第一章:出会った二人の欠けし者たち⑩
その日の夕飯の後、シュリはダイニングテーブルで針と糸を手に繕い物をしていた。向かいに座ったドゥーエは、今朝、オオカミの群れに対処した際に汚してしまったシュリの短剣の手入れをしている。二人の間に置かれたランプの火が時折ゆらゆらと揺れる。
シュリの手に握られたドゥーエの外套には、オオカミに襲われた彼女を助けるために早朝に大立ち回りを演じた際に、どこかに引っ掛けたらしい裂け目ができていた。そのため、朝のうちに洗濯したそれをシュリは針を手に繕っていた。
(うーん……ここは前にも破れた跡があるし、裏から当て布をして補強するべきかな……?)
シュリは外套の袖にできた裂け目を見ながら思案を巡らせる。確か使っていない端切れが戸棚にあったはずだと彼女は椅子から立ち上がった。
部屋の奥のスギの戸棚を開け、シュリは一番上の段から端切れの入った紙袋を取り出す。ドゥーエの外套と合わせても目立たない黒い端切れを取り出しながら、シュリはふと今日の礼をドゥーエに言っていないことを思い出した。
(あたし……ドゥーエにごめんって謝りはしたけど、ありがとうって言ってないな……)
シュリは何とはなしに端切れの入った袋を漁る。白と赤のバイアスボーダーが走る紺色の布に目を止めると、シュリはそれを引っ張り出した。
(そうだ、これでハンカチでも作って、ドゥーエにあげようかな。今日のせめてものお礼に)
それはとてもいい思いつきなような気がして、シュリは紙袋を戸棚に押し込むと、軽い足取りでダイニングへと戻っていく。
「ん? どうした? 妙に機嫌がいいな」
羊毛で短剣の刀身を磨いていたドゥーエは不思議そうに顔を上げる。何でもない、と含み笑いをするとシュリは椅子に腰を下ろし、外套の裂け目を直し始める。
外套の裏から黒い布を当てると、シュリは同色の糸を通した針で裂け目の周りをかがっていく。慣れた手つきで針を運びながらも、心がそわそわとするのをシュリは感じていた。
(ハンカチ、どうしようかな。せっかくだから刺繍とか入れちゃおうかな)
シュリは布と布を縫い合わせながらもちらりと窓辺に目をやる。ベッドサイドの出窓では、鉢植えのポインセチアの苞葉が赤く色づき始めている。
(そういえば、お母さんが昔、ポインセチアの花言葉は『幸運を祈る』だって教えてくれたっけ……)
近い将来、ドゥーエはきっとここからいなくなる。ドゥーエと過ごす今を心地よく感じている以上、直視したくはないけれど、受け入れなければならない現実だった。
せめて、一緒にいられなくなる時が来ても、長く続く彼のこの先の幸せを祈りたかった。そして、あわよくばハンカチが彼がこの日々を思い出すためのよすがになればいいともシュリは心の隅で考えていた。
シュリはドゥーエの外套を直し終えると、紺色の端切れを手に取った。アクセントになるように、白い糸でぐるりと布の外周を一定の間隔で縫い上げていく。
糸の末端の始末をすると、シュリは針を縫針から刺繍針へと持ち替えた。針穴に赤い糸を通すと、フィッシュボーンステッチで苞葉を布の上に描き始める。
針が布を抜けていく音。短剣の刃が磨き上げられていく音。会話もなく、それぞれの時間を過ごしているだけなのに、それがかけがえのないもののようにシュリには思えた。
(ああ……無くしたくないなあ)
ドゥーエのいる日常を。二人でいる時間を。寄り添い合う暖かさを。
もう何年も忘れていたこの感覚をまた失いたくない、シュリはそう思いながら、黄色の糸でポインセチアの小さな花々を布に刻んでいく。
二人で過ごす秋の夜長の風景をダイニングテーブルの上のランプが温かく照らし出している。真鍮の砂時計が橙色の灯りを反射してきらきらと光っていた。
◆◆◆
夜明け前の森でシュリがオオカミに襲われた一件から、数日が経った。普段通り、朝食と洗濯を済ませた後、出かける支度をしているのをシュリはドゥーエに見咎められた。
「出かけるのか?」
シュリは部屋の奥の戸棚から薬の入った小瓶の数々を取り出して木箱に詰めながら、
「うん。薬をノルスに卸しにいくんだ」
「……そうか」
ノルスとは、この森の近くにある田舎町である。ドゥーエがこの森に逃げ込む前に人を襲って失敗した場所でもある。
ただでさえ“人喰い”という人間に忌まれる存在である上に、ノルスの自警団によって警戒されているであろうドゥーエは、シュリと共にノルスへ行くわけにはいかない。シュリがオオカミに襲われた先日の一件が頭を掠めたが、ドゥーエが彼女に同行を申し出るわけにはいかなかった。
「ドゥーエ、あたし、今日一日留守にするから、家のことお願いしていい? 掃除とか薪割りとか、野菜や薬草の世話とかさ。あと、日が傾いてきたら、湿気る前に洗濯物片付けてくれると助かるかも」
ドゥーエの憂いと葛藤を知ってか知らずか、木箱に薬の瓶を詰める手を止めると明るい声でシュリはそう言った。
「……ああ」
「お土産何がいい? 何か欲しいものがあれば、買ってきてあげる」
「別にそんなことは気にしなくていい。それより、そちらの箱も持っていくんだろう? 荷車に積んでおいてやる」
シュリの横に積み上がった木箱の山をドゥーエは手で示すと、オーク材のダイニングチェアから立ち上がる。ドゥーエは箱の山を軽々と片手で持ち上げると、台所横の裏口の扉から外へ出ていった。
ありがと、とシュリは艶やかで美しい黒髪が流れる長身痩躯の背中を見送ると、中身を詰め終わった木箱の蓋を閉める。壁にかけた使い古したキャメルのサッチェルバッグを取ってくると、財布と昼食用のナッツの詰まった巾着、水の入った山羊革の水筒を放り込んだ。
ココアブラウンのケープを羽織って短剣を腰に吊ると、サッチェルバッグを背負う。シュリはずっしりと重い木箱を抱えると、ドゥーエを追って裏口から外へ出ていった。
「それで全部か?」
先に運んできた分の木箱を積み込んでいたドゥーエは、シュリに気づいて振り返る。うん、と頷くと、ドゥーエは手を伸ばしてシュリから木箱を奪い取った。
「ごめんね、寒いのにこんなことやらせちゃって」
「気にするな。別にこれは俺がやりたくてやっていることだしな」
「へ……?」
どういうこと、とシュリが聞き返そうとすると、ドゥーエは照れ臭いのか、居心地悪そうに顔を背けた。ドゥーエはシュリから奪った木箱を荷車に積み込むと、箱が動かないように縄で固定していく。できたぞ、と少し気恥ずかしそうにシュリに一瞥をくれるとぼそりと口の中で呟いた。
「……気をつけて行ってこい」
「うん、ありがと」
シュリは微笑んだ。荷車の持ち手を掴み、行ってきます、と彼女が口にすると、ドゥーエは呆気に取られた顔をした。そして、一瞬の後、彼は口の端を吊り上げると、ぎこちなくシュリへと対になる言葉を返す。
「……あ、ああ。その……いってらっしゃい」
慣れない言葉の響きにくすぐったさを覚えてシュリはくすりと小さく笑った。つられてふっと声を漏らしたドゥーエの顔は、冬の蒼穹のように透明に澄んで美しかった。
(ドゥーエってこんなふうにも笑えるんだ)
きれいだ、と思いながらシュリはドゥーエへと小さく手を上げて見せる。そして、持ち手を掴み直すと、シュリはずっしりと重い荷車を引いて、森の出口へと向かって歩き出した。




