3話 狂い
エルは何度も魔術塔を抜け出して、王宮にある倉庫や役人の部屋に忍び込み、やっとのことで王宮の地図を手に入れ、王都の情報は本を中心に手に入れた。
「やあ、プア・パピィ。元気かい?」
「どうしたのですか、偉大な魔術師様。」
エルは話しかけられて、咄嗟にその本を隠すのは怪しまれると思ったから堂々としていたが、男には関係なかった。
「近頃外の世界について調べている様だけど、面白い?」
「…面白いですよ。」
「王宮の地図も?」
「ええ。」
エルは隠す為に思いついたことを話した。
「偉大な魔術師様、僕、考えたんです。王宮や王都を守る巨大な結界を。」
「ほう、それは面白いね。どんなもだい?」
愛用の鞭を手の中で鳴らしながら、男はニコニコとエルの話を聞いた。
「侵入者、侵入者を防ぐための結界です。結界に登録した人間や動物だけが通ることができて、登録されていない人間や動物は入れない。そんな結界です。モンスターは入ってこれません。」
「なるほど、とてもいい案だ。明日にでも簡単な草案を提出しなさい。」
「はい。」
目的を隠す為に言った咄嗟に出たそれは良い口実だと思った。王都や王宮の細部に至るまで隠すこともせずに知ることができる。
エルの良くない癖は、一度熱中すると寝食すらもマトモに忘れて没頭してしまうことだ。本来の目的は逃亡だが、それでも本気で魔術式を完成させるつもりで取り掛かった。
「エル、また飯忘れてる。あのやべえ魔術師に俺が呼び止められたよ。」
「それはごめん。無事で何より。」
「あの微笑を湛えている顔が怖え。コロリ病はどうかとか言ってきたんだ。」
「……無事でよかった。あの人は魔術師なら最終的に助けようとはするけど、生死ギリギリまで観察したがるんだ。」
話をしながら、ジーンはインク塗れのエルの手や顔を拭った。
「俺は文字を覚えて簡単な文を読むので精一杯だけど、もっとできる様になったら、エルの書いた物が面白く見える様になるのかな。」
「何か分からないことがある?教えるよ。」
「ううん、今の所大丈夫。エルはいつから文字を覚えたんだ?」
「物心ついた時には読めていたよ。」
ジーンはそんな馬鹿なと呆れていた。
ジーンは足元に落ちているエルの走り書きを見るが、字も文章の雰囲気も他の大人の魔術師たちと遜色はない。
「…偶に、俺にはムリだったのかと思うことがある。」
「ジーンはつい最近魔力があることが分かったんだよ。急ぐ必要なんてない。」
エル自身幼い見た目をしているが、10年以上王国魔術師を続けているから、ジーンと自身を比べることすらなかった。しかし、ジーンからしてみればエルを大先輩だとは思ってなかった。見た目だってエルの方が年下に見えるくらいだから、自然とエルと自身を比べていた。さらに不幸なことに、子供で実験体という出自のせいで周りの王国魔術師もエルとジーンを比較していた。ジーンはそれが辛かった。それでも、ジーンがマトモに会話できるのはエルだけだったから、エルのことを遠ざけることもできない。じょ
「…ここは地獄だ。」
「そうだね。」
魔術塔に安息などない。それでも、ここで不安を口にすることは危険だとエルは続けた。
「数年前まで実験体の叫び声がよく聞こえてたんだけど、近年は叫ぶ実験体の場合、ドルミ魔術師が育てている幸福の虫の餌食になったんだよ。」
「…幸福の虫。」
「危機感を減らして、安心感を得られる寄生虫。歪なくらいずっと笑顔な人間がいたらこれ。」
「いた。穏やかな人だと思ってた。」
「欲求が減って少しずつ死に至るんだよね。最初のうちはいいけど、少しずつ自分で自分の世話ができなくなる。誰かが世話をしなければ、最終的に汚物まみれでご飯を食べず餓死する。…そうなる前に大体危険な実験に使われて死んでしまうんだ。」
「よくエルは正気でいられるんだ。いや、エルもどっか狂ってる。魔術師は全員どっか純粋におかしい。」
ジーンは自分の震える体を抱きしめた。狂ってると言われたエルだったが、否定できなかった。この小さな世界しか分からないからだ。
「おやぁ、酷いんじゃないか?使えないモルモットの癖によく言うね。」
いつからエルの粗末な倉庫の部屋に男がいたのか分からない。男は気に入らないとジーンを魔術で壁に投げつけた。エルが駆け寄ろうとすると、男に強く肩を掴まれる。
「口では反抗的なことを言いながら、従順だったプア・パピィ。いつからそんな反抗的な目をする様になったんだっ?」
穏やかな顔のまま、男は鞭をエルに叩きつけた。静かな場所で、男の鞭のしなる音だけが響き渡る。よほど気に食わなかったのか、首や顔だけではなく、シャツを脱がせて何度も何度も打ちつけた。
とっくに痛みなんて分からず、男の気が済むのをただ静かに待った。エルがぐったりと倒れ込んだ辺りで男は気が済んだらしく部屋を出て行った。
エルは這う様にジーンの元まで移動して、ジーンの怪我を治療した。ジーンも壁に叩きつけられてほとんど動けていなかったから、男の暴力に堪えながら心配していた。
「自分の…治せよ。」
「ジーン、君は頭を打ったんだよ。それに自分のを治すのは酷く億劫だ。」
「んだ、よ、それ。」
「治癒魔術や魔法を覚えたら分かる。」
エルの日に焼けてない肌の至る所に赤い暴力の痕が残っていて、見ているジーンの方が辛かった。
「痛く、ねえの?」
「もう分からない。」
「…なんで?」
「ジーンの言う通り、狂ってしまったの。」
「…そんなつもりで言ってねぇ。」
「君の希望でいられなくてごめんね。」
頑張れば、認められれば、実力があれば、地獄ではなくなるということは一切ないということをエルは伝えてしまった。希望など持つだけ辛いと。
「王国魔術師は狂ってないと死んでしまう。」
ジーンはその現実を受け入れて再びエルに言う。
「絶対ここから脱出しよう。」
その先に何があってもとジーンはエルと約束し、エルも頷いた。