8話 蚕
切羽詰まっていたエルはあの男の部屋の扉を気遣うことなく力の限り開けた。そして、すぐに後悔する。どれだけ自分が浅はかで愚かなのかと。男はエルの行動を読みきっており、エルが部屋に入った途端動けなくさせる魔術を施していた。
「珍しいね。血相を変えて私の部屋へやってくるなんて。」
「…ぐっ。」
自分の体の苦しみなどどうでも良い。部屋の真ん中にずっと探していたジーンがいたのだから。ジーンの目は虚で、エルが入ってきたことにも気づかない。
「……書類の、受理、は今日、付でも、まっ、だ効力は発、てない!」
「勘違いしているよ、プア・パピィ。君も昨日は実験協力していただろう?」
他ならぬエル自身が魔術師でも実験体となる前例があるせいで、そう主張されると真っ向からの反論は不可能だった。
「ぼ、くが、代わる。僕なら…耐、られる」
「残念だけどプア・パピィは以前実験してるから代われないよ。その時との対照実験みたいなものだからね。」
男は楽しそうにエルに近づいて頬を撫でる。
「かわいそうに。」
この状況を作っているのは自身の癖に、心の底から同情しているかのような顔をしている。
「僕、ら、な、にを、聞いた。」
「ドルミからも同じ質問を受けたけど、言う必要あるかい?君が外の世界に憧れているって?」
エルのことを嘲笑しながら、エルを縛る魔術式を強めた。
「外の世界にプア・パピィの平和などないよ。ねえ、君は何歳になったんだい?」
「……ぃ、じゅ……ぁぅ。」
「あはは、君の本当の年齢は、君くらいの姿の子供がいても全くもっておかしくないんだよ。そんな君が外で平和に生きていけるわけないだろう。」
人間全体の平均寿命が30歳前後、元気な貴族でも50歳前後が寿命くらいの人間たちの中で、実年齢よりもかなり若く見えるこの男もそう言った面で指を差されていたのかもしれない。エルはそんなのも知らない。
「このバグにプア・パピィが幾つだと思うかと聞いてみたら、見事に年下だと思ってたよ。なぜ言わなかったのかい?本当のことを話したら、君もバグに化け物だと思われるかもしれないと思ったんじゃないのか。信じることができなかったんじゃないのかい?」
「ぅあ゛、あ゛あ゛……。」
何かを発そうとしても、違うと言いたくても、男の魔術による拘束が強く呻き声にしかならない。男の言うことは全て正しくはない。エルは加齢による平均的な容姿変化について認識はしていたが、それを自分自身に当てはめてこなかったから、ジーンにいう必要性を感じていなかった。でも、きっとそれは誰にも信じてもらえないだろう。
何も映さないジーンの虚な瞳から一筋の涙が溢れていたが、エルの手は届かない。
意識が飛びそうなくらい締め付けられながらエルは魔術の解除を試みた。複雑に絡まるそれをゆっくりと解き、口が少し解放されるとエルは訴えた。
「貴方がここにいろというなら、もうどこへいくつもりもないです。ジーンを解放して!魔術師の資格を戻して。」
「…まだジーンは魔術師だよ?」
「…剥奪申請を撤回して!」
「うーん…でも、一応秩序を決めている側として見ると、離反することを現職に唆した時点で剥奪は免れないよねぇ。」
「そんなルールないです!」
「君が律令を読み込んでないのが明白だね。ここには機密情報がたくさんあるんだ。はい、じゃあ辞めますは通用しない。」
そうだねと男は笑った。
「あともう少しで魔術式防御システムは試験段階にまで持っていけるよね?」
「あと…受容・拒否のシステム制御を詰めれば…。」
「うんうん、立派な魔術式だ。あとはそれのエネルギー課題はどうにかしないとだね。ふふ、本当君は魔術以外の取り柄がないよね。」
「…貴方は他に何があるというんですか。」
「なんでもあるよ。君には分かり得ない色んなものがね。だから、君は今私に縛られているだろう。君の方が魔術への造詣が深いにも関わらず、ね。」
男は睨むエルを見て嘲笑し、虚な瞳をしたジーンの肩に手を置いた。
「王都の魔術式は本当に良案だと思っているんだよ。管理が簡単になるからね。この私が賛同しているんだから、迅速に進めてもらわないと。」
「僕は絶えずその魔術式に向き合っています。」
「君は既存の魔術式は魔力で空中に浮かばせるから、こんな簡単な魔術式をインクで書かないよね?」
いつかジーンのために描いた魔術式。見つかればこの男の機嫌を損ねるものだと知ってはいたが、こんな状況に陥るとまでは考えが至っておらず、細心の注意までは促せていなかった。
「バグは君の研究の邪魔だ。」
男の方がとやかくエルに仕事を押し付けて研究の邪魔になっていたとしても、それは男の中ではカウントされていない。この魔術塔の小さな世界の中で王の如く君臨する男の機嫌が全て。
「だから、こうしておこう。」
男が触れた場所からジーンの体が溶けていく。世界の生物に対する冒涜である、あの男しか使えていない恐ろしい魔術だ。なんとか拘束している魔術を解き、エルは千切れそうになるくらい手を伸ばしたが、届かない。
ドロリドロリと目を背けたくなる溶けていったひとの形は、いつのまにか手のひらサイズの白い蚕の幼虫にと変わってしまった。エルは自分自身が許せなくて強く唇を噛み、強く床を殴りつけたが、そんな自罰すら男は赦さず、口を開けさせて手を握った。
「さあ、何日バグは生き残れるかな。」
「まだ!王国の魔術師なのにっ!」
「変わらないよ、魔術師だろうと実験台となる子はいるんだからね、君のように。殺してもないし、魔術師としてやめさせたわけじゃない。」
「詭弁だ。だって貴方はその魔術で人に戻したことがない。人間以外に魔術師の資格は与えられない。そんなの殺したも当然だ!」
バシンといつものように男はエルに鞭を打ちつけた。
「別に私は君が魔術を解き、人間に戻すことは止めないよ。」
今の魔術論理では、ジーンを戻すことなど不可能だ。残念だけれど、虫よりも人間の方が複雑にできていて、体積も大きい。人から虫は、削ぎ落としていけばできたとしても遡及することはできない。たとえ魔力で補って新しく人の形を作ったとしても、補った箇所が大きすぎて全く元の人間とは言い難い。恐らくできたとしてもジーンより魔力元のエルに似てしまうだろうし、そもそも人を作り直すような力はエルにない。
それでも、諦めるわけには行かなかった。
「でも、バグは僕が持っていよう。君が魔術式を作成するまではね。」
男は蚕のジーンを拾い上げると桑の葉が入った虫籠に入れた。ジーンはエルを見ていたが、すぐにエルのことを認識できなくなったのか、桑の葉を食べ始めていた。
「もともとの動物よりも、人から作った動物の方が知力が高い。こうして人から作った動物を見ていると、人間の優秀さを感じることができて幸せなんだ。」
それから、男は何も言わなくなったエルに興味がなくなったのか腹を蹴って部屋から出るように指示し、すぐ様魔術式防御システムの作成をするように言いすくめた。
しかし、すぐには魔術式防御システムに取り掛かる気力はなくて、エルは魔力で作成した糸を紡いでいた。蚕は他の如何なる動物とは違って人が居なければ生きていけないから、隙を見て逃がしてやることもできない。この誰もが諦観する小さな世界で誰よりも自由になることを願ったあの子になんと皮肉なことか。
「願わなければ良かった。」
エルの絶望と共に白い糸は紡がれていった。エルが糸を作ったとしても、ジーンと代わることはできないのに。