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第一章:出会った二人の欠けし者たち⑪

 ノルスの町外れにある薬問屋の前に荷車を止めたシュリは、コツコツと扉を叩いた。

「キサラさん、シュリです。今月分の薬の納品に来ました」

 あいよ、と扉の向こうで嗄れた声が返事をした。程なくして、キィと扉が開き、一枚の書類を手にした小柄な老婆が姿を現した。

 シュリは通常の相場の三割引きという条件で、キサラの店と契約をしている。シュリにとって不利な契約内容であることは間違いないが、それでも他に生きていく手段を持たないシュリにとって、このノルスの町では破格の条件であることは間違いなかった。

「キサラさん、こちらが今月分です。確認をお願いできますか?」

 シュリは荷車に積まれた木箱の蓋をすべて開くと、キサラに納入内容の確認を促した。キサラは銀縁の眼鏡の奥のアイスブルーの双眸を細めると、手に持った書類の内容と荷車の薬品を照らし合わせていく。彼女はシュリが持ってきた薬を確認し終えると、

「今月分も問題ないよ。裏の倉庫に運び入れておいておくれ」

「わかりました」

 シュリは荷車から木箱を下ろすと、店舗裏にある倉庫へと運んでいく。シュリが倉庫と荷車の往復を終えると、店の前でシュリの作業が終わるのを待っていたキサラから金貨の入った布袋を手渡された。袋の口を開けて中を確認すると、いつも通り金貨が十枚入っている。

「確かに受け取りました。キサラさん、もうしばらくここに荷車を止めておいてもいいですか? 帰る前に少し買い物をしてきたくて」

 シュリの言葉にキサラは露骨に嫌そうな表情を浮かべると、

「構わないが、何かされてもわたしゃ責任取らないからね。それでもいいなら勝手にしな」

 ありがとうございます、と頭を下げるとシュリはその場を後にした。

 ドゥーエは土産など気にしなくてもいいと言っていたが、彼のために何か買って帰りたかった。普段なら因縁のあるこの町でなく、ひとつ先のシュトレーの街で必要な買い物をしていたが、今日は移動のための時間をドゥーエの喜びそうなものをじっくりと吟味する時間に充てたかった。

(人間のものは無理だとしても、ドゥーエはやっぱりお肉がいいのかな? 奮発していいお肉買って帰ってワインで煮込んで……そうだ、チーズも用意して、上にかけて焼いたら美味しいかも)

 そんなことを考えながら、シュリは軽い足取りで町の通りを進んでいく。ドゥーエがどんな反応をするか、想像するだけで心が自然と弾んだ。

 商店が軒を連ねる界隈に足を踏み入れると、肉を扱う店をシュリは探した。

 きょろきょろと辺りに視線を巡らせながら歩いていると、シュリは突然肩口に衝撃を覚えてたたらを踏んだ。背後を振り返ると、シュリにぶつかったらしいネイビーのキルティングコートの男が立ち去っていくのが視界に入った。聞こえよがしに舌打ちをするその男は、どうやらわざとぶつかってきたようで、悪びれる様子もない。

 辺りの店からちらちらと無遠慮な視線がシュリへと投げかけられていた。通りすがりの人々も足を止め、悪意を孕んだ目を向けてくる。

「ほら、あの子……エフォロスの森に住み着いてる……」

「ああ、気味が悪いわよね……関わると不幸が訪れるとかっていう……あの子のせいでエレヌさんは弟さんを亡くしたっていうし……」

「何でもあの子の母親って禍いを振り撒く魔女だったって言うわよ……魔女の子は魔女だもの、何しにきたか知らないけど、早くこの町から出て行ってくれないかしら。安心して外を出歩けないわ」

 ひそひそと漏れ聞こえてくるシュリを嫌悪する言葉に、彼女はすっと現実に引き戻された。ドゥーエのことを考えて高揚していた気持ちが、冷や水を浴びせられたかのようにすうっと急速に冷えていく。

 こつん、とシュリの背中に何かがぶつけられた。足元を見ると石が転がっている。

 それを皮切りに、シュリへと一斉に物が投げつけられ始めた。出ていけという言葉と共に心身に与えられる容赦のない痛みにシュリは歯を食いしばって耐える。目の奥が熱くなり、鼻腔につんと塩辛いものを感じる。

(駄目、泣いたら駄目だ。あたしは何もしていない。なのに、ここで泣いたりしたら、ノルスの人たちが言っていることが事実だって認めたことになる)

 浮かれていた自分が馬鹿みたいだと思った。自分がノルスをうろつけば、嫌な思いをすることくらいわかりきったことのはずだった。買い物であれば、日を改めていつも通りもう少し足を伸ばし、シュリのことを知る人の少ない隣街のシュトレーまで行くべきだった。

 料理に使う酒の瓶が飛んできて、シュリの左頬に叩きつけられた。痛みを感じた頬に手をやると、小さなガラスの破片が突き立っていた。シュリは頬に手をやってガラスを取り除くと、無造作に地面に放り捨てた。頬を濡らしているぬるりとした液体が酒なのか、傷口から流れる血液なのか確かめる気にはなれなかった。

 シュリは痛みに耐えながらも、背筋をしゃんと伸ばした。相乗的に激しくなっていく、振るわれる覚えのない二種類の暴力に曝されながら、無言で前を見据えてシュリは大股にその場を歩き去った。


 遠くから車輪の音と一人分の足音が聞こえてくるのを聴覚に捉え、ドゥーエは鍋をかき混ぜる手を止めた。そのときのドゥーエは、留守にしているシュリのために、彼女が育てているカブとブロッコリーでスープを作っているところだった。

(シュリが帰ってきたか……? だが、それにしては、どこかを庇っているような歩き方なような……)

 嫌な予感が頭を過り、ドゥーエは手にしていた匙を投げ出した。長い脚で大股に台所を横切り、半ば叩きつけるようにして裏口の扉を開けると、彼は外へと飛び出した。

 ちょうど家に着いたところだったのか、家の横にシュリが引いていった荷車が止まっていた。

「シュリ!」

 黒髪の少女の姿を認めると、ドゥーエは彼女の名を呼んだ。痛いほどに冷たい空気に、声と共に白い息が霧散していく。

「ドゥーエ……」

 へたり、とシュリの華奢な体がその場に頽れる。ドゥーエは彼女に駆け寄るとその体を抱き止めた。

「シュリ、お前どうしたんだ、それは……!」

 シュリは全身に傷を負っていた。今朝はきちんとしていたはずの服が、あちこち汚れたり裂けたりしている。左肩がぐっしょりと濡れ、酒精と血液の入り混じった匂いが漂っている。彼女の頬を伝う血の色に、ごくりとドゥーエの喉が鳴る。

 美味そうな匂いがする。口の中に唾が込み上げてくる。シュリの頬を汚す赤い色は、ドゥーエの”人喰い”としての本能を刺激するに充分なものだった。

 ノルスの自警団の男を”喰って”からしばらくが経っていた。そろそろ次の”食事”をするべきタイミングが近づいていた。

 シュリの肉はきっと柔らかくて甘いだろう。流れる血は極上の美酒のように芳醇で美味いに違いない。彼女を”喰え”ば、治りの遅い身体の傷の数々も癒えるだろう。

 けれど、ただでさえ傷ついている、腕の中のこのか弱い生き物の顔がこれ以上絶望に歪むのを見たくない気がした。ドゥーエは頭の中を占拠する煩悩をかぶりを振って追い払う。

 かすかな渇きの気配がちろりと指先を灼くような感触があったが無視をする。今はそんなことを気にしている場合ではない。シュリになにがあったのか、それが今のドゥーエにとっては何より重要だった。

「ノルスで何があった! 何をされた!」

 何でもないよ、とシュリは力なく微笑んだ。その顔がドゥーエには泣き出す寸前の顔に見えた。ドゥーエはたまらなくなって、シュリの冷え切った傷だらけの体を抱きしめた。

「何でもない。あたしは大丈夫だから」

「大丈夫って顔じゃないだろう!」

 思わずドゥーエの語気が荒くなる。腕の中のシュリの黒い瞳には痛みと悲しみの入り混じった色が揺れている。

 とん、とシュリはドゥーエの胸元に血で汚れた額をつける。冷えた肌に伝わるドゥーエの鼓動と温もりに、シュリは自分の中を渦巻いていた感情が解けて和らいでいくのを感じた。

「心配させてごめんね。あたしのこと、気にしてくれてありがとう」

 シュリは小さくそう呟いた。まったくだ、とドゥーエは苦々しく溜息を漏らす。無防備に自分の胸に身を預ける少女を何となく持て余して、ドゥーエは彼女の髪を壊れものを扱うようにそっと撫でた。

「何はともあれ、そのままでは風邪を引く。さっさと家の中に入って着替えて、温かい茶でも飲め」

 そう言ってドゥーエが自分からシュリを引き剥がそうとすると、くりくりとした小動物めいた目で彼女は彼を見上げ、少し甘えたような声音で、

「ドゥーエが淹れてくれるの?」

「味は保証しないがな。薄かったり渋かったりしても文句は受け付けない」

 ドゥーエはぶっきらぼうにそう言うと、シュリの冷たい手を握って立ち上がらせる。行くぞ、と彼は少し荒れた小さな手を引いて、彼女と共に家の中へと戻っていった。

 終わりかけた秋の夜の闇に冷たく透き通った静寂が降りていた。


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