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第二章:埋め合う隙間に生まれるものは①

 生い茂る森の木々の葉や家の屋根を叩く雨の音がやけに大きく聞こえていた。

 背中に暖かなぬくもりと命の拍動を感じながら、ドゥーエはため息をついた。暖炉の火が消えた寒い室内に、彼の呼気がふわりと白く広がる。

 自分の息が闇の中に消えていくのを見届けると、ドゥーエは何度目になるかわからない寝返りを打った。手足を折り、小さく丸まるようにして眠る華奢な背中が目に入る。

 ドゥーエは明日、この家を出て行くことをシュリへ告げた。彼女は少し寂しそうな表情を覗かせはしたものの、拍子抜けするほどにあっさりとそのことを受け容れ、了承の意を示した。

 傷が癒えきったわけではない。今もノルスの自警団につけられた傷は治りきらないまま、ドゥーエの身体に残り続けている。

(これ以上、シュリと一緒にい続けるのはよくない……俺にとっても、シュリにとっても)

 空腹による渇きが、時折顔を覗かせるようになっていた。ちりちりと体内を灼くような痛みと”喰いたい”という本能を理性でねじ伏せてやり過ごしていたが、それだっていつまで保つかわかったものではない。

 情が移りすぎた、とドゥーエは思う。遠からず、”人喰い”としての衝動を抑えきれなくなるときが来る。そうなったときにシュリを捕食対象として割り切るには、ドゥーエは彼女のことを知りすぎていた。自分がいつか彼女を喰ってしまうようなことになるのは嫌だと、”人喰い”の本能と相反する感情をいつの間にか抱くようにすらなってしまっていた。

(……潮時だろう。俺のような化け物には過ぎた夢を見ていたんだ)

 思えば、シュリと出会ってから今までが異常だったのだ。”人喰い”は決して人間とは相容れることはできず、共存など出来はしない。それはドゥーエが今まで、何度も何度も自分自身に言い聞かせてきたことだった。

 それなのに、シュリの様々な表情を知るほどに、何でもない他愛のない会話を交わし合う度に、彼女のそばから離れがたくなっていった。それほどにシュリのそばはドゥーエにとって居心地が良く、追い出されないのをいいことに長々と居座り続けてしまった。

 緩やかに、穏やかに過ぎていく束の間の日常は、いつの間にかドゥーエの中で大きなものとなってしまっていた。

(俺はシュリを傷つけたくない。せめて、シュリにだけは化け物である俺の姿を知られないままでいたい)

 二人で過ごしたこの日々を綺麗な思い出のままにしておきたかった。そのために、後ろ髪を引かれながらも、ドゥーエはこの家を離れることを決めた。短い間だったといえ、世話になり、共に過ごした彼女のためにドゥーエができるのはそれしかない。傷が浅くて済むうちに離れてしまうのがお互いのためだった。

 この夜が明けて日が昇れば、行く当てもなく、いつまで続くとも知れない一人きりの旅暮らしに戻ることになる。自分にとっての当たり前が戻ってくるだけのことだとは思うのに、寂しいという感情が顔を出してはドゥーエの決意を阻もうとする。

 くだらない感傷だとは思う。きっと、時が経てば、人間よりも遥かに長い時を生きていく自分にとっては記憶にも残らぬほどに些細な出来事でしかなくなり、彼女にとっても、繰り返される日常に埋もれて色褪せていく程度のことに過ぎない。そう思うことで、彼はどうにか自分を納得させようとしたものの、本当にそうなのだろうかという疑問を拭いきれないままでいた。

 もう一緒に過ごすのも最後なのだと思うと、こちらに背を向けて眠っている彼女の温もりに無性に触れたいという衝動がこみ上げてきた。しかし、彼女に対しては最後まで誠実な紳士でありたいような気がして、シーツに包まれたその存在の輪郭を記憶に焼き付けるかのように視線でなぞるだけに留めておく。

(何をやっているんだろうな……)

 自嘲めいた笑みを浮かべると、ドゥーエはシュリへと背を向け、目を閉じる。遠くにいる眠気の気配を手繰り寄せようとしながら、閉じた世界に身を委ねていると、ひくっ、と小さくしゃくり上げるような声を彼の聴覚が捕らえた。はっとしてドゥーエは己の内に向いていた意識を現実に引き戻すと、暗赤色の目を開く。

 がばっと身を起こし、隣を見ると、シュリの華奢な細い身体が小刻みに震えていた。ドゥーエは訝しげに彼女の名を呼ぶ。

「シュリ……?」

 シーツに包まったまま、啜り泣くばかりで反応らしい反応はない。ドゥーエはためらいがちにシュリへと手を伸ばすと、そっと彼女の短い黒髪に触れる。

「シュリ。どうした?」

 寝乱れた髪を優しく撫でてやりながら、ドゥーエは低く落ち着いた声音で彼女へと問うた。何でもない、とシュリが身震いすると、ばさりとシーツが音を立ててベッドから床へと滑り落ちた。遠くで雷鳴が低く轟き、窓から入り込んできた稲光で涙に濡れたシュリの顔が凍えるような闇の中に一瞬浮かび上がる。

「ドゥー……エ……?」

 シュリは涙で湿った声でそう呟くと、ドゥーエの首に両腕を回してしがみついてきた。彼女はドゥーエの胸に顔を埋めると、声を上げて泣きじゃくり始めた。いつの間にか強くなった雨音の中を細く甲高い、哀切に満ちた苦しげな悲鳴が貫く。

「おい、シュリ……?」

 ドゥーエは戸惑いながら、シュリの華奢な背をそっと抱きしめてやる。腕の中の少女の身体は細く頼りないのに、その温かさと鼓動が彼女が今ここに存在していることをドゥーエへ確かに伝えていた。なぜか胸がひどく苦しくなって、ドゥーエはシュリの髪へと顔を埋める。

「シュリ……泣くな。俺がここにいる。俺がお前のそばにいるから……だから、少し落ち着け」

 ドゥーエの言葉に反応するように、腕の中の少女の身体が小さく動く。それを見ながら、ドゥーエは参ったな、と思う。

(ああ、駄目だ……俺は、こんなふうに泣くシュリを置いて、どこかに行くことなんてできない……)

 彼女をこの状態のまま放ってはおいてはいけないとドゥーエは強く感じた。こんな状態の彼女を一人にしたら壊れてしまうのではないかと怖かった。

「……夢を……見た、の……」

 シュリはドゥーエの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟いた。少しずつ様子は落ち着きつつあったが、声にはまだ嗚咽が混ざっている。

「夢?」

 ドゥーエは聞き返すと、続きを促した。シュリはこくりと頷くと、ドゥーエの背に爪を突き立ててきた。さほど痛くはなかったが、シュリの指先が触れた場所から、彼女の恐怖や哀しみ、怒りや憎悪が複雑に混ざり合ったものが伝わってきて切なかった。再び溢れだした彼女の感情が、ドゥーエが寝巻き代わりにしているオールドブルーのシャツの胸元をじっとりと湿らせ、その痕跡を刻んでいく。

「あの、ね……お父さんと、お母さんが……死んだ、ときの……夢を見たんだ」

 そうか、とドゥーエは目を伏せる。シュリの乾いた唇がぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。淡々とした彼女の声音がドゥーエの耳朶(じだ)に痛みを伴って響いた。

 雨の音に混ざるようにして、季節外れの遠雷が聞こえ続けていた。


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