリは躊躇うことなく、男の汚れてかぎ裂きのできた黒いテーパードパンツを脱がせていった。
下半身に肌着を一枚残すのみの姿になった男の、程よく引き締まり、うっすらと筋肉のついた体には、紫色に変色した打撲傷や切り付けられたり矢で射られたりしたのだろうと思われる傷があった。生まれて初めて目にする、亡くなった父のものではない若い男の裸体に少しどぎまぎしつつも、そんな場合ではないとシュリは頭の中から煩悩を追い払う。
シュリは傷の深さを目で測りながら、たらいの水で男の傷口をなるべく刺激しないように優しく洗っていった。
(血はほとんど止まりかけているみたいだから、消毒して、化膿しないように軟膏塗って……殴られたところは湿布貼っておいて、と……。起きた後に飲ませるために、痛み止めの薬も用意しておかないと)
シュリは立ち上がると、ダイニングの壁際にある戸棚からいくつかの薬品の瓶と包帯を持って男の眠るベッドへと戻ってきた。瓶の蓋を開け、ピンセットで綿を摘み上げて薬品に浸す。シュリはそれをぽんぽんと軽く傷口に叩き込み、清潔なガーゼを当てる。そして、打撲の傷には、ハーブの抽出液に浸して作った湿布を貼り、包帯を巻いていった。
こんな人の寄り付かない森の中で一人で暮らしている以上、誰に見られているわけではないが、その格好の美しく若い男と二人きりというのは何となく体裁が悪いような気がした。それに今の季節、このままにしておけばおそらく風邪をひいてしまう。
外の納屋に昔、父が着ていた服があったはずだと思いながら、シュリは立ち上がった。長らく仕舞い込んでいたので少し埃っぽいかもしれないが、ないよりはマシだろう。
(あの男のせいであたしの服も汚れちゃったし、後で着替えないと……。あいつが着てた服も血まみれだし、朝ごはんの後にあたしの服のついでに洗って……)
そんなことを考えながら、台所脇の裏口の扉から外へ出ようとしたシュリははたとして足を止める。自分の世話焼き具合にほとほと嫌気が差して、シュリは顎のラインで切りそろえた自分の黒髪をわしゃわしゃと書き毟った。
(あいつ……男のくせに髪も綺麗だったな……。あたしなんかとは大違い)
何だかなあ、と複雑な気分になりながら、シュリは台所の脇にある裏口の扉から外に出て、小屋の横の納屋を開ける。
鍬や小鎌などといった農作業に使う道具の類。季節ごとに整頓された今は着ていない衣類のかごたち。鋸や金槌などといった大工道具に使う工具類。普段は使っていないかごや食器類。幼いころ、両親がシュリのために作ってくれた薄汚れてくたびれた人形や玩具たち。
様々なものが綺麗に整頓されてしまわれた納屋の中に上体を突っ込んで、シュリは棚を漁り始める。埃っぽい空気にくしゅん、と小さくくしゃみが漏れ、近いうちに一度掃除と換気をしたほうが良さそうだなと頭の片隅をそんな思考が過った。
「あった」
上から二段目の棚の奥に、父親の古い衣類を纏めた籠を見つけたシュリは小さく呟いた。今の時期でも着られそうな服を見繕って埃を払い落とすと、彼女は桟がクロスした木製の扉を閉めた。
シュリは家の中に戻ると、あまり見ないようにしながら意識を失ったままの男に昔、父親が着ていた服を着せていった。男の顔は血の気を失ってひんやりと冷たいままだったが、シュリが処置をしたことで少し楽になったのか、穏やかな表情をしていた。
まあいいか、と半ば諦めた気分になりながら、シュリは自分も着替えようとベッドの下から着替えの入った籠を引っ張り出す。
(……大丈夫だよね。まだ寝てるみたいだし)
まだ意識の戻らない以上、この場で着替えたところでこの男に見られることはない。それに、もし仮に見られたとしてもなにか困るわけではない。
いつまでも男の血で汚れた服を身に纏っていたくなくて、ウエストラインに茶色の糸で刺繍が施されたベージュのチュニックワンピースを手に取ると、シュリはばさりと着ていた服をその場で脱ぐ。暖炉に火を入れているとはいえ、肌着から伸びた細い手足に寒さを覚え、彼女はすぐに着替えに頭を突っ込んだ。
チュニックワンピースの袖から手を出すと、シュリは自分と男の汚れた衣服を纏めて汚れ物用の籠に放り込む。男の血で汚れてしまったシーツも洗ってしまいたかったが、今朝のところは難しそうだった。
(それにしても、この人……誰も寄り付かないこの森の中で何をしてたんだろう? 切り傷に矢傷……うっかり迷い込んで、獣に襲われたってわけでもなさそうだし)
シュリは男の治療に使った薬品類を片付けようとして、ベッドの脇へと手を伸ばす。何とはなしに眠る男の髪にシュリが触れると、人間のものとは異なる特徴的な耳が露わになった。
「え……?」
思わず口をついて出た声が震えた。もしかして、とシュリは思った。彼女は自身の推測の裏付けを取るべく、男の上唇をそっと捲る。やたらと発達した犬歯が顔を出し、やっぱり、と彼女は小さく呟いた。
(尖った長い耳に鋭い牙、それに人間離れしたこの美貌……! この人は……!)
思い至った真実の悍ましさに、シュリの表情が強張っていく。
シュリが助けてしまったこの男は”人喰い”と呼ばれる化け物だった。彼の身体につけられた傷の数々は、人間たちに追われてつけられたものだったのだろうとシュリは遅まきながら理解する。
シュリはシャツの襟元から露出する男の首筋へと手を這わせる。ごつごつとした喉の感触と、頸動脈の拍動にシュリは怯む。しかし、今、彼を始末してしまわなければ、殺されるのは自分のほうだ。
(……駄目だ。たとえ”人喰い”でも、こんな寝込みを襲って殺すような卑怯な真似、あたしにはできない)
これだけの手負いだ。焦らずとも、彼を殺すのは今でなくても構わない。シュリはそう思い直して男の首から手を離すと、嘆息した。甘いという自覚はあった。
(知らなかったとはいえ、拾ってきちゃった以上、目が覚めるまで面倒を見るだけ。こいつの意識が戻ったら、すぐにでも叩き出してやる)
そう自分に言い聞かせると、シュリは薬品の瓶や包帯の残りをかき集めて立ち上がる。部屋の奥の戸棚に薬を片付けながら、これは仕方のないことなのだと自分の行動を正当化するように彼女は己に言い含めた。
とりあえず今は朝食にしてしまおうと、シュリは戸棚からマッチを取り出した。彼女は台所へ向かい、竈に火を入れると、昨夜の残りもののスープの入った鍋を温め始めた。