10話 こども
エルがまだ魔術が成功しないまま、蚕は羽化して、エルが考えついた魔術式防御システムは稼働直前までやってきた。不思議なくらいあれ以降あの男はエルに構ってこなかった。あの男以外の魔術師もエルに無理難題であったり、魔術の窃取や強取をしてこなかった。ジーンを助ける魔術が思いつかない以外は、恐ろしいくらいエルにとって穏やかな日々だった。
しかし、エルは手持ち無沙汰に魔力で糸を紡ぎながら、強い孤独感を抱いていた。
「…まるで僕だけ鏡の世界にいるようだ。」
動いていない魔力結晶を前にして、エルは独りごちた。結局逃げる目的を隠す言い訳のために作った魔術式もこの国に恩恵をもたらすことになると思うとジーンに申し訳なくなった。決してこの国に益をもたらすために作ったわけではないのに。
全てはあの男の思い通りに進んできた。それはどうしても許せない。でも、もし彼の思い通りに進みながら、最後の大事なところで裏切ることができたのなら、それは素晴らしいのではないかと思った。しかし、その重要な時点とは狂っているあの男に存在しているのだろうか。
五月蝿いと殴りながら、殴る相手が静かに受け入れるのはつまらないと言う厄介な相手だ。
「いつその時が来てもいいように、いつでも押せるスイッチのような…何かにしよう。」
そして、その組み込みに気づかれないように魔術式には記載されない魔法を使う。既に魔術式が組み立てられきれていないところは、魔法になっているから、この削除システムなんて気づかれるのはもっと後。その時苦しんで戸惑えばいい。
エルはジーンの頭に優しく触れた。
ご飯を食べない蚕の成虫は、ただ子孫を残し死んでいくだけ。エルは代わりに魔力を直接与えているから、まだ全く弱ってきていないし、その魔力で体を強化をしている。そろそろ他の種類の蛾のように飛べるようになるかもしれないと思ったのだが、ただ蚕の本能にもう飛ぶという感覚が残ってないのだろう。翅を動かす仕草すらしない。
「…生きて。」
ふわふわとした虫はエルのことをきっと見えていないのだろうけれどエルは願った。
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「いきなり10歳の頭を再現するのが間違ってるんじゃ…。」
ふと魔術塔で赤子の誕生を祝っているのを横目で見てエルは気づいた。生まれてきたばかりの赤子は何も話せないし、目を開けている時間も少ない。
「…レイ魔術師も子供か。」
その魔術師が産まれたのはエルが魔術塔に来てすぐのことだったと思うと周囲の時の経過の早さと自分の時の経過の緩徐さに絶望にも似た感傷に陥りそうになったが、そんなことよりも思いついたことを書き留める方が大事だ。
「鳥や虫を僕は魔術で作れる。それを人に転用するだけだ。」
エルは今まで集めてきた生物の記録を絵にして、嘘か本当かはわからないががむしゃらにかき集めた情報を元に図鑑を作っていた。そこにあるものはエルは基本的に魔術で作れるのだが、あくまで仮の生命体に過ぎず、簡単に消えてしまう。
「なんとか…今ある技術で僕の意識外でも動いて、情報を集めて少しずつ大きくなって、ちゃんとした人間になるようにならないかな。」
自分の部屋の中の描いた魔術式を一つ一つ眺めていた時、そういうものをもう一つエルは作ろうとしていたではないかと思い出した。
「そうだ、アレは王都民を観察する魔術式も組んでた。」
エルは思いついたまま、その部屋に人が誰もいないことを確認してから入り込んだ。現在存在が確認されている中でも最大級の魔力結晶は、エルが作った王都を守る魔術式防御システムの為に使われている。
「ジーンと外に出るための虚言から始まったんだから、ジーンの為に使われるべきでもある。」
赤い魔力結晶に手を触れて、目を閉じ思いついた魔法を組み入れる。
しかし、特になんの反応もなかった。確かにそこに自分が無理やり組み入れた魔力があるのは分かるのに。
「何にも起きない、何が間違ってるんだろう。」
人を作ったことがないし、物理的な存在ではないから難しいのかもしれない。
「また明日考えるか。」
今日はもういいやと明日の自分に声をかけた時だった。
「はい。」
「……え。」
唐突に返事が来たので驚いて、
「僕の声が聞こえてるの。」
と半ば断定的に尋ねるとうんともすんとも言わない。
「僕の声が君に聞こえてますか。」
疲れ果てた故の幻聴かもしれないと思いつつも言い方を変えて尋ねてみた。
「はい。」
「聞こえているんだ。」
判定がちゃんと疑問系ではないと回答してくれないらしい。もう一度尋ねるように聞こえているかと訊ねれば同様に「はい」との回答が得られる。赤子ではないが、拙い言い方だ。
「答えてくれてありがとう。でも、他の王国魔術師が何を言っても答えちゃダメだよ。分かったかな?」
「はい。」
ちゃんと彼が返事をしたことにエルは満足して、少しずつ話した。はい、いいえで答えられる質問でない限り彼は一切答えられないが、それだけで嬉しかった。ジーン以外にこんなにじっくりと話したことはなかった。空が白んでくるまで、エルが独り言のように話し続けた。そして、それに魔術式の中の彼はたまに「はい」と答えるのだった。