海底ランタン
「ねぇ、ここの下歩けたってほんと?」
半信半疑の恋白を横目にやりながら俺は何処からか盗んできた船を徐ろに漕ぐ。
「本当らしいぞ。十五年前なんだ。もう覚えてる奴も少ないって」
水面に映る自分に少しだけ、憂鬱な気分になる。
「君は歩いたことあるの?」
「ない。姉から聞いた話だとそこのビルは見上げるくらい高かったらしいぞ」
「うっそ。今や私の身長くらいじゃん」
「そんなに小さくねぇよ」
「君にだけは言われたくないね」
この生意気な恋白を預かってから五年が過ぎた。旅の目的はまだ果たせていない。
人類によって壊されてしまった世界。海へ潜ってしまった世界。そしてその世界によっては、消された人類。
「もし神がいるのなら、人類の創生は過ちだったというべきだな」
誰かが言ったのをはっきり覚えている。十五年前、世界的気候変動で世界の主要な都市は壊滅。政府はもちろん、国連ですら動けない、警鐘され続けた最悪のシナリオ。水浸しの世界は妙に暑かった。
「この辺りに人っているのかな」
「地図的に言えばここは新宿だ。生き残ってる者は、多分もういない」
100mを超える新宿の建物群は頭だけを残し、水中で眠っている。小さい建物は泡のように海へ消えた。
「そっか…じゃあ宝探しだね」
「瓦礫しかでてこない気がする」
「それでもいいんでしょ?」
「まぁ、御神籤も大吉ばっかりじゃつまらんだろ」
美しくも儚い海底東京で、恋白が望むモノを探す。今や表情が豊かになった彼女は、水鏡の世界を少し覗き込む。生命源の魚が揺ら揺らと蜃気楼のように影だけ落とす。水面で歪んだ彼女の心は計り知れないものだった。
五年前の話だ。力の強い奴が性別関係なく襲い、欲望を満たした、警察もいない腐った世界。姉を亡くしたあと、一人で生きる為に依頼を受けた。報酬は食料。正直、報酬に目が眩んでいた。
「…確かに俺はこいつの護衛を雇った。だがこいつはまだ十歳だ。あんただってまだ十二歳じゃないか。護れる気がしねぇんだよ。悪いがあんたにこの孫を預ける気はねぇ。飯が欲しけりゃ他をあたってくれ」
最初はそう言われ、突き放された。恋白という十歳の少女の護衛。それが依頼内容。佐藤竜介、御年七十五歳のじいさんが依頼主だった。
「あんた、どうせ身寄りがいないんだろう?孤児院に行った方が安定した飯が食えるぞ」
「孤児院に居たよ。昔はね。でも一年前に姉が殺されたのさ」
悪いが姉を殺した孤児院に戻る気はしない。
「…そうか。それは済まなかった。孤児院でさえ治安もクソもなくなっちまったのか…」
気の毒そうに俺を見るその目が嫌いだった。姉を見殺しにした俺に可哀想と言われる権利はない。護れた者を護れなかったのは怠慢だ。
「あんた、人を殺したことは?」
「ある、と言ったら?」
「別にどうするってことはねぇよ。ただ気になっただけだ。この仕事をこなす自信は?」
「ない、と言ったら?」
「めでたく俺の被害者第一号さ」
冗句は置いといて。
「自信はある。だが、なんで護衛を雇ったんだ?じいさん、冗談を言えるくらい元気じゃないか」
ふとした疑問を問うと、溜息を一つ、俺に吐く。
「俺は心臓の病気を持ってる。何時死んでもおかしくねぇんだ。死に際まで孫に迷惑をかけたくねぇ。だから俺はあんたに護ってもらうことに決めたんだ」
意外だった。最後の最期は孫の顔くらい見たいものだと思っていた。愛した孫を見ず知らずの男に預けるのはどんな気持ちなのだろうか。
「その顔、あんたには似合わないね」
「は?」
「その憂鬱そうな顔だよ。あんたには飄々とした顔が似合ってる」
…そうかよ。
水音が耳を刺す。魚が跳ね遊ぶ。傾き始めた陽の反射で煌めいた、ところどころ割れた硝子張りのビルは、どこか大きな魚の鱗のようだった。
「着いたぞ。恋白も来るか?」
「行く。お母さん、いるかもしれないから」
「…そうだな」
ロープを適当にビルに結び、船を近づける。割れた硝子に注意しながらビルに飛び移る。手を差し伸べると素直に握ってきた。
「俺は非常食とか燐寸とか探すから、恋白は自由にしてていいぞ」
こくんと頷く彼女はどこかか弱い兎のようで、潰れてしまいそうだった。
この旅には終わりがある。護衛するという点では、別の誰かに託さない限り一生やる仕事だ。それとは別の目的。俺ではない、恋白の目的。彼女のリュックについた「KOHAKU」と書かれたキーホルダーが物語るのは、母との愛。東京が沈む数ヶ月前に産まれた彼女の最初で最後の母からのメッセージ。残されたのは赤子だった彼女と母の最初で最後の写真だけ。そんな母を求めて、五年前から旅に出ている。
「お母さんは、私のことなんて判らないかもね」
なんて悲しそうに無理矢理笑う恋白を見るのは苦しかった。生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。もし生きていても覚えていないかもしれない。可能性は限りなく低くとも、その小さな可能性に賭ける姿は宛ら勇者のようだと、俺は思う。
氷が割れたかのように鳴る硝子。薄暗い廊下は無限に続くようだった。弱々しい懐中電灯で照らされた部屋で、電池や燐寸、食料を探す。オフィスだったのか何なのか知らないが、破れた椅子がところどころに転がっている。もはや「ホワイト」ボードとは言えないところに、磁力を失った会社名の書かれたマグネットが寄りかかっている。まるでゲームのチュートリアルのようだが、会社名の部分は汚れて読めない。まぁ、地理的に考えればいい会社だったのだろう。
「ねぇ、なんか見つけた?」
恋白の靴底を鳴らすコンクリートが階層内に響く。
「乾パンの缶が一つに期限切れの芋羊羹が三つ。あとは燐寸数本と単三電池が六本」
「おお。いい収穫だったね」
「まぁな。これで追加で三日はなんとかなりそうだ」
戦利品をバックパックに詰めて、もう水平線と鏡合わせで手を取り合った西日を眺め、夜への準備をする。燐寸を点け、煤で汚れたランタンに火を灯す。もう夜の東京は百万弗の夜景ではないのだ。
「恋白はなにか見つけたか?」
「実は、ちょっとね」
ちょっぴり恥ずかしそうに抱えているのは泥まみれの紙の束。
「それになんか書いてあったのか?」
「見て、ここ」
そう言われるがまま指さされた所を読む。
「東京旅行株式会社…。社員、天塩...凪?」
「そう、天塩凪。私のフルネームは天塩恋白。つまり、私のお母さん。同姓同名の別の人かもしれないけど、初めて見つけた」
ふふふ、と嬉しそうに笑う彼女は雪兎のような柔らかい笑顔だった。
「良かったじゃないか。他にはなんて書いてあるんだ?」
「お母さんの居場所。長野県飯田市への出張って書いてあるの」
「長野県って、竜介さんと随分近かったな」
「ううん。おじいちゃんがいたところは松本市。長野は広いの。何年前の資料か分からないけど、行ってみる価値はあると思う」
恋白にとってこれは大きな収穫。旅が終わりへと近づく第一歩。五年間首都圏を探してようやく見つけた希望の光。これは祝福と言ってもいいのではないだろうか。
「今日は御馳走だな」
「え、なんで」
「なんとなく」
そう。なんとなくだ。
「ふーん。何にするの?」
彼女は目を星のように輝かせる。
「東京特産の魚の塩焼き」
「いつものじゃん」
「嘘だって。最後にデザート付きだ」
ランタンから火を貰い、会社の資料を焚火代わりにして、火を焚べる。湿っているからか、中々火は点かなかった。串に魚を刺し、適当に塩をまぶす。燃え上がる炎の側に並べ、中までしっかり火を通す。多少の臭みは気にしない。何の魚かは知らないが、焼けばほとんど何でも食べられる事を五年間で学んだ。焼けるまでの間、何処からか盗んできた鍋に今日の戦利品である芋羊羹を入れる。海水から塩をある程度抜いた水を注ぐ。火にかけ、少しとろけるまで温める。とろけてきたら乾パンにかけて甘いお菓子の完成だ。
「「いただきます」」
木が弾ける音を聞きながら、ほくほくと幸せそうな恋白を見ていると、こっちまで幸せな気分になる。この絶望の世界から生き残った人類は何を思うのだろうか。生きるだけで精一杯の毎日に幸福を覚えられただろうか。やはり僅かな希望に花を手向ける彼女の念には尊敬する。そんな俺の思いを知ったことか、彼女は撚れた希望を見て前を向く。
「お米が食べたいねぇ。今日の焼き加減は最高だよ」
お褒めの言葉を預かりながら、俺も齧り付く。
「うまいな」
「そうだね。でも、使っちゃってよかったの?芋羊羹と乾パン。大事だったんじゃないの」
「まぁ、たまにはいいだろ。毎日魚が永遠に続くのもどうかと思うし」
「それにしても甘くて美味しい。この料理なんていうの?」
「名前はないけど、お汁粉っていう似たようなのはあった」
ふーっとお汁粉もどきを冷まして幸せを噛み締めるその姿は、この時代にはやけに似合わなかった。
星が瞬く。東京のくせに無駄に眩しく見える。
「私ね、君には感謝してるんだよ?」
「そんなに美味しかったか?」
「それだけじゃないよ」
少し息を吐くと、ゆっくり喋り始めた。
「私は君に本当に感謝してる。五年前、旅に連れ出してくれた時から。おじいちゃんの家、芋を育ててるんだけど、ご飯はそれしか出てこなくて」
「芋なんて旅始めてからほとんど食べてないな」
「そう、だからちょっぴり恋しくはあるんだけど」
そうはにかみながら続ける。
「まぁ、飽きちゃうっていうより、あの家が居心地悪かったの。なんというか、過保護でね。鳥籠の鸚鵡の気分だった。開放感を求めていたんだよ。きっと。勿論、お母さんに会いたいとは思ってた。それが偶然重なっただけ」
「まぁ、初めて話したときから竜介さん、恋白のこと大事にしてたからな」
仕事を引き受けてからも大変だったのを覚えている。
「そんな時、君が来た。そうだね、例えるなら今の月明かりのようだったよ。行動できる絶好の機会だと思った。嬉しかったし、楽しみにしていたんだ。でもね、旅はそんな簡単なものじゃないって気づいたよ。過酷だった。数日ご飯がないときもあったし、集団で襲撃された事もあった」
「すまんな、思うようにいかなくて」
「別に良いんだよ。それで。ゲームもとんとん拍子に上手くいったら面白くないでしょ?」
人生を最高のゲームだと考える彼女には、やはり勇者が一番似合う。
「それでも君はね、私の希望の光だった。お母さんなんていない。そう思うことの方が多かった。そんな時に君を見ていると、いつも安心したんだよ。心が温かくなった。迷った時にはいつも君がいる。だから、人生のランタンである君には「ありがとう」って伝えたかった」
俺の枕元に置いてあるランタンを指差し、柔らかに笑う。
「…そうかよ」
そんなに真っ直ぐな瞳をこちらに向けられても、恥ずかしいだけだ。
「そんなに照れなくてもいいのに。全部君のことなんだよ。悪く言えば私の初めてを全部奪ったいった君」
健気に悪戯っぽく笑う。
「おいちょっと待て。語弊だし誤解だ」
「あはは、冗談だよ。でもね、私を初めて連れ出してくれたし、初めて親族以外と過ごしたし、初めて私に対等に接してくれた。こんなに初めてをくれた人を…になるのは当然だよ」
「え?」
「ううん、なんでもない。取り敢えず君には感謝してるってこと」
「そうか?」
「さ、もう寝ようよ。明日から松本に移動するんでしょ?体調を万全にしなきゃ」
そう言って寝袋を被る恋白の頬が林檎みたいにほんのり赤かったのは、気の所為だろうか。
…俺は褒められた人間ではない。姉を見殺しにした、クズ野郎だ。下劣なヤツに襲われていたことを視認していながら、知識がなかったからという建前で何もしなかった。恋白の護衛は懺悔だ。償いの場での失敗は許されない。そんな俺に感謝の言葉をくれるなら、少し安堵する。所詮は気休め程度にしかならないだろう。それでも。
お互いに、「ありがとう」と言える関係が今はただ、心地いい。
いかがだったでしょうか。
先行公開から一か月以上がたち、投稿をすっかり忘れていました。ごめんなさい。
というわけで今回は珍しくバッドエンドにはしませんでした。というかなりませんでした。
とはいえこれから筆を止めるつもりはさらさらないので、ぜひ次回もご期待ください。