【一部完】傷、綺麗に治しますね
ACT 7
(しにたい……)
今月何度目かもしれない死にたい気分の襲来にセアは汚染されていた。ここ毎日何かしら死にたいと思っているような気がする。これは自分が単に死にたがりなのか、労働環境がおかしいのか。
セアはスレイヤー塔の中の第二資料室の近くをとぼとぼと歩いていた。このところ毎日報告書か反省文だ。それに加えて課題に訓練。上層部はやはりセアを広告塔にしたいらしく、取材などを押しつけてくる。まだ頬のパッドも取れておらず、腹の痣の色も濃いのにいい迷惑だ。思えば自分がメディアに映っているのはほとんどが負傷中ではないか。むしろ人々の印象を悪くしかねない。
(明日から先生は仕事でアルビアスを離れるから……しばらく会わずに済むのはいいけど何あの課題の量……ふさけてるよ……いつ寝ろっていうの……)
セアはよく寝る性質なので、八時間の睡眠を確保したいと思っている。しかしこうも回されるタスクが多くては睡眠を削らければどうにもならない。師に言えば「君の要領が悪いだけだ」と一蹴されるだろう。わかっている。そういう男に自分は師事しているのだ。
「おや、セアじゃないか」
歩く先からギルザがやってくる。セアは途端にすがるような顔になった。
「ギルザさん……っ」
「どうした、その顔は。だいぶお疲れのようだね」
「ギルザさん……ギルザさぁん……」
文字通り彼にすがる。ぽふっと胸に倒れ込めば、彼は笑いながら背中をぽんぽんと叩いてくれた。赤ん坊をあやすときに使うそうだが、自分に使われても効果がある。
「先生がひどいんですよう……訓練では何やっても駄目だって……銃も剣もナイフも投具も槍も体術も全部駄目って……命術も全然なってない戦場の的になる気かって……戦闘訓練全部痛いし……何言っても駄目で……まあ言えなかったんですけど……それでさらに課題が重くて……取材が入って忙しいって匂わせてもだからどうしたって顔して……もう……もう……っ」
「うん? あれもまだ負傷中だろう。傷病休暇がもらえているはずなのに、もうそんな訓練などなんだの激しくやっているのかい?」
現在、セアとクレンは任務に伴って負傷をしたということで、名目は有給休暇中になっている。とはいえこの組織では完全に休めるわけもない。体に無理がない範囲での訓練などは許容されており、それを御旗にクレンはセアに訓練やら課題やらを課していた。傷の程度で言えば、毒を受けた彼のほうが長引いてつらいだろうに、まったくもってパフォーマンスを落としていない。
「普段とほぼ変わりなし、です……毎日怪我の経過観察されて、これなら大丈夫だってメニュー組まれて……ばしばしと。サキアから戻って二日もありませんでした……休めたのは」
「クレンがタフなのは知っているが、毒を受けてもそうなのか。これは驚きだな。そういえば君の怪我は大丈夫なのかい?」
「順調に回復しているみたいです。頬は来週抜糸です。腹部の打撲も血抜きしましたから、なんとか。あとは薬で対処できます」
「その顔の傷もねえ……痕が残らないことを切に願うよ。ああ、確か傷痕を目立たせなくする塗り薬が売っていたな。買っておくから、今度取りにきなさい」
「ありがとうございます……!」
どうして自分はギルザを教官に選ばなかったのか。本当に悔やまれる。
「クレンはなあ……私から見ても異常と思えるほどストイックだから。明日も二年目の新人の研修に出るんだろう? 休むときはちゃんと休んだほうが後々のためだと思うんだけどね」
「言ってあげてください」
「言ったことあるよ。確か、休む必要がある者は休むべきだがいまの私には必要ない……的なことを返されてね。舌を巻いたものだ」
「私は……私は休む必要があるべき者には入らないんですか」
「残念なことに、彼の目にはそう映ってないんだろう」
セアはクレンほど強くない。同年代の人間と比べても、弱気で打たれ弱い性格だ。クレンはそれを知らず、全力でぶち当たってくる。あるいはそういった内情を知っていてもなお、何を変えることもしないだろう。そういうところ、彼はサイコパスじみているから。
セアとクレンはまったく似ていない。彼の強靭さは自分にはない。何をやっても届くことはないだろう。しかし周囲は似ているの一点張りだし、クレンはいつか超えてみせろとか言ってくるし、心安らぐところがない。唯一の癒しであるギルザも忙しい身、こうして会えたのもいつぶりだろうか。
「私も悪いんでしょう。体力が持って、なまじっかついていけてしまうので。これで過労とかで倒れたら考え直してくれるのかもしれませんがそんなこともないですし……なんで変なところ丈夫なんでしょう、私は」
「いいことだと思うけどね、丈夫なのは。しかしそれすらも毒となってしまうから、精神的につらいんだろう?」
セアは頷いた。自分は無駄に丈夫で体力がある。煉瓦塔を爆破させたときも無事だったし、クレンに氷塊をぶつけられても無事だった。寝ずの課題を出されても、なんだかんだで終わらせてしまう。近接戦闘訓練をしてすぐに命術訓練になっても、光球を作れてしまう。だからこそ、駄目なのだ。クレンとの相性は最悪だ。
「先生はいつも正しいんです。間違ったことは言わないんです。だから逃げ場がないんです。このあいだ、ギルザさんが私に余裕を与えるよう先生に言ってくださったじゃないですか。実際、少しは気にしてくれたんですけど、それでもギルザさんは私に甘いんだからって呆れてて……どうなんでしょう。どうすればいいんでしょう」
「おや、そんなことになっていたのか。ううむ……どうしようねえ」
ギルザはセアに優しくしてくれる。サキアから帰投した翌朝には、負傷したという知らせを聞いて会いにきてくれた。大変だったねと労ってくれた。会えばこうして話を聞いて、慰めてくれる。ギルザは間違いなくセアに優しい。だが甘やかしているわけではない。単純にクレンが厳しすぎるのだ。
「セアの怪我の治りが悪いから……というのは、毎日経過観察されている以上無理か。疲れている、と言ってもまえと同じ結果になるだろう。難しいなあ、これは……」
ギルザは再度ううむと唸った。自分のことを考えてくれているだけでセアとしては幸せでいっぱいである。
しかし、それが一瞬で瓦解した。
「――ギルザ先輩。……それにセアも」
背後から投げかけられた、よく通る低い声。振り向かなくてもわかる――クレンだ。
セアは誰が見てもわかるほど体を震わせた。それを見てギルザが苦笑する。どうしてこのタイミングでクレンがやってくるのか、運命の神を呪うことにしよう。
「何をしているんです? こんなところで」
「いや、セアとばったり会ってね。体の調子はどうかと話していたところだ。君の調子はどうだ?」
「毒もほとんど抜けました。明日出陣しろと言われても問題ありません」
「そうか、それはさすがだな。ただ無理はしないように。明日はスレイヤー二年目の子たちの研修に出るんだろう?」
「はい。彼らも最近腑抜けていますから、鍛え直してきます」
二年目の先輩方、どうか安らかに……と願わずにおれない。一部でクレンの研修は災厄と呼ばれている。
「……ところでね、クレン。セアのことなんだけど」
きた、と思った。ギルザは目だけで「頑張ってみるよ」と伝えてくる。
「彼女、リダル漁港にサキアと連戦しているだろう? 少し心身が摩耗しているみたいなんだ。まだ一年目、色々とやることも多くて悩みも抱えているらしい。私にもその悩みを少し話してくれたんだが、少女が抱えるには少しばかり重い」
そうですか、とだけクレンは言った。セアは冷や汗を垂らしながらギルザを見つめる。こんな状況でクレンを見たら衰弱死する。
「なあ、クレン。傷病休暇でも休みなしで、というのは、彼女にとって些か酷ではないか?」
直球で言った、と思った。告げるギルザの顔は穏やか。笑みともとれる優しい顔である。
「……休憩は与えています。何か異常があればすぐ言うよう、指示も」
「わかってるよ、君なりにセアの体調を鑑みてメニューを組んでいるのだろう。しかし、いまのセアには休憩ではたりないんだ。異常があったら言えと言われても、言えないんだ。真面目な子だからね。つい頑張りすぎてしまう」
セアは視線を下方に向けて、内股にして足をすくめた。ギルザが自分のことを案じて言葉を発してくれていることが嬉しい一方で、どう転ぶかわからないこの状況に息ができない。
「少し、甘やかしてやってはくれないだろうか」
「甘やかすことは彼女のためになりません」
「何も延々と甘やかせと言っているわけではないさ。せめて頬の傷が薄くなるまで、腹の痣が消えてしまうまで、少しばかりゆとりを与えてくれたらいい。それさえも、指導監督としては許せないかな?」
クレンは黙った。この沈黙が恐ろしくて、セアはつい両手を握りしめてしまう。
ギルザがセアに見せる優しさを甘いと切って捨てるようなクレンだ。甘やかせ、というのは彼の立場からして頷けないことでもあろう。そこまでクレンの考えが読めるから、こちらとしては気が気でない。生唾を飲み込みながら、セアは判決を待つ囚人のように縮こまっていた。
「一つ確認をよろしいですか」
「なんだい?」
「甘やかしてほしいと、そう言ってほしいと、セアが先輩に頼んだんですか?」
「いや。セアは何も言わないよ。ただセアと話していて、私がこの子にはゆとりが必要だと感じた。ちょうど彼女の指導監督を担うのは私の後輩だというので、進言してみた。それだけのことなんだ」
見なくてもわかる。クレンはセアの背中をじっと見下ろしている。直視しないだけましだが、視線で背中が焼けるようだ。その湖底を思わせる瞳の奥で、彼は一体何を考えているのか。
大方、セアがさぼりたがっているのか否かを気にしているのだろう。
クレンはしばし経ってから、大きくため息をついた。その音さえ怖くて、セアはびくっと震えてしまう。
「……早朝訓練の免除。午前の訓練は三十分あと倒しの九時半から。昼の休憩は一時間から二時間に。戦闘訓練後の報告レポートの免除。午後の訓練終了は三十分前倒しの十八時半。夜間訓練も免除。課題図書は三分の二に。課題レポートは二日に一回の頻度に」
つらつらとクレンは述べる。
「最大限の譲歩です。先輩が言った期間は、これで」
クレンはきっぱりと言った。先の言葉を拾ってつなぎ合わせれば、なるほど彼にしてはかなり甘いメニュー構成になる。
「これで満足か、セア」
「え、あ……えと、はいっ」
反射的に振り返ってしまった。瞬間、クレンと目が合う。彼は無表情でまっすぐにセアを見下ろしていた。セアにとっては自分が蛇に睨まれた蛙にでもなった気分だった。譲歩されているというのに、少しは改善されたというのに、喜びどころか実感すらわかない。そもそもその譲歩の程度が、客観的に見て正しいのかもわからない。
しかしすでに「はい」と言ってしまった。
「しばらくは先輩の言うとおりにして様子を見ましょう。少なくともセアの傷病休暇中は。ただこれで目に見えて彼女が劣化するようでしたら、指導は元に戻すことにします。いいでしょうか、ギルザ先輩」
「そのときのセアを見ないことにはなんとも言えないけどね。とりあえずはその優しいメニューで甘やかしてやってくれ」
「わかりました」
視線を下方に泳がせて縮こまるセア。どうやら話は終着点に到達したらしい。情勢としてはクレンが折れた形になるだろうか。さすがはギルザである。全身全霊をもって感謝せずにはおれない。
「それでは、これで。セアも行くぞ。先輩も忙しいんだから、あまり手間を取らせるんじゃない」
クレンはセアの腕を取った。こちらが何を言うより早く体ごと引っ張り、引きずる形でギルザの横を通り抜けていく。
「あ、あのっ、ギルザさん……ありがとうございました……!」
「いやなに。また疲れたらおいで。いいお茶を買ったんだ」
ギルザはひらひらと手を振る。その姿も非常に絵になる。柔和な美丈夫の穏やかな微笑み。なんたる癒しであろうか。癒しのいの字もない世界で日々何かに追われて生きるセアには、けれどこの癒しはまぶしすぎた。
***
ずるずると引きずられ、セアは談話室に連れてこられた。座るよう命ぜられ、そのまま何も言わずに椅子に座る。テーブルを挟んで向かい側にクレンも腰を下ろした。手に抱えた包みを隣の椅子に置くが、その手つきから見るに機嫌は悪そうだ。
そして一つ、また大きなため息をつく。
「…………どうしてギルザ先輩は君にこんなに甘いんだ」
忌々しげに彼は言葉を吐き捨てる。
「あの人は自分に厳しい。組織にも厳しい。運営のやり方に疑問を持っては動くような、そんな真面目で毅然とした人だ。それがどうして君にはこうも甘くなるのか。理解できない」
「は、はあ……」
その言がまったく理解できないわけではない。確かに自分はギルザによくしてもらっている。同期の中でも、いやここ数年の若手スレイヤーを見ても、ここまで気にかけてもらっているのは自分くらいのものだろう。仲のよい後輩スレイヤーであるクレンの唯一の弟子だから、という些細な理由だけで、彼はセアを守ってくれる。まるで父が子に接するように、優しく、穏やかに。しかしそこに贔屓はない。
ギルザが自分自身に厳しい人間であることも知っている。彼はストイックに自らを鍛え上げ、命術なしに魔物を狩り続ける敏腕スレイヤーとなった。根はどちらかといえばクレン寄りなのかもしれない。だがセアには優しい。
子供のように思ってくれているのだろうか。あるいはぬいぐるみを涙で濡らすしかない少女を不憫に思っているのか。理由はセアにもわからない。
「セア。先輩がスレイヤー、養成所の教官、組織の運営委員と忙しいのはわかっているだろう。君のお悩み相談室に時間を割く余裕など、本当はないはずなんだ。先輩の優しさにかこつけて時間を奪うんじゃない」
「あ……はあ……」
「相談なら専門のカウンセラーがいるとこのあいだも紹介しただろう。なぜそちらに行かない」
「それは……ええと」
「……カウンセリングを受けることに抵抗があるというのなら私が聞こう。何が悩みだ」
あなたそのものが悩みの種です、などと口が裂けても言えなかった。
机の下で手を握ったり開いたりしながらセアはちょうどいい口上を探す。とはいえセアの悩みのほとんどがクレン関連のものだ。気弱な自分が、真っ向から「あなたに問題がありまして」など言えるわけがない。万一言えたとして、状況がよくなるわけでもなし。
「つ、疲れや怪我のこともあるんですけど……と、その、本当に色々あって……」
ここでセアは一つの逃げ口を思いついた。
「〝赤い木の実〟の評議長たちから、広告塔になってほしいと言われていて……私では無理だと断っているんですが、何かとそれ関係の仕事を振ってこられて。それに最近は参ってしまって」
嘘は言っていない、これも真実だ。広告塔になどなれるわけもないのに、彼らは強引に押しつけてくる。辟易した態度を見せても平気な顔をされた。彼らの中で広告塔はセアで決まり、揺るぎない決定事項なのかもしれない。
「魔狩の仕事に支障が出ると、はっきり言えばいいだろう」
「言いはしたんですが、メディア露出も仕事の一つだと……」
「……所詮は雇われている身、仕事だと言われたら断れないか。それも臆病な君ではな、まあ無理だろう」
はっきりとものをいうのが苦手なこと、クレンもよくわかっているようだ。
「仕方ない。私からも評議長に言ってみよう。セアが本気で断りを入れたがっていると。……これでどうこうなるような方々ではないだろうが、言わないよりはいいだろう」
「えっ、いいんですか」
「それで君の悩みがなくなって訓練に励めるというのならどうということはない」
クレンは腕を組んでそう言った。仮にクレンの申し出が飲まれたとしてもセアの悩みがすべて解消されるわけではなく、それを盾に訓練を苛烈にされたらむしろそのほうがつらいのだが、この雰囲気では言い出せない。クレンも、少しはセアのことを案じて言い出してくれたのだろうし。
「それでは……よろしくお願いします」
「わかった。研修から戻ったら言いに行こう」
いっそのことクレンが広告塔になれば面白いのに、と思う。見た目、実績、自分よりも好物件だ。すべてをぶち壊しそうな性格をしているが、彼が自分の代わりになれば……いや、そうなったらそうなったで、弟子だの部下だの適当な理由をつけて自分も駆り出されるに違いない。それでは駄目だ。
そもそもクレンはあの人を食ったような態度を取る三人とどのような話をするのだろう。両者とも近寄りたくない類の人間だが、そこだけは見たいような気がする。
セアは明後日の方向に施行を偏向させて、沈黙を凌いでいた。ぼんやりとした無表情で、呼吸は浅い。縫われた頬が疼き、時折パッドの上から触ってしまう。
「セア。あまり傷に触れるな。悪化するだろう」
「あ……すみません」
ここでクレンは思い出したように隣の席に置いた包みを手に取った。
「そうだ、忘れていた」
「はい?」
包みをテーブルの上に置く。がさっと中身が揺れる音がした。クレンは「これを君に渡そうと探していたんだ」と言う。
これは嫌な流れだ。追加の課題ではないだろうか。そうでなくとも、もらったところでまったく嬉しくない魔龍の模型や武器の指南書の可能性もある。どっちみち遠慮したいものには変わらない。
「私も詳しくないから色々調べたんだが」とクレンは包みの中に手を入れた。一つひとつ取り出して説明する気なのだろうか。明日からまた仕事が入っているというのに、彼こそセアに時間を費やしてどうするのだ、と思う。
「これはヘパリン類似物質クリームだ。こちらはヘパリンナトリウムクリーム」
「へぱ……?」
予想外のものが出てきた。彼はチューブを二つ取り出し、それをテーブルの上に転がして、なおも包みの中に手を入れる。
「これはヒルドイドローション。これはハイドロキノンクリームとレチノイン酸ジェル。これがアラントインローション。これはシリコンジェル。あとこれが各種サプリメント、それにリザベン」
「あの、先生……?」
「使い方はこれにまとめておいた。しっかり見てから使うように」
おそらくはクレンお手製の説明書まで出てきた。こんなものを用意する暇があったらそれこそ休めばいいものを。この人の行動力にはついていけない。
それにしてもこれらは一体なんなのか。
「先生。これ、なんなんですか」
「傷痕を消す、ないしは目立たなくする作用があるとされるもの各種だ」
「はい?」
セアは首をかしげる。そのまま説明書を見れば、なるほど傷痕の盛り上がりを解消するもの、傷痕の赤みを解消するものなど、傷痕ケアをする作用があると書かれていた。
「なんでまた……」
「顔の傷、深いだろう。痕が残らないほうがいいと、君もそう言ったではないか。それにリダル漁港で受けたものもまだ残っている。こういった傷痕のケアは早めにするのが得策だそうだ」
つまり、何か。
クレンはセアの顔に傷痕が残ることを懸念して、こんなに色々かき集めてきたのか。詳しくないと言っていたが、わざわざ調べて。わざわざ買って。わざわざ説明書まで作って。そうまでして、セアの顔に傷が残ることを憂慮して、自身もまた負傷中の中動いてくれたというのか。
まず思ったのは「馬鹿みたいだ」。次いで思ったのは「なんで私にそこまで」。
「どうして……先生の仕事に、ここまでする義務はないはずです。どうしてここまでしてくれたんですか」
「私の監督下でできた傷は、私の不甲斐なさゆえでもある。それを気にかけるのは当然のことだ。それにまえも言っただろう」
クレンはテーブルの上に並べたものをまた一つひとつ包みに戻しながら言う。
「君も女性、顔を綺麗に保つに越したことはない」
――やっぱり、この人はどこかおかしい。
あんなに厳しいのに。腹に大きな痣を作ったセアを、それでも訓練に駆り出すくせに。いつも馬鹿者、愚か者と罵るくせに。余裕を与えたらというギルザを甘いと評するくせに。そのくせに。それなのに。
こういうところに、気を回すなんて。
セアはうつむいた。クレンのことをまともに見られなかった。込み上げる嬉しさが、普段は持ちえない感情が、喉元まで迫ってくるような感覚だ。
すべてをやっとの思いで飲み込んで、顔を上げる。クレンはすべてをしまい、包みをまとめているところだった。
「先生」
クレンがこちらに目をやる。湖底のような済んだ双眸。普段は見つめられるのが怖いこの瞳が、いまはなぜか怖くない。まっすぐ見つめて、その美しさを再確認するくらいの余裕がある。
「傷、綺麗に治しますね」
「ああ」
「そうしたら先生に報告します、ちゃんと」
「報告を怠らないのはいいことだ。まあ、見ればわかることだが」
「……先生」
セアは気づかない。自身の頬の柔らかさ、そこから引き出される唇の弧、形作るその笑みに。笑うのが下手な無表情で鉄仮面なセアが、ここで不意に、自然に笑う。
「ありがとうございます。嬉しいです」
細められた紅の両眼。作られるのは愛らしい微笑み。鏡がないこの空間では、セアは自分の顔の変化に気づかない。自分が笑っていることなど、まっさらなほどに認識していない。
唯一その微笑みを向けられたクレンは、二度ほど瞬きをした。それから彼もまた、ほんのわずかに口角を上げる。
「普段からそういう顔をすればいいものを」
言われてセアは自分の顔に触れる。クレンは笑っている。ここでようやく、セアは自分の頬肉が普段とは違って持ち上がっていることに気がついた。
そうか、これが笑うということか。
「――はい。努力します」
普段からほとんど笑わない師弟。その二人が微笑み合う空間は、それこそ普段の二人が放つ雰囲気とは違って、穏やかで、和やかで、どこか癒しの匂いがした。




