第二章:埋め合う隙間に生まれるものは②
シュリは八歳まではエフォロスの森の南にあるノルスで、薬師である両親とともに暮らしていた。母親のフウナが元々は素性の知れない流れ者であったことから、同じ町で暮らす父親のセイレムの姉一家からは疎んじられてはいたものの、八年前のその日が訪れるまで、シュリは普通の子供として幸せに過ごしていた。
森の木々が赤や黄色に色づき始め、金木犀が香り始めたころのことだった。シュリの一家はノルスで営んでいる薬の店を休み、エフォロスの森を訪れた。店で商う薬の材料の採集と幼いシュリのためのピクニックが目的だった。
仕事の延長とはいえ、両親と出かけられることを喜んだ幼いシュリは、森に自生する薬草を集める両親の後ろをついて歩きながら、木の実や美しい鳥の羽を拾い集めて遊んでいた。セイレムとフウナは時折手を止めては、無邪気に遊ぶ愛娘を優しい目で見守っていた。
優しい金色の木漏れ日が降り注ぐ森の中をしばらく進んでいくと、小さな丸太小屋があった。普段は薬草の乾燥や、材料を管理する倉庫代わりに使用している場所であり、フウナと結婚してからセイレムが手ずから建てたものであった。
セイレムがズボンのポケットから出した真鍮の鍵を鍵穴へと差し込む。かちり、という小さな音とともに鍵が開いた。セイレムがチーク材の重い扉を開けると、待ちきれなかったかのように小さなシュリは扉の隙間から小屋の中へとするりと体を滑り込ませた。
くすくすと笑いながらフウナは娘より一歩遅れて小屋の中へ入ってくると、換気のために窓を開けていく。窓から入り込んできたからりと冷たい風に幼い娘と同じ色の彼女の長い髪がふわりと揺れた。
その間にセイレムは道中で集めてきた薬草を種類ごとに分けて紐で束ねていく。その様子をシュリは床にしゃがみこんで興味津々で覗き込んでいた。
天井の木目に沿って渡したロープへとフウナはセイレムが束ねた薬草を手際よく吊るしていく。道中で集めてきた薬草の処理が終わるころには、東南の空にあったはずの太陽は南の高い場所へと位置を変えていた。
昼食の入ったバスケットを持って家の外へ出ると、澄んだ青い空の下、三人は木立の続く細い道を森の奥へと向かって進んでいく。輪唱を繰り返す鳥たちの声に寄り添うように、爽籟の伴奏が響いている。
冬を越すための家をせっせと築いている虫の幼体。雪の季節に備えて粧いを変えるウサギやモモンガといった小動物たち。南へ向かう途中、木の上でひとときの休息を取っている普段見かけない色の鳥たち。少しずつ次の季節を迎える準備を進めている生き物たちの営みに、シュリは丸く大きな黒瞳を輝かせる。
頬袋いっぱいにどんぐりを詰め込んだリスの愛らしさに目を奪われていたシュリは、「あっ」木の葉の下にあったイタチの巣穴に足を取られて躓いた。横を歩いていたセイレムはとっさに腕を伸ばして、ひっくり返りかけた娘の体を支える。もう、とフウナは呆れたようにシュリを見やると、
「シュリ、浮かれすぎよ。あんまり浮かれていると危ないわ。きちんと前を向いて歩きなさい」
母親に釘を差され、シュリははあい、と頬を膨らませた。限界を超えた量のどんぐりを口に押し込もうと奮闘しているリスから視線を外し、顔を上げるとシュリは再び歩き始めた。
森の道をしばらく進み、茂みを抜けると川縁へと出た。細かな砂利の多い地面に大判の織物を敷くと、シュリたちはその上に腰を下ろし、バスケットの中の昼食を広げ始めた。
塩漬け肉とゆで卵のサンドウィッチ。黄金色の芋のペーストが乗った、バターの香りが芳醇なパイ。山羊革の水筒に入れられた、すっきりとした喉越しの冷たいりんごの絞り汁。
「いただきます!」
シュリは目を輝かせると、スイートポテトのパイへと手を伸ばした。サクッという音を立ててパイを頬張ると、口の中にねっとりとした自然な甘さが広がった。
白日の光を受けて、波紋を刻む川面がきらきらと光る。さわさわと冷たさを孕んだ風が森の木々を揺らしていく。頭上の枝からはらりと落ちてきた紅色の葉が小舟のように川を流れていく。律の調べに乗ってチィチィとどこかで鳥が歌う声がする。自然の中で摂る食事は、さして手の込んだものではないにもかかわらず、いつもより美味しく感じられた。ほんの少し、いつもの日常から外れた特別感がそうさせているのかもしれなかった。
食事を終えると、セイレムとフウナは立ち上がった。少し高く見える秋空の下から柔らかな昼の陽光が降り注ぎ、小川のせせらぎと木々の葉のそよぐ音の織りなすハーモニーが控えめな子守唄を奏でている。腹がくちくなったシュリは、幸福な眠気が押し寄せてくるのを感じていた。
「お父さんとお母さんは、もう少し奥の方まで行ってくるけれど、シュリはどうする? ここでお昼寝している?」
「うん……」
欠伸を噛み殺しながら、シュリはフウナへと返事をする。がくっ、がくっと不規則に舟を漕いでいる小さい娘に、フウナは自分が羽織っていた朱色と黒のチェック柄のショールを脱いで掛けてやる。
「それじゃあ行ってくるからな」
「お昼寝して、いい子で待っていてね。夕方までには戻ってくるから」
セイレムとフウナはそう言うと踵を返した。両親が落ち葉を踏むざくざくという音が遠ざかっていくのを聞いているうちに、イリスのような柔らかく甘い香りの母のショールの中でシュリの意識は眠りの中に落ちていった。
秋の日の昼はゆっくりと穏やかに過ぎていった。木々の間から覗く空がオレンジ色に色づき始めたころ、シュリはつんざくような甲高い女性の悲鳴が聞こえたような気がして目を覚ました。「お母さん……?」靄がかかったかのようにぼんやりとして、はっきりしない寝起きの頭で、シュリは半ばうわ言のように呟く。
川辺の風に晒され続けた肌はすっかり冷えきっており、彼女の口からくちゅんと小さなくしゃみが飛び出した。あれだけ自然の営みの音で溢れていたはずの森の中はしんと静まり返り、緊張の糸がぴんと張り詰めている。
少しずつ眠気が抜けていくに連れ、思考が段々と戻ってきて、シュリはそろそろ戻ってきているはずの両親の姿がどこにもないということに気付く。そして、先ほど、夢と現実の狭間を彷徨いながら聞いた母のものと思われる悲鳴のことへと思考を巡らせ、両親の身に何かあったのではないかという可能性にシュリは思い至った。
背筋にすっと冷たいものが走る。息が喉に引っかかる。シュリは、フウナのショールをその場に投げ捨てると、数時間前に両親が向かった森の奥へ向かって駆け出した。
嫌な予感に頭の中で警鐘が激しく打ち鳴らされている。痛く苦しいほどに鼓動が胸に打ち付けられる。もう肌寒い季節であるにも関わらず、首筋を冷たい水の珠が滑り落ちていき、薄緑色のエプロンドレスの布地を肌に張り付かせた。
シュリは土で少し薄汚れた服の袖口で、額に浮いた汗を拭いながら走る。時折、木の根に足を取られて倒れそうになりながらも、母の悲鳴が聞こえた方角へと急いだ。
ぜえはあと不規則に呼吸が乱れ、脇腹が疼痛を訴えていた。膨らみ続ける不安がつんと鼻の奥を突く。どうか杞憂であって欲しい――どうしたんだ、と頭を撫でてくれる土と汗の匂いが入り混じった骨ばった大きな父の手が、怖い夢でも見たの、と抱きしめてくれる薬草の匂いが仄かに香る母の優しい腕が恋しくて仕方がなかった。
どれくらい走り続けただろうか、膝ががくがくと震え、足が言うことを聞かなくなったころ、それは彼女の視界よりも先に、聴覚へと飛び込んできた。
ごきっごきっという低く、鈍い、固さのある何かが折れる音。そして、ぐちゃぐちゃくちゃくちゃと何かを咀嚼する音が続く。その異様さに、肌がぞわりと粟立つのをシュリは感じた。何かいてはいけないはずのものがここにいる、そんな気がした。
シュリは意を決して、音のする方へと恐る恐る視線を移した。刹那、視界に飛び込んできた光景に、反射的に飛び出した悲鳴が喉の奥に引っかかって細く掠れ、秋の黄昏時の冷え込み始めた空気を微かに震わせた。
むっと噎せ返るように生臭い暗赤色の液体。引きちぎられ、すうっとした独特の芳香を放っている薬草と赤褐色の双眸にありありと恐怖の色が浮かぶ男の頭部。シュリの目の前に広がる光景は、圧倒的な力による無慈悲な蹂躙が行われたことを意味していた。
(お父さん……お母さんっ……! いやっ……!)
視界に映る大切なものを壊し去った痕跡の数々。あまりのことにシュリは呆然とした。へなへなと身体から力が抜け、シュリは半ば倒れ込むようにしてその場に座り込んだ。
目の前に突きつけられた現実を受け入れることを拒むかのように、がくがくと全身が震える。がちがち、がちがち、と歯が音を立てる。早く逃げなければ、今度は自分がああなるのだと、本能が警鐘を激しく打ち鳴らしていた。しかし、まるで自分のものではないかのように、冷たい地面へと投げ出されたままのシュリの両足は言うことを聞かなかった。
ふいに、木の根元で四つん這いになっていた人影がこちらを振り返った。冴え冴えと冷たい色をした双眸と目が合う。恐怖でひゅう、と喉が鳴った。
全身を血で汚した、圧倒的な美貌の妙齢の女だった。底冷えするアイスブルーの瞳には、酷薄さと妖美さが共存している。薄闇に浮かび上がる肌は雪のように白く、神々しいまでの美しさを放っていた。
しかし、彼女の姿で何よりも特徴的なのは、口元から覗く鋭い牙と白銀の髪の間から覗く長く尖った耳だった。この特徴を持つ存在に、シュリは心当たりがあった。
(”人喰い”……!)
”人喰い”の女がおもむろに何かに牙を突き立てた。彼女の口元からだらりと垂れ下がる黒い糸状のものの正体に気づいたシュリは戦慄した。
女が食べているのはフウナの頭部の上半分だった。ばきばき、ぐちゃぐちゃ、と頭蓋骨を噛み砕き、咀嚼する音と共に、彼女の口の中にフウナの頭部が消えていく。見ないほうがいい、今すぐにこの場を離れるべきだと、脳内ではひっきりなしに警鐘が激しく打ち鳴らされているにも関わらず、シュリはその光景から目を逸らすことがどうしても出来なかった。
”人喰い”の女は最後に残った毛髪をずるずると啜ると、ごくりと嚥下する。口元に付着した血液をぬらぬらとした舌先で舐め取ると、彼女は獣のように鋭く発達した牙を覗かせながら、嫣然とした狂気的な笑みをシュリへと向けた。
「……ッ!」
圧倒的で倒錯的な艷容さに、幼いながらにシュリはぞくりとしたものを覚えた。目の前の”人喰い”の女には生き物の本能を刺激する艶めかしさがあって、恐ろしいのに目が離せない。
逃げないといけないのに身体が動かない。このままではこうなるのは次は自分だ。
(動け……! 動け動け動け動け……! 逃げないと死んじゃう……! 食べられちゃう……!)
シュリは恐怖で動かない身体を鞭打つように叱咤し、やっとのことで手近な木の幹を掴んで立ち上がると、ゆっくりと後ずさる。そして、身を翻すと、力の入らない足でシュリは走り出した。今のシュリにできるのは、”人喰い”に殺された両親を見捨てて逃げることだけだった。
(お父さんっ……! お母さん……っ!)
両親を喰らったあの人影が後を追いかけてきているかどうか、背後を確認する余裕などなかった。何度も躓き、転びながらも、シュリは森の中を出口へと向かって走り続けた。これがまだ夢の続きであるならばどうか覚めて欲しいと願いながら、シュリは何度も何度も両親を胸中で呼びつづけた。
気がつけば、シュリは森を抜け、ノルスへと繋がる街道へと出ていた。ぜえぜえと息は荒く、膝ががくがくと震えている。恐る恐るシュリは背後を確認したが、あの化け物が自分を追ってきている様子はなかった。
唐突に緊張の糸が切れ、シュリはその場に崩折れた。今しがた見聞きした恐ろしい光景が彼女の脳裏を渦巻いていた。
「うっ……うあっ……」
昼食に食べたサンドウィッチとパイが苦酸っぱい胃液とともに食道を逆流してきた。視界が涙で滲む。シュリはその場で蹲ったまま、胃の中のものを吐いた。
(何で……どうしてっ……)
何で、こんなことになってしまったのだろう。どうして、自分の両親はあんなふうに”人喰い”に食い殺されなければならなかったのだろう。ぐわんぐわんとそんな疑問が頭の中で反響を伴って大きくなっていく。
そんなことを考え続けるうちに、限界を迎えたシュリの意識はぶつりと途絶えた。
夜の藍色に染まり始めた空の下、黒々とした森の影が静かに倒れ伏す少女を見つめていた。




