プロローグ:広い世界の片隅で
瑞々しさを失った木々の葉の間から覗く空が、今にも雨が降り出しそうなどんよりと重たい灰色に塗り固められていた。水の匂いをはらんだ風が、辺りに生の殺気と鉄錆の入り混じった香りを辺りに立ち込めさせる。
背後に複数の足音と怒声が迫ってきていた。いい加減、疲労で動かすのが億劫になってきていた重い足をどうにか動かし続けながら、彼は背後を振り返る。武器を携えた田舎っぽく垢抜けない出で立ちの男たちの姿が、紅に光る彼の双眸に映り込む。泥で汚れ、あちこちが擦り切れた黒い外套のフードの下で、彼は眉間に皺を寄せ、皮肉げに口元を歪めると、嫌そうにちっと舌打ちをする。
彼は”人喰い”だった。”人喰い”とは、大地の穢れと人々の悪意が交差する場所に生まれ落ちるという、人間に酷似した姿の化け物である。鋭く発達した牙と童話の妖精のように先端が尖った長い耳を持つ彼らは、男女問わず総じてひどく美しく、老化がゆっくりだとされている。しかし、何より彼らが人間から忌避され、恐れられる理由は、肉食獣が弱者を捕らえ、その肉を貪るように、人の肉を食らい、血液を啜って生きるその生態にあった。
”人喰い”は定期的に人間の血肉を喰らわなければ、生きていくことができない。口にする対象は生きているか死後間もない人間である必要性がある。
彼らは生き繋ぐための糧を口にすることができなければ、飢えによる渇きによって、身内が灼かれるような痛みやひどく重苦しい倦怠感に苛まれるという。そのままの上体が続けば、そのままの状態が続けば、”人喰い”は身の内が灼けるような苦しみを味わった挙句、衰弱して、やがて死に至るとされている。そのため、彼らは定期的に優れた身体能力をもって人を狩り、命を繋ぐための糧としていた。
”人喰い”の中には必要最低限の”食事”としてしか人間を襲わない者もいる一方、快楽として人間を屠っては喰い散らかす残虐な性質の者もいる。絶望で泣き叫ぶ顔が見たくて、生きたまま嬲るように人間を”喰う”ことを好む者もいる。
そういった一部のサディスティックな者たちの存在が、彼ら”人喰い”という種に対する人間の嫌悪感に拍車をかけていることは言うまでもなかった。
彼は今日の昼下がり、近くにある朴訥とした田舎町――ノルスを訪れていた。前回の”食事”から少し日が経ち、全身が飢えによる渇きを訴え始めていた。
もっさりと垢抜けない雰囲気の三歳ほどと思われる幼い少年が細い路地へと入っていくのを目にし、気づかれないように彼はその後を尾けた。人目がなくなったのを確認すると、彼は少年へ背後から忍び寄って襲いかかり、首の骨をまるで小枝を折るかのように軽々とへし折って殺害した。その後、彼が少年の死骸に鋭い犬歯を突き立てようとしていたところ、偶然、その現場を通りがかった町の人間に見咎められ、騒ぎとなった。瞬く間に武器を持った町の自警団の男たちが集まってきて、彼――”人喰い”の青年は彼らに追われることとなった。
自警団の面々に剣で切りつけられ、矢で射られた彼は、少し北上したところにある鬱蒼とした森――エフォロスの森へと逃げ込み、今ここにいた。しばらく食事を摂れていなかったせいで本調子でない上に、手傷を負わされたために満足に動けない彼を自警団は執拗に追ってきていた。
(まったく……あいつら、いつまで俺を追ってくるつもりだ……? こっちはいい加減ぼろぼろだというのに……)
彼は木の陰に身を隠し、荒くなった呼吸を整えると、傷が広がるのも構わず、左肩に深々と刺さった矢を力任せに引き抜いた。矢の返しが傷口を裂き、溢れ出した生暖かい血液が外套の左肩をぐっしょりと濡らしていく。矢を抜いたことで出血が増えたが、追われている今、いざというときに動きが鈍るよりはましだった。彼は矢を無造作にその場に放り捨てる。
先程、ノルスでせっかくの”食事”を邪魔されたこともあって、身体が限界に近かった。
一瞬、視界が暗くなった。欲しい。欲しい。そんな本能的な欲望が彼の思考を染め上げていく。
欲しい。肉が、血が、欲しい。脂がほんのりと甘い人間の柔肌に牙を突き立てたかった。彼らの全身を巡る赤い液体を一滴残らず飲み干してしまいたいという本能的な生への激しい衝動が、己の獣性を満たす快楽への渇望が彼を駆り立てる。自分を追ってきている奴らを今すぐに殺し、血の一滴すら残さずに”喰って”しまいたくて仕方なかった。
自分のことを探している自警団の男たちの姿を木の陰から確認すると、彼は赤い舌をちろりと覗かせる。赤く光る目を細め、舌なめずりをするその様は、”人喰い”特有の容貌も相まって、どこか淫靡な美しさがあった。
かさり、と乾いた葉が擦れる音を立てて彼が姿を現すと、思い思いの武器を携えた男たちの警戒と怯えでどよめいた。彼は悠然とした態度で人間たちと対峙する。
自分を見、武器を構える十人近い男たちの姿に、青年はふっと口元を緩め、不敵な笑みを浮かべた。この状況でなお、余裕めいた態度を見せる彼へ向けられた人間たちの視線は次第に困惑の色が濃くなっていく。
あまりにも多勢に無勢に過ぎるにもかかわらず、自分への虞れを隠せずにいる人間たちに、彼はある種の可笑しみすら覚えた。”人喰い”は人間に比べて力が強く、身体能力に優れてはいるが、この人数が相手ではあまりに不利だ。それでも人間たちは、彼へ一切の隙を見せることなく、間合いを測るように武器を構え続けている。
ふう、と息を吐くと、彼は手近にいた男へと急速に距離を詰めた。「……ッ!?」あまりに自然で予備動作のない”人喰い”の体捌きに、男は反応できなかった。”人喰い”の青年は男の手から、手に持ったサーベルを叩き落とす。信じられないといった表情を浮かべたまま、男はその場に尻餅をつく。
カランカラン、と音を立てて地面を転がったサーベルを拾い上げると、彼はそれを正眼に構える。あまり手入れされていないのか、赤茶けた錆が浮き、ところどころ刃こぼれしていたが、素手で彼らと戦うよりは多少はましかもしれなかった。
サーベルを奪われた男は腰を抜かして、立ち上がれないままがたがたと震えている。爛々と光る赤い双眸でそれを見下ろす青年の喉の奥から、くつくつと忍び笑いが漏れる。ボロ同然の黒い外套のフードの下からは、狂気にも近い、抑えることもできなければ抑える気もない獰猛な食欲が見え隠れしていた。
武器を奪われた仲間の後ろで、恐怖を顔に張り付かせながら棍棒を握りしめる壮年の男と視線が交錯した。ひぃぃ、と情けない悲鳴を上げる男を視線でねっとりと舐りながら、今日の食事はこいつにしようと彼は決める。ノルスの町外れで仕留めた子供に比べ、美味しくはなさそうだったが、今はこれで妥協するしかない。それに、目の前で仲間を食われれば、恐怖でこいつらも退散していくに違いないと彼は当たりをつけていた。
標的を定めた”人喰い”の青年は薄い唇の間から鋭く尖った犬歯を覗かせる。それを合図にでもしたかのように、男たちの集団が、それぞれの武器を振りかざして彼へと襲いかかってきた。
自警団の男たちの動きは、青年への恐怖も相まって固くぎこちない。明らかに訓練されたものではない腕っ節だけの素人じみた動きを見切った彼は、叩きつけるようにガラクタ同然のサーベルで男たちを薙ぎ払っていく。
彼はサーベルを上段に構えると、勢いをつけて壮年の自警団員が持つ棍棒を無理やり叩き切った。衝撃で男がよろめく。恐怖のあまり目を閉じた男の顔が視界に映り、極限まで張り詰めた欲しいという感情に青年の喉がひくついた。ただそこにあるのは本能的な生への渇望のみだった。男の喉元へ手を伸ばそうとする青年へと他の自警団員たちの打撃や斬撃の雨が熱い痛みを伴って降り注いだが、青年は気にもとめなかった。
彼は素早く距離を詰め、ボキリと小枝でも折るかのように男の首を容易く折ってみせると、鋭い牙をその首筋に突き立てる。鼻腔を満たしていく、芳醇な血の香りに官能に近い感覚を覚えていると、彼の右股にどんっと重い衝撃が走った。
「おい、仕留めたか!?」「でも、シュデスが!」
怯えた表情を張り付かせたまま事切れている男――シュデスの頭部を首から引き千切り、地面に投げ捨てると、彼は自身の右股へと視線をやる。ナイフが刺さっているのが視界に入ったが、意に介したふうもなく、彼は棍棒だったものの切れ端を握りしめたままのシュデスの右腕を食いちぎっていく。生ぬるい体温の残る腕を咀嚼する度に、ぼきぼきと骨が砕けていく音がやけに大きく響いた。彼は唇に付着した赤黒く生臭い液体をまるでソースでも舐めるかのように無造作に舌で舐め取る。普通だな、という明らかに普通ではない感想を独りごちながら、死んだ男の胴へと彼は覆い被さる。
この歳の男の肉は臭いし、脂もぶよぶよとしているだけで旨味には欠ける。やはり、先程、ノルスで仕留めた子供を喰い損ねたのはもったいないことをした。そんなことを思いながら、彼はまるで獣のように男の身体へと齧り付き、咀嚼を繰り返す。何だかんだと文句はあるものの、鼻腔を突き抜けていく人間の血肉の香りはひどく彼にとって魅惑的だった。彼は、”食事”を続けながら、時折、嗚呼、という艶を帯びた切なげな吐息を漏らす。歓喜と官能に似た快感が麻薬のように全身を支配し、痛覚を鈍麻させていく。
青年によって無惨な姿の肉塊へと変えられていく、つい先程までの仲間の姿に、髭面の自警団員の男が手に持った斧を取り落とした。その手は哀れなほどに震えていた。無精髭に囲まれた恐怖に慄く唇から、言葉にならない声を喚き散らすと、男は森の出口へと向かって一目散に駆け出していった。それを皮切りに、シュデスの亡骸を置き去りにして、我先にと他の自警団員たちも彼の前から逃げ出していく。先程、青年にサーベルを奪われた男は次は自分の番だと気づいたらしく、人を震わせながら立ち上がる。
「死にたくない!! 死にたくないいいいいい!!」
涙と鼻水を撒き散らして叫びながら、男は自分を見捨てて逃げていった仲間たちを追って走り出した。恐怖で失禁したのか、男のいた場所にはつんと鼻を突くアンモニアの刺激臭と湯気の立つ黄色い水たまりが残されていた。
「……人間とは実に薄情な生き物だな」
彼は男の身体を髪一本残らず平らげると、外套の袖口で口元に付着した血液や人肉の食べかすを拭い、立ち上がった。重力に抗えずに血が身体を落ちていくのと一緒に、潮が引くように自分を支配していた高揚感が薄れていく。彼は一瞬、黒々とした闇に意識と視界が支配されるのを感じた。
「あいつらめ……」
彼は小さく毒づいた。自身の血をだいぶ失ったからか、まだ身体がふらふらとして頼りなかったが、今しがたの食事のおかげでもう少しは動くことができそうだった。
視界に森の景色が戻ってくると、彼は歩くのに邪魔なナイフを腿から引き抜いた。ナイフを無造作に放り捨てると、彼は鉛にでもなってしまったかのように重い体を叱咤し、半ば引きずるようにして歩き出す。外套の裾から滴る彼自身の赤黒い血液が、奥へと続く道に彼の足跡を残していく。
彼は自分の視界が霞んでいくのを感じていた。気を抜けば、その場でぷつりと意識が途絶えてしまいそうだった。自警団の面々に負わされた数々の傷を中心に、身体が熱を帯び始めていた。脂汗が滲み、彼の漆黒の細い前髪が外套のフードの中で額に張り付く。それでも、彼はどうにか気力を振り絞って自分を現実に繋ぎ止め、時折木の根に躓きながらも、血が伝い落ちる傷ついた足を動かし続ける。
どこかで水の音が聞こえていた。川が近い。傷や血で汚れた体を洗い、少し休めるだろうか。そんな思考に張り詰めていた意識の糸がぷつんと途切れ、彼の世界は闇に呑み込まれていった。
木々の間から覗く、空を覆う雲の色がいつの間にか夜の色に染まり始めていた。