第三章:愛しき時間、時計の砂は滑り落ちて①
細雪が窓の外を舞っていた。まだ冬には少し早いにもかかわらず、その日は昼過ぎから雪が降っていた。
一人きりの部屋の中をぱちぱちと暖炉の火が爆ぜる音が響く。雪の寒さで薪の使用量が増えることを見越し、ドゥーエは薪を集めに出掛けていた。
ドゥーエは優しい。それに、こういった不測の事態のときにさっと率先して動いてくれる姿には、亡き父に似た頼もしさをも感じる。
(けれど……あたしがドゥーエに抱いている感情は、お父さんに向けていたものとは違う)
ドゥーエ、寒くないかな。ドゥーエ、どこまで行ってくれているんだろう。行ってくれるからって言葉に甘えちゃったけど、やっぱりドゥーエ一人に任せて悪いことをしたかな。
彼のことを考えるだけで、シュリの心は落ち着きのない子供のようにそわそわしてしまう。時に森に生る果実のように甘酸っぱく弾け、時に胸の底でざわつくこの感情の正体がシュリにはわからない。
窓に付着した泡雪が溶け、水滴へと変わっていく。室内外の寒暖差で曇った窓に水の筋が滴り落ちていく。苞葉が赤く染まった窓辺のポインセチアの鉢をなんとはなしにシュリが眺めていると、ギィと入り口の扉が開いた。
「ドゥーエ、おかえり」
シュリは部屋の奥の戸棚から乾いた布を取り出すと、ドゥーエの元へと向かう。今しがた自分が口にした言葉の響きが何となくくすぐったくて照れくさい。
「あ、ああ……」
言われたドゥーエの側も意表をつかれたように、深紅の双眸を瞬かせた。ドゥーエは居心地悪げに視線を宙に泳がせると、
「えーと、その、なんだ。……ただいま、シュリ」
それは”人喰い”として生まれ、これまでの生涯を一人きり、旅の中で過ごしてきた彼が初めて口にする言葉だった。何故か頬が熱くなる。
はいこれ、とシュリは布をドゥーエに差し出すと、
「ありがとね、薪集めてきてくれたんでしょ?」
「大したことじゃない。その……集めてきた分は裏に置いておいたからな」
照れ隠しのようにぶっきらぼうな口調でそんなことを言いながら、シュリから受け取った布でドゥーエは雪のついた自分の身体を拭いていく。ありがとう、と全身をあらかた拭き終わったドゥーエがシュリに布を返すと、
「ドゥーエ、ちょっと屈んで。頭にまだ雪ついてる」
ああ、とドゥーエは膝を折って中腰になる。布を持ったシュリの手がドゥーエの髪に触れる。よし、取れた、とシュリはひとりごちると、ドゥーエの髪を一房すくい上げて、
「ドゥーエって髪綺麗だよね。こんなに長いのにさらさらしてて、ツヤもあって。あたしと同じ黒髪なのに全然違う」
「別にそんなことはないと思うが……」
「それにドゥーエは肌も手も綺麗だよね。顔も男の人とは思えないくらい、とっても綺麗」
あのな、とドゥーエは苦虫を噛み潰したように言うと、両手でシュリの顔へ触れる。ドゥーエはシュリに自分の顔を近づけると、
「シュリ、俺は男だ。……わかっているよな?」
人間離れした美しい顔が至近距離から自分を見つめてきて、シュリはどきりとした。自分を見るドゥーエの赤い目には妖艶な凶暴さが揺れている。シュリはしどろもどろになりながら、
「わ、わかってるってば。今のはたとえみたいなものだし。ていうか、あたし、ドゥーエのこと、男の人じゃないなんて思ったことなんてないし!」
「いや、絶対にわかっていない。無自覚にそのように男を褒めそやすものじゃない。変な気を起こして、何かされても文句は言えない」
ぼとり、とシュリの手から水気を含んだ布が落ちた。ドゥーエが言わんとしていることを理解したのか、丸く黒い目を見開いたシュリの顔が紅潮していく。
「……っ!」
俺以外には絶対にやるなよ、と低い声で釘を刺すと、シュリから手と顔を離す。シュリは息がかかるほど近くにあったドゥーエの顔が離れていくのを残念に思った。ドゥーエが相手であれば、もう一歩踏み込んだ”何か”をされてもいい――そんなことを考えかけた自分の思考を打ち消すように、シュリは慌ててかぶりを振った。
「えっと、外、寒かったよね? あたし、お茶淹れてくる!」
真っ赤な顔でシュリはそう言うと、逃げるように台所に向かっていった。ドゥーエは床に落ちたままの布を拾って、汚れ物用のかごに入れた。オーク材のダイニングチェアの背に黒い外套を脱いで掛けると、ドゥーエは椅子に腰を下ろした。はあ、と自己嫌悪で大きく溜息を吐き出すと、ドゥーエは右手をこめかみに当てる。
(やり過ぎた……何をやっているんだ俺は……)
こぽこぽと台所でシュリがティーポットへ湯を注いでいるらしい音が聞こえる。かすかにレモンのような香りが台所から漂い始め、少しずつドゥーエの心は落ち着きを取り戻していく。
シュリは五分ほどしてダイニングへと茶の入ったカップを運んでくると、訝むようにドゥーエへと声をかけた。
「どうしたの? 頭でも痛い?」
何でもない、とドゥーエはシュリから湯気の漂うカップを受け取った。
「そう?」
疑わしいとでも言いたげな顔をしながら、シュリもドゥーエの向かい側へと腰を下ろした。
「旨いな」
淡い飴色の液体に口をつけると、ドゥーエはそう呟いた。柑橘と生姜の爽やかさと程よいはちみつの甘さが冷えた身体へと染み渡っていく。
「これレモングラスのお茶なんだけど、昔、冬になるとお母さんがよく飲ませてくれたんだ。寒いときはこれが一番、って」
そうなのか、と相槌を打ちながら再びドゥーエは茶に口をつける。
「こういうのも悪くないな」
「お母さんの直伝の味だもん。当然でしょ」
そうではなくて、とドゥーエは首を横に振る。
「こうやって誰かと茶を飲むという行為が、だ」
先程、帰宅したときのやりとりもあり、ドゥーエはシュリの顔を直視できなかった。自分が小っ恥ずかしいことを口にした自覚はある。
ふふ、とシュリは含み笑いを漏らすと、そうだね、と頷いた。
「……何がおかしい」
ドゥーエが憮然とした顔をすると、違う違う、とシュリは顔の前で手を振った。
「おかしいんじゃなくて嬉しいの。ドゥーエがそういうふうに言ってくれるのが。あたしもドゥーエと同じ気持ちだから」
「シュリ……」
「あたし、もう何年も一人だったから、自分の淹れたお茶で、誰かが美味しいって言ってくれるのが嬉しい。それに、その相手がドゥーエだから、特にかな」
「またそんなことを……」
ドゥーエは苦笑した。この娘は、先程俺が言ったことの意味を本当に理解しているのだろうか。
(けれど……こんな時間がいつまでも続いてくれればいい)
ドゥーエは口の中に広がる幸せの味を噛み締めながらそんなことを思う。カップから漂う湯気のように、シュリと過ごすこの時間が儚くすぐに消えてしまうものだと理解しているからこそ、そう思わずにはいられなかった。
身体が空腹の渇きを訴える頻度が上がってきていることにドゥーエは気づいていた。今、こうしている瞬間も、ドゥーエの身体は倦怠感に支配され、内側からちくちくと刺されるような不快感を味わい続けている。限界が近いことを知っているからこそ、この刹那の永遠を願わずにはいられない。一秒でも、一瞬でも長く今の時間が続いてほしかった。
家の外ではしんしんと降り続ける雪が、うっすらと辺りを白に変え始めている。ぱちぱちと暖炉の火が爆ぜる音が終焉への序曲を奏で始めていた。




