その文字は夢を掴むために
三月十四日某日、世間ではその日をホワイトデーと呼称する。
西丘駅近くの羽休め喫茶の扉を開いた僕は窓側の奥の席に彼が座っていることに気づいた。
「いらっしゃいませ」
顔見知りのマスターがグラスを拭きながら会釈をする。近くまで寄ると彼はにこやかに手を振った。
「こっちこっち」
僕は彼の隣の席に座るように促される。
「縦一、待たせたな」
僕はそう言って席に腰掛けた。
「もうちょっとしたら会わせたい人が来るからさ」
彼はそう言って腕まくりした時計を指差した。今が正午だからもうそろそろだな。僕は窓から見える景色を見た。空は澄み切っていて日差しが眩しいくらいだった。
カランコロン、という音ともに店の扉が開いた。開いた扉の先からは髭を蓄えた初老の男性が姿を現した。その男性を何の気なしに見つめると、僕たちが座っているテーブルにまで近づいた。
「待たせてしまってすまないね」
彼はそう言ってちょうど僕の真正面の席に腰掛けた。
「縦一……?」
僕はこの男性をどこかで見たことがあるような気がした。
彼は胸ポケットからおもむろにレザーケースを取り出すと、テーブルの上に名刺を滑らすように置いた。僕は名刺に書いてある文字を凝視する。
「私はホトトギス、と言うものです」
目の前の初老の男性はそう名乗った。そして、緑色の冊子を取り出して名刺の隣に並べた。
「端的に言おう。私は劇作家をしている者です。そして、君の描いた小説を読んだ。独特な世界観に非常に惹かれたよ。そこで、私が今推薦している女優のために、試しに私の下で脚本を書いてみないか」
僕は名刺に書いてある作家名と彼の瞳を往復するように何度も見つつ目を見張った。状況が上手く飲み込めず、数秒黙ってしまう。
「驚くのも無理はない。北高の時流君から連絡が来た時に君の小説を読んですぐに気づいたよ。君は紛れもなく私の劇場を観に来たあの少年だね」
僕は驚愕して目をパチクリさせた。
「はい、そうです。一月の中旬に中部中心駅の近くの劇場にて「いばら姫」を観に行きました」
初老の男性は微笑み、静かに私の劇を観てどう思った? と聞いてきた。
「…とても今風だな、と思いました」
そうだろうそうだろう、と彼は言った。そして目の前の男性はゆっくりと口を開いた。
「君は、彼女のことが好きなんだね」
初老の男性はそう言って静かに僕の返答を待った。
「…は、はい」
僕は戸惑いつつそう言った。
「心配することはない。私は彼女を女優として推しているのだ。その彼女のための脚本なら君が書くのが一番適任だと思ったのだよ」
彼はそう言って言葉を続けた。
「脚本の期限は今年の四月の初旬まで。そこから舞台俳優たちに配布して稽古を積み、今年の夏に公演する予定なのだ。どうだろう、やってみないか?」
数秒空けた後、僕は頷いた。そしてその回答を聞いた彼は安堵した表情をし、
「頼んだよ。ではこれで」
そう言って席を外してマスターの立っているレジにお札を置いて出ていった。
初老の男性がいなくなって少し経った時、僕たちはマスターに珈琲を注文した。縦一は僕の目の前に座り直し、甘い香りのする珈琲が二人のテーブルに届けられた。僕らはお互い何も言わず、まずカップに口を運んだ。
「今日出会った劇作家さんの出身大学を目指そうと思う」
僕はそう言って続け様に「もちろん脚本はちゃんと書く」と言った。
「…実は、彼は僕の祖父なんだ」
縦一はそう言って僕の瞳を見た。
「祖父は君のことを知っていたそうだ。まさか、こんな出会い方があるとは…」
彼はそう言って珈琲カップに口を移した。僕も僕で走馬灯のように今までの出来事を回想するが、どこで何が繋がるかわからないものだなあと一人ごちた。
縦一と頷き合っていた僕も珈琲カップに口を運ぶ。そして、カップをテーブルに戻す際に湖面に映る僕を見た。そしてその瞬間、嫌な予感がしてしまった。
「…縦一、つかぬ事を聞くけど、縦一が冬にものにした女性って誰なんだ?」
僕の額にじっとりとした汗が出ているような感覚がした。縦一はそんなことか、と言う顔をして、一年の檸檬さんだよ。と言った。
幾許かの無言の時間が続いた後、肩の力が抜けたのを感じた。
「…そっか。それは、おめでたい」
横田先輩と檸檬さんの関係性を知っていた僕には縦一はそのことを知っているのだろうかという疑問が湧いたが、そのことは内密にして置いた方が両者のためであり、すなわち僕のためでもあると自分に言い聞かせ、平静を装うように再度珈琲カップに口を移した。カップの珈琲は残りわずかだった。
「で、例の卒業式の件だけどさ」
縦一はそう言って身を乗り出してきた。ああ、先月辺りに深夜のカラオケで交わしたあの約束の話か。
「とりあえずあらかた頼んであるものは卒業式当日に来そうだから、当日北高男子も手伝ってほしい」
彼はそう言って深く珈琲を飲んだ。僕は中部中心高校の生徒会は相変わらず手際がいいな、と感心してしまう。
「ありがとうございました」
数十分談笑した僕ら二人がレジで会計を終えると、マスターがそう言った。僕らは会釈をし、喫茶店を出ていった。
店の前で縦一と別れた昼過ぎ、僕はおもむろに電話をかけた。何コールかした後、甘い声がした。
「今ちょっと電話いい? 話したいことがあるんだけど」
電話口から戸惑いの声が漏れる。だが通話相手のカリンさんは了承してくれた。
「ありがとう。前に聞いてくれた僕の将来の夢の話だけど、決まったよ」
僕はそう言って一拍置いた。
「劇作家のホトトギスさんの下に弟子入りして、小説家を目指そうと思う。そのためにまずは大学を目指す」
はっきり言葉にした僕に対して、カリンさんは「実は知っていた」と言った。
「え?」
僕は思わず問い直してしまう。
「そこまで言葉にされたら、流石にネタバラシ。だから、私も今まで秘密にしていたことを話そうと思うの」
カリンさんはそう言って僕が今まで知らなかったある事実を言葉にした。
「私、もうすぐ卒業するの」
春一番の風が僕を通り越した。