転機
凍えるような風が吹き荒ぶ二月のある日、僕は参考書を探すために西丘駅の近くの本屋に足を運んでいた。商業施設の2階に位置するその本屋を懇意にしている僕にとってその本屋で見つける新書との出会いは貴重だった。本を読むことで知識が広がり、視座が高くなり、視界が開けるためだ。そして何より、ツイッターに書くいいネタ探しにもなっていた。今日は一体どんなネタが転がっているだろう。そう思いつつ、購入予定の参考書を片手に本屋を練り歩くのだ。
その一角に占める小説コーナーに差し掛かった時、平積みにされてあるとある本が気になり足を止めた。本の表紙には油絵で描かれた空を飛ぶ一羽の鳥の姿があった。小説のタイトルには「光翔る楽園」と書かれていたが、僕の目はその小説を書いた作家の名前に釘付けになったのだ。その作家名は確かに聞いたことがある名前であり、遠目からでも直接見た事がある人だったのだ。
ホトトギス。
確かにそう書かれた小説を手に取った僕は小説の内容をペラ読みもしていないのに表紙に描かれた世界観に惚れ込んでいた。多分、それは僕が去年の夏にキャンパスに描いた絵の構図、世界観と似ていたからだと思う。本の表紙とタイトルだけで作家にシンパシーを感じてしまったのだ。僕はその小説を買うことにした。今立ち読みでも読んでしまってはもったいない。じっくりひとりでこの作家の世界に浸りたくなったのだ。
レジに進みながらなぜそんなにも読んでもいないのにこの作家の小説が気になったのかに想いを巡らす。おそらく因果関係も何もない一連の出来事であったのだろう。僕はカリンさんにとある舞台を観賞してほしいと誘われ、そのカリンさんが演じた舞台を観た僕は呆気に取られ、呆気に取られたその舞台の劇作家の書いた小説が今、手元にあるという何の因果もないエピソード。その関係の無いエピソードの中にカリンさんが言った言葉が反響する。
「その舞台を見ることが、将来の夢を考えるきっかけの一部になると思うから」
僕はそこに関係性を見出したいのだ。
家に帰り、ライトの明かりの下で買ってきた本を読む。ペラッペラッと本のページを捲るたびにいくつもの文字が脳髄を刺激し、脳内で物語が構築されていく。このホトトギスと言う作家の描く世界観はまるで絵画の中を練り歩くようなものであった。そして、世の中が如何につまらなくなってきてもその中に一筋の光を見出すような小説であった。
脇目もふらずに小説を読んだ僕は最後のページを捲って本をパタンと置いたのち、息をひとつ吐いた。
「僕も物語を書いてみよう」
そう、簡単に言うなら小説に触発されたのだ。自分の言葉で僕だけの物語を書きたくなったのだ。
ゆっくりと脇に置いてあるパソコンを起動し、ワードを立ち上げる。ブーンと言うパソコンからの換気の音が部屋中に響いた。僕はそのパソコンに向かって文字を打った。打ち始めた文字は少しずつ言葉となり、その言葉が登場人物のセリフとなり、物語を創っていった。そして僕は小説を描く世界に溺れていった。
二月十四日某日、世間ではその日をバレンタインデーと呼称する。学校に行ったらもしかしたらチョコが下駄箱にあるかもしれない。もしかしたら女子に告白されるかもしれない。そんな想像を巡らす余地もないほどに北高は男子しかいなく、校門を潜ってクラスの扉を開ける頃にはとうにそんな妄想は打ち砕かれていた。
「ちょっと書いてみたんだけどさ、読んでくれない?」
僕は一年一組の本の山に囲まれた席の目の前でそう言った。席に座っていた長代は読んでいた本を止めて僕の持っている紙の束に目を移した。
「小説書いたんっすか。いいっすね。読んでみるっす」
初めての小説の読者である長代が読んでどう思うのかを想像すると、不安と期待が入り混じった複雑な気持ちになる。紙の束を渡した僕は、「じゃ、後で戻ってくるわ」と言ってクラスを後にした。一組のクラスの去り際に小説を読んでいる長代の顔をチラッと見ると、少しニヤニヤしているように見えた。
昼休み、いつものように校舎裏でタバコを燻らせていた僕の元にいつメンの三人が寄って来た。その中のうちの一人、中谷の左手には紙の束を持っているのが見えた。
「読んだぞ、この小説」
中谷はそう言って僕に紙の束を返してきた。内容は勿論僕が書いた小説だ。
「いつの間に回し読みしているんだよ」
「だって面白かったからさ」
「結構恥ずいんだけど」
「それはそうとこのセリフ、何なんだよ。吹き出しそうになったわ」
短澤と中谷から口々に感想を言われる。僕はその感想を聴きながら小っ恥ずかしくなった。多分側から見てニヤニヤしていたと思う。
「あのさ、俺思うんだけど……」
長代は思い詰めたようにゆっくりと言葉を吐いた。僕ら三人の目線が急に彼に集まる。
「どうせならこの小説、文集にして学校に掲載しないか?」
「おいおいおい、発想がぶっ飛んでるな!」
僕は思わずそう言ってしまう。そして、いやいやまさかまさかスケールが大きすぎるだろうと言う話になる。
「だけどさ、読者は多い方がいいだろ…?」
確かに。と頷かずにはいられない。でもこの学校に文集を作る部活なんてあったか? 僕らの中に疑問が生まれた。
「なければ、作ればいい」
長代はそう言って僕から小説をサッと奪った。
「マジで? 長代、マジで?」
「部活作るならまずは担任の先生一人立てないとな」
短澤は腕を組みながらそう頷く。
「職員室行こうぜ」
中谷はそう言って校舎に向かって踵を返した。え、話進みすぎじゃない? なになに? 待って待って。
三人の背中を追うように僕も校舎に向かって駆け出していた。
気づいたら僕ら四人は職員室の時流先生の前で僕の書いた小説を読ませている。僕は縮こまりつつ、ハイ、その小説を書いたのは僕です。と言う話をした。世界史を担当している時流先生は自席に座り、時折首を傾げつつ時折頷きつつ小説を読んでくれた。
「知ってると思うが、うちの高校には部活動はないぞ」
時流先生はそう言って紙の束をパタっと机に置いた。なんで部活動ないん!? どういう高校なん!? 脳内でそのような考えが巡る、がそんなことは言えもしない。それを承知でこの高校に入ったからだ。
「それは知っています。ただ、彼の書いた小説をみんなに読んで欲しいんです」
すくっと立った長代はそう言って先生に相対した。
「何でそこまでこの小説を掲載したいんだ?」
時流先生の瞳が光った。
「小説が面白いし、何より俺の友達が書いたから」
長代ははっきりとそう言った。先生と長代の話を後方から見ていた僕は、何かこう胸に来るものを感じた。これはすぐには言葉には表せない。
先生はじっと長代を見つつ、「お前らが仲良いことは知ってるよ」と言った。そして、校舎裏でタバコ吸ってることもとっくに知ってるからな、とも釘を刺された。僕ら四人は押し黙る。
「……でもまあ、長代は成績が良いからな」
吐息を漏らした先生に対して、一瞬期待に満ちた何かが瞳の奥から光った。
「お前たちのやりたいことはわかった。今回は学期末のテスト結果に免じて先生から話をつけようと思う。しかし、高校として部活動はないから地方発行の地元紙に掲載できないか掛け合ってみるよ。少し時間かかるかもしれないけど、待ってくれ」
「ありがとうございます」
長代はそう言って頭を下げた。そして短澤、中谷も頭を下げ、動揺を隠せない僕も最後に頭を下げた。
「地方紙に掲載するなら、以前美術室で描いてたあの絵も一緒に掲載しませんか?」
「ああ、あの鳥たちの絵、ね」
中谷と先生はニヤニヤしていた。僕は夏の暮れに描いた黒いカラスと黄色いカナリア、白い白鳥たちが翼を広げて空を羽ばたいているキャンパスを思い出した。
「それで良いよな?」
時流先生はそう言って僕の方を見た。長代、中谷、短澤も一斉に僕を見る。僕は四人の目線を感じつつ、はっきりと答えた。
「はい、喜んでお願いします!」
なぜだかわからないが、ここはしっかりと答えた方がいい気がしたのだ。
先生は少し顔を綻ばせ、わかったわかった。クラス戻っていいぞ。と言った。職員室を後にした僕ら四人は扉を閉め切った後、歓喜した。
「マジでマジで!? こんなことある?」
「案外どうにかなるものだなあ…」
「それにしても長代、かっこ良かったわ」
「それは思う」
長代はどんなもんだ、と言う顔をして丸眼鏡をクイっと上げた。僕は長代が友達であることが誇らしくなった。
その日の放課後、教室の窓を開けた僕は電話越しに事の顛末をカリンさんに話した。教室には僕一人しかおらず、外の景色は夕焼けに染まっていた。
「えーっ、やるじゃん!」
窓から吹く少し暖かくなった風を感じつつ、興奮気味の声を電話越しに聞く。僕はこういうバレンタインデーもありかな、とひとり思った。