みんな、忌々しい
ACT 5
スレイヤーの仕事は魔狩だ。基本的にはそれに準ずること以外の義務を持たない。
それゆえにスレイヤーの敵は、魔龍を始めとした魔物に限定される。国軍のように、他国を牽制しつつ魔物も相手にするようなことはしない。敵は人間ではないのである。
しかしスレイヤーにとって人は敵ではないが、管理部などの上層部から見ればそうとも言えない。国軍との覇権争いは年々拍車がかかっているし、武闘派スパイのベリドも厄介な案件になってきた。本部の者たちにとっては、人も敵になるのかもしれない。
ベリドは公の組織ではない。存在しているにはしているが、影を潜めている形だ。なぜならベリドは時に法を犯してまで仕事を遂行しようとする危険分子なのだ。
報酬次第では、敵組織に潜入して情報や機材を盗み出したり、ジャミングを行ったりする。テロまがいのことも平気でする。暗殺もしているという噂だ。それが摘発されないこともないが、ベリドの規模に見合った大規模な粛清は行われたことがない。いわく、政府や国軍自体がベリドの重要な顧客であるから、らしい。
ベリドの行為が黙認され、なおかつ国軍との癒着が確かなものになると〝赤い木の実〟は苦境に立たされる。組織の規模では国軍に敵わない。フットワークの軽さを活かして魔龍を討伐し、それを速やかに研究に回して成果を得るも、それをベリドに盗まれる。かと思ったら魔狩そのものをベリドに邪魔をされ、横から国軍がしゃしゃり出てくる。面倒なことこの上ない。
そのようにして国軍やベリドといがみ合っているからだろうか、ここ数年はスレイヤーにも対人戦闘力が求められるようになってきた。無論、殺す目的ではなく身を守るためのものではあるが、実際に養成所のカリキュラムにも含まれている。スレイヤーにとって敵は魔物だけ、という時代は終わりを迎えたのかもしれない。
セアも対人戦闘は一通り習った。専門の講師から教わったし、クレンからも直接教わった。そこで習ったのは、命術は人に向けて放ってはならない、命術で人を傷つけてはならない、しかし自分の身が危険なときは、その力を限定的に行使してよいということだった。
いわゆる正当防衛のために命術を使うのは問題ないということなのだろう。確かに銃を向けられナイフを突きつけられたら、セアも相手の鼻先に光球の一つも浮かべるだろう。いくら戦闘の技術を身につけ、筋力もつけたからといって、セアが女であることには変わらない。強力な力にねじ伏せられそうになったときは、その素質と技術をもって打ち払うことが求められるのだ。
とはいえセアにとって、人と争うのは避けたい案件であった。元から競争心が強いわけではなく、血気盛んに利を求めてきたわけでもない。何事も温和に済ませるのが一番だと鉄仮面の奥で思っている。だからこそ、そんな願いが甘っちょろい戯言だと笑い倒されるいまの〝赤い木の実〟の体制に、話し合いでの解決がまったく見出せないサキアの状況に苛立っているのだった。
「え」
山に向かい、淡々と四つ目のデコイをはずしたときだった。ぶん、と鈍い音が通信機から発せられた。
妨害電波を発するデコイ。それをはずしてすぐ、沈黙を貫いていた通信機にノイズが走った。セアは反射的に通信機を取る。
「あ……でもまだ駄目か」
通信可能モードにはなっているが、ノイズがひどい。まだ本部とコミュニケーションを取るほどの回復レベルではなかった。
とはいえ通信可能となったのなら、少なくとも本部がこちらの位置を把握することはできる。任務の受諾期間は明日まで。それ以降こちらに軟禁される状態が続けば〝赤い木の実〟がなんらかのアクションをサキアに向けるだろう。
とはいえ四つ目のデコイをはずした段階で通信可能モードになるとは思っていなかった。五つ目のデコイは高周波の電気振動がどうとかいうタイプのもので、高確率で通信を妨害するものだったからだ。セアにはよくわからない話だが、このタイプはメリットよりもデメリットの方が多いデコイとのことで、遠からず使用されなくなるとのことである。そんな過去の遺物を安易に使わせるなと内心で思うが、「それも魔龍を攪乱させる一手になり得る」と言われれば反論は難しい。
遠く響く魔龍の唸り声。慣れてはいけないと思いつつ、セアはそれに対する危機意識を希薄化させていた。毎日毎日聞かせられればそうならざるも得ない。四六時中気を張り巡らせるほうがよっぽど体の毒だからだ。
「みんな、忌々しい」
ふと落ちた言葉だった。
向けられた相手は多岐にわたり、中には八つ当たりも含まれていた。自分たちを軟禁するサキアの住民、経費削減ばかり気にした挙句政治的思惑を重ねて送り込んだ本部の奴ら、役に立つかどうかも謎な厄介な代物ばかり渡す開発部の奴ら。こんなところに現れた魔龍。怪我をしたクレン。怪我をさせてしまったセア。それなのに何の役にも立てていないセア。そのくせ心のどこかで「自分はこんなに頑張っているのに」と開き直ってしまっているセア。
みんなみんな爆破させてやりたい。
ぐっ、と力をこめると脇腹がじくじく疼いた。魔龍の直撃を受けていたらこの程度では済まなかっただろう。この痛みは生きている証なのだ。
五つ目のデコイを壊したらいよいよ通信が可能になるかもしれない。そんな期待を込めてセアは山を登る。そしてようやく設置した木のところへたどり着いた……が。
そこには何もなかった。
「え。そんな……」
場所を間違えただろうか。いや、そんなはずはない。そうは思うも、セアは辺りをきょろきょろ見渡す。しかし視界に入る木には、それらしいものが見当たらなかった。
どういうことだろう。何者かにはずされたか。
魔龍やそのほかの獣が破壊したのだとすれば、周囲に残骸が落ちているはずだ。しかしそういったこともない。そもそもあの魔龍が破壊を試みたのならば、この周囲一帯の木が薙ぎ倒されている。だからこれは、あの魔龍の仕業ではない……。
セアは改めて取り付けられていた木や周辺を観察した。思うところは二、三点あったが、どれも憶測に過ぎない。とりあえずこの件は持ち帰りにし、クレンの見解を仰ぐべきだろう。
それにしても困った。四つ目のデコイを破壊したときに、期せずして通信機が回復したのは、すでにこの本命のデコイが破壊されていたからだったのか。これでどうにかなるのかもしれない、と思っていた淡い期待が打ち砕かれ、セアは少しうつむいた。
「みんな……みんな忌々しい」
意図して発した言葉は、いつものセアの声よりも少し低かった。
***
クレンの容体は依然として芳しいものではなかったが、どうも彼自身も自らの不具合に慣れ始めているらしい。体の熱に喉が渇けば手近なコップに氷水を生成して飲んでいるし、時には氷をかじっている。彼がこういった命術の使い方をするのは意外である一方、こんな体調で命術が扱えるその胆力には感服する。そして氷や水を制す素質を持つというのがつくづくうらやましかった。
(私は……爆発しか起こせないからなあ)
仮に荒野に放り出されたとする。クレンの場合は空気中の水分を利用して水を生成し、永らえることができるだろう。しかし自分はそんなことはできない。地面を爆破しまくって水脈を当てるが先か、石油が出るが先か、干からびるが先か。いずれにせよ、爆発の命術というのはやはり使い勝手がよくない。
「先生。どうしましょうか。頼りのデコイは駄目でした……明後日になれば、不審がった〝赤い木の実〟が何らかの行動に出るかもしれませんが……」
「ああ。だがそれはサキアもわかっているだろう。だからきっと……――」
クレンの言葉を遮るような乾いたノックの音。二人は鉄仮面の向こう側にわずかに辟易したような色を見せた。
「……先生、行ってきますね」
「……ああ」
クレンはおそらくこう続けたかったのだろう。サキアのほうが〝赤い木の実〟に先んじて行動を起こすだろう、と。セアの尻を蹴って山に追いやるかクレンをベッドから引きずり出すのかはわからないが、よくない未来しか想像できない。
扉を開けると、いつもの従業員の少女がいた。彼女はいつも申し訳なさそうな顔をしている。いつも仏頂面な自分が言えた義理ではないけれども。
「すみません、ちょっと下までお願いします……」
「はい」
抵抗が無意味なこともよく知っている。頼まれるまま階下に降りれば、ロビーにはあふれんばかりの住民たち。予想できた展開とはいえ眩暈がした。
浴びせかけられるのは不平不満、抗議に文句、単なる罵詈雑言などなど。どうしてこんなに激しく自己主張できるのか、と違う意味で感心してしまう。
俺たちを殺す気なのか、と誰かが怒鳴る。私たちが死んでもどうでもいいんでしょう、と誰かがわめく。馬鹿を言うな、と思った。確かにいまのセアはここの住民の生死など至極どうでもよいと思っているが、殺す気があればもうとっくにやっている。なんならいまこの瞬間、ここで光球を炸裂させたっていい。それをしないのは殺す気がないから……というよりは殺すデメリットが大きいから。スレイヤーは合理的な思考の存在、行動に見合うベネフィットがないのに誰が無為に動くか。
「スレイヤーさま、いかがでしょうか。明日までになんとかなりそうですか?」
慇懃無礼な支配人が、欺瞞たっぷりの笑顔でこちらに話しかける。一拍間を置いて、セアは「なりませんね」と答えた。わずかに静まりかけた場が、油を注がれたかのようにまた苛烈化する。今回はセアに対する個人的な罵詈雑言が多めだった。男みたいな頭をして、というものが最も癇に障った。
「失礼ですが、スレイヤーさま。ならないのではなく、する気がないだけでは?」
「そうですね。そうかもしれません」
「おやおや、スレイヤーさまがそんなことでよろしいのですか」
「対価のぶんは働きました。これ以上することはありません」
反論の軸はぶらさない。自分たちは自分たちに任されただけの仕事をやり、任務を全うした。これ以上の義務は何もないのだ。
ただしそれで彼らが理解するわけもない。議論が平行線を辿ることは目に見えていて、セアは胃がもやもやするような不快感を覚えていた。
「彩聖セアさまがそのように仰るならば、ここは天下の天斬クレンさまにお願いするしかなさそうですね」
「……どうしてそうなるんですか」
「彩聖さまはスレイヤーになられて日も浅い、まだまだお若い女性です。失礼ですが、あなたの実力では魔龍を倒すことが難しいのではないのですか? それならばあなたがなんともならないと仰るのも理解できます」
侮辱であったが事実でもあった。セアの実力ではまだ地這の魔龍を倒すには至らない。とはいえセアはマーキング任務目的で派遣されているのだから、討伐に見合う力がないのは当然のこと。それを恥だとは思わない。
だが支配人はセアを煽るように続ける。
「それでしたら実力も実績もある天斬さまにお願いするのが一番かと。負傷されていますが、死に至るものではないようですし、薬でなんとかなるでしょう。ああ、彩聖さまには是非サポートに徹していただきたいと思っております。お二人の力をもってして討伐なさってくださいませ」
「ふざけないでください。任務のために奮闘し負傷した者を無理やり動かすことがそちらの正義ですか。それであの人が再起不能になったら、あなた方は責任をとれるのですか。私たちの責任をやたらと追及する割に、自分たちの責任はずいぶんと甘く見られているようで」
セアは何も口が弱いわけではない。舌を武器に喧嘩を売られたのならそれに応じるまでだ。クレンに比べたらどうという相手でもない。
とはい時程的に余裕がない彼らは、とうとうクレンを引っ張り出すという作戦に出てきた。いままで交渉ごとにはセアが立ち、クレンが矢面に立たされるのをなんとか回避してきたが、どうやらそれも厳しそうだ。しかしいまのクレンが戦場に立つというのはもっと難しい。
セアは考える。
すなわち、自分を守るか、クレンを守るか。
自分がここで議論を放棄して、クレンに指示を仰ぐ。本来ならばそれが正しい。自分にはさしたる決定権もないのだから、立場的にも経験的にもクレンに任せるのが一番だ。彼が万全の体調だったら、そもそもセアがここに立つことはなかった。
しかしクレンはいま毒に侵されている。痛みと熱に苦しみ、それでも耐えている。それを見て、その原因の一端が自分にあると考えて、何もせずにいられるほど無神経なセアではない。
自分が彼を守る――セアは小さく右手を握る。
「次は何で私たちを脅しますか。兵糧攻めにしますか。それもいいでしょう、私たちが弱れば、いよいよ魔龍への対策はなくなりますが。……それに。あなたがたは気づいておられない」
セアは少しだけ目を閉じた。それはセアが逡巡した姿だった。思案の淵から戻ったその目は濁りがなく、煌々ときらめく炎の色を思わせた。
セアは不意に小さな光球を民衆の頭上に作り、一拍置いて爆破させる。天井や壁を熱がなぞり、室内は爆風にさらされた。驚き転んだ者はいたが、この程度の爆発で死傷者は出ないし調度品も無事だ。目的はただ、自分が化外の術を統べる者であると改めて理解させるため。
そしてその力を民衆に向ける、力の制御ができない理性の欠けた人間であると誤認させるため。
爆音が収まり、場は静まり返る。先ほどまでの勢いはどこに行ったのか、人々は混乱し怖じた目でセアを見つめている。
「強いのは、私たちです。あなたがたは私たちに逆らえない」
「め……命術を人に向けて発動するのは禁忌では?」
「正確に言えば、命術をもって攻撃行動をするのが禁じられているのです。いまのはグレーゾーンでしょう。ただの威嚇ですから」
怖じる支配人を、感情のない目で見やる。そうして彼の顔の横に光球を出現させる。先ほどよりも、少し大きなものを。
「これも威嚇ですから、攻撃にはなっていません。ただ私はすぐにでもこれを爆破できる」
「ひっ……」
「こういうこともできます」
一つ、また一つと頭上に光球が展開していく。大小様々な光球は、セアの思い通りに炸裂させることができる。そしてこの数の光球がここで爆ぜたら、ここにいる全員が無事では済まない。
「仰る通り、私はまだ半人前ですから。師にもよく未熟だと指摘を受けます。技術だけでなく人間性もまだまだ甘い。だから……規範なんてどうでもいい、ただイライラするから無差別爆破をしてやろう、と思ってもおかしくない」
「お、脅しも立派な犯罪でしょう!」
「その言葉、そのままお返ししましょうか」
実際問題、こんなことが外に知れたら大ごとだ。〝赤い木の実〟の倫理委員会に召喚され減給処分になるのは明らかで、下手をしたら外部からも叩かれる。警察沙汰になってもおかしくない。ただしそれはサキア側も似たようなものだ。お互い灰色の道を歩んでいる。
「私たちは明日にでも帰ります」
「それは……そんなことをしたら我々は宗旨替えを!」
「どうぞ」
セアは毅然と告げる。目には迷いがない。
「私たちには関係ないことです……軍と〝赤い木の実〟の陣取り合戦なんてものは。スレイヤーはただ魔物を倒すだけの駒に過ぎない。上の者が何を考えようが、あなた方が何をしようが、私たちの進む道は変わらない」
言ってから思う。最初からこの判断に至れていればよかった。スレイヤーはスレイヤー。組織を運営したり管理したり、そういったものに関しては門外漢だ。魔狩の権限しか持っていない自分たちが、組織同士の権力争いにまで気を回そうというのがお門違い。
任務をこなす。それで、それだけでよい。
「心配せずとも魔龍の活動域はここから離れている。不用意に山に近づいたりしなければ問題はないはずです。ですから――」
「おいっ! た、大変だ……!」
セアの宣告を遮るようにロビーの扉が開かれた。
肌がちりちりする。嫌な予感がする。
「魔龍がおりてきた……っ!」
――なぜ?
純粋な感想がそれだった。論理的に分析して、魔龍がサキアを襲う確率は低かったはずだ。生息域は山奥だったし、山に食糧が不足しているわけでもなければ、サキアに家畜が多いわけでもなかった。ここには魔龍を刺激する要素もない。それなのに、なぜ。
「ちっ……みんなここから動かずに!」
セアは芯の通った声でそう叫んだ。今日はデコイ破壊から戻ってきて、武装解除する間もなくここに呼ばれたから、自分の装備は整っている。大きな銃火器は手元にないが、取りに行っている余裕はない。
いくら魔龍を倒す義務がないと言っても……ここの民を嫌っていたとしても。自分はスレイヤーだ。人が魔龍に襲われているのを知って、見て見ぬふりはできない。それが仮に、自分の命を危険に晒すことであったとしても。
任命されたときに肝に銘じている。自分はいついかなる時でもスレイヤーだ。死ぬまで、いや死んでもスレイヤーだ。師がそういう人なのだから、自分がそういう思考を持つのは当然のこと。むしろ誇りを持ってこれを示したい。
「魔龍の出現場所は?」
「そこを右に曲がって道なりにまっすぐ行ったところの……農地のはずれだ。その辺りの奴らはまだ動けずに残ってる……!」
「わかりました。……助けに行ってきます」
セアは走り出す。打撲傷を受けた脇腹がじくじくと痛む。ポケットから痛み止めを取り出して飲み下しながら、装備を確認する。武器と呼べるのは二本のナイフとハンドガン一丁。対魔龍用の銃火器がないのはやはり心許ないが、薬品は一通り持っている。あとは閃光弾が数発。普通のスレイヤーならばここに爆弾や爆薬も基本装備として揃えるが、セアの場合は自身が爆弾なのでそれはない。
さて、この装備で、この体調で、地這の魔龍に対峙できるのか。
(正直、かなり厳しいか)
クレンでさえ気が抜けない地這の魔龍。それも奴は罠を抜けて出てくるほど規格外の魔龍だ。勝てるわけがない、というのが本音である。
撃退ならできるか? そこまで考えて、自分の甘さを嘲笑する。希望的観測は許さないとクレンにもきっと怒られるだろう。けれども退けない以上、希望にすがるしかないのも事実だった。
農地が見えてくる。このはずれに魔龍がいる。気を研ぎ澄まし、いつでも命術が発動できるように身構える。
(いた……!)
山に通じる道を、のしのしと魔龍が歩いている。地面の匂いを嗅ぐ様子を見せながら、歩みは町の中心部へと向いている。幸いにもまだこちらに気づいてはいない。家屋の陰に身を隠し、セアはどうするのが最善かを考えた。
まずは奴を町から遠ざける必要がある。だが、どうやって? 自分が囮になったとして、山道を登る方向ではまず逃げ切れない。平地はほぼほぼ人里で、そちらに引っ張ることもできない。追い払うにしても、それだけの痛手を与えることが自分にできるのだろうか。そもそもダメージを与えることが必ずしも撃退につながるわけではなく、魔龍を怒り狂わせ手がつけられなくなる恐れもあるのだから、闇雲なことはできない。
どうするのが最善か。
しかし魔龍は考える時間を与えてくれない。
何を気にしたのか、魔龍は一軒の家に、脇目も振らず近づいていく。その家の壁を爪にかけ、こそげるようにひっかく。家の中から乾いた悲鳴が上がり、それがさらに魔龍を刺激した。
魔龍が第五・第六の足を振り上げる。筋肉が隆々と盛り上がり、鋭い翼膜が夕焼けにきらめいた。家が破壊される音と老若男女の叫びが響くのは同時だった。
そしてセアが飛び出して笛を吹くのもまた、同時。
魔笛は魔物の気を引く音色を出す笛で、スレイヤー必携の品だ。そのほかにも匂いや熱でおびき寄せるものもある。スレイヤーは民間人を守る責務を持つため、こうやって自らに注意を引きつけるアイテムは数多く存在する。
地這の魔龍がこちらを向いた。同じ轍は踏まないと、その目を直視しない。
「こい!」
魔龍の鼻先に光球を作り、過たず爆発させる。これで完全に意識はこちらに向いたようで、魔龍は大きく咆哮した。セアを敵とみなしたのだろう。崩れた家屋から脚を抜き、こちらに爪を向ける。
さて、どうしよう。
怖い。あまりにも怖い。怖過ぎて怖過ぎて、何が「怖い」のかわからなくなるほど怖い。けれども自失に至るほど怖いおかげで、気持ちはむしろ冷静だ。冷静さを欠くことが最大の弱点だと言われている自分にとって、この状態は追い風に感じる。
突進してくる魔龍のスピードに合わせて、横に転がるようにして回避行動を取る。脇越しに見えた世界を瞬時に把握し、光球を錬成。鱗の薄い腹を狙って二発、炸裂させる。見切れる視界で魔龍の血がしぶくのが見えた。
こうして削っていけば勝機が見えるか? いや、そんな甘いものではない。あの魔龍が強靭な脚力以外の武器を持っていない保証はないのだ。怒り狂った魔龍が規格外の動きをするのも経験済みである。こちらがダメージを加えれば加えるほど、相手の動きはわからなくなる。スレイヤー歴が浅いセアでは対応しきれない。
ましてセアのコンディションは万全ではないのも痛い。この回避行動に支障が出なかっただけで、脇腹に抱える火種がいつ破裂するかわかったものではないのである。戦闘が進めばセアも確実に消耗し、動きは衰えていくだろう。そうなったときの対処次第で、自分の運命が決まる。疲弊した肉体に囚われるようでは、永らえることはできない。
とりあえず民家からは距離を取ろう。セアは民間人に動かないように命じて、自身の体を農地のほうへと動かした。芋や豆が植えられた畑に魔龍をおびき寄せ、人的被害が出る可能性をできるだけ小さくする。
(ったく、私は……どうしてこんなに遅いのか!)
自分の命術の拙さに苛立つ。魔龍に限らず魔物を狩るときには、目を狙うことが一つの作戦として捉えられている。視覚によって様々な情報を得るのは魔物も同じで、だからこそそれをつぶすのが効果的だと考えられているのだ。
しかし、セアの命術のレベルでは、ピンポイントに目を狙うことは難しい。絶えず動き回る魔龍に光球の生成スピードが追いつかないのである。無論、ナイフやハンドガンで狙うことなど不可能に近い。
ならば次に狙うのは甲殻がなく鱗も薄い腹部になる。そこならば範囲もあるため、セアの命術でも狙うことができる。しかし地這の魔龍は腹を地面にこすりつけるようにして移動するため、光球を作るスペースが確保しづらい。
結果、腹部を狙う光球は魔龍の四肢や第五・六脚を爆破させるに留まっている。また、小さな光球ばかりでさしたるダメージも与えられていない。セアも被弾はしていないが、運に恵まれているからだろう。運を引き寄せることもスレイヤーの大事なスキルの一つだが、それだけでどうこうできるほど魔狩は甘くない。
「くっ……」
変な方向にねじれたのか、回避時に脇腹に鋭い痛みを覚えた。なんとか突進を避けることはできたものの、靴の端を魔龍の腕がかすめていった。そのまま足の一本持っていかれてもおかしくはなかったと、セアは文字通り息を飲む。呼吸するだけでも腹が痛い。
(これほんと……どうしたらいい! どう考えたってこれじゃ……!)
精神はまだ摩耗していない。命術を使う余裕はある。しかし体力は確実に削られている。回避ができなくなればそれで終わり。自分にはクレンのように術で身を護るすべは持っていない。
できるだけ弱点を狙って攻撃を繰り返しつつ、セアはまえの二の舞になることを考えていた。すなわち、自分の身を顧みずに大きな攻撃を仕掛けること。
ただしここは海の上の塔ではない。巨大爆発を起こせば民家にまで被害が及ぶのは明らかだ。彼ら民間人を守ろうとして傷つけてしまっては元も子もない。また、前回は翼を傷つけて飛行困難にさせることで撃退を果たしたが、同じような威力・出力で同様の効果が得られるかどうかも未知数である。何せ相手は地這の魔龍なのだから。
考えても埒が明かないのはわかっている。でも「怖い」「どうしよう」この二つ以外に思考が回らない。それもどちらも最悪の方向ばかり想像するから性質が悪い。
戦場で悪い可能性ばかり考えるのは愚行である。希望的観測も駄目だが、悪いことばかり想定していてはそちらに流されてしまう。攻め手に欠け、守りに入り、悪い方向へと落ちていく。だからそういう思考回路は持つな――これも師の教えだ。
希望的観測でここにきて、最悪の方向ばかり考える。まったくもって愚かとしか言いようがない。師に怒られるまでもなく、自分で自分を叱責したい気分だ。
「……ほんと、私はどうしようもない」
この境地に達して、少し気持ちが落ち着いた。
「どうしようもなくても、どうにかするしかない……っ!」
別に死にたいわけではないが、何がなんでも生きたいわけでもない。だからこそどんなことでもできる。死に恐怖を覚えることなかれ……それを活かして、生きる道を見出す。
この地這の魔龍は動きこそ段違いに速いが、ほとんど直線的にしか動けない。動きの軌跡はなんとか先読みできるようになった。そこに地雷を仕掛けてみよう。そうすれば防御の薄い腹部を狙うことができる。
爪をグリップ代わりにして、魔龍がまた方向転換してくる。まっすぐに、尋常じゃない速さでこちらに向かってくる。その速度や跳躍具合を計算してできるだけ大きな光球を地面に置いた。これで止められる保証はないから、体はすでに回避行動を取っている。
ねじれる腹が痛い。
次いで響く轟音。ほぼ同時に魔龍が吠える。
しぶいた血がセアの髪を濡らす。生臭い、嫌なにおいが鼻につく。これだけ出血させられたのなら、傷もある程度大きく与えられたのだろう。無論、致命傷には至らないだろうが……――。
「なっ……!?」
地面を転がったセアが、一瞬視界から魔龍をはずし、立ち上がり、そして再びその目に敵を映したまさにそのとき。
頬を何か、とても熱いものが薙いだ。いや、本当は熱くはないのだろう。何せセアの頬を深々と斬りつけたのは魔龍の尖った甲殻の一部だったのだから。
「甲殻飛ばすって……そんな……!」
聞いたことがないわけではない。普通の飛ぶ魔龍の中には、鱗を飛ばして攻撃してくる個体も多く確認されている。だから、物理的な遠距離攻撃を仕掛けてくる可能性は容易に予想できた。警戒もしていなかったわけではない。しかしその飛ばす速度はセアの予想を大きく上回り、おまけに鱗よりも鋭く重い甲殻が飛んできたのだ。
セアの右頬の傷はあっという間に血を溢れさせ、その雫は顎からぽたぽたと滴った。興奮しているせいか、脈打つように熱いだけで、痛みはさほどでもない。だがこれが目に刺さっていたら……と考えるだけで怖気が走る。
魔龍はこれまでのように矢継ぎ早に突進を重ねてはこなかった。セアから一定の距離を置き、威嚇するように唸りながらこちらを見ている。先ほどの地雷は一定の効果があったようだ。
ぐいっと頬を拭い、セアも魔龍を見据える。突進してくるか、甲殻を飛ばしてくるか。いずれにしても恐るべき速度だ。瞬きさえも容易にできない緊迫した空気が周囲に満ち、セアはそれに息苦しさを覚えながら毅然と構える。
魔龍との正面対峙は何秒間あっただろう。拭った頬がまた真っ赤に濡れるくらいの時間はあった。たった数秒を数分にも誤認するほどの緊張感の中、魔龍が後ろ足を地面にこすったのを、スレイヤー・セアは見逃さない。
魔龍が後ろ足を地面にこすりつける動作は、その場からの離脱を考えていることを意味する。こういうときは刺激するものや敵対するものを魔龍の視界から除外すれば、魔龍は速やかに去っていく。
「っ……」
気を抜かず、セアはじりじりと後退る。家屋の影を視界の端に見つけ、そちらの方向に踵を向ける。魔龍はいまだ静止しており、やはり時折後ろ足をこすりつけている。このままセアが視界から消えれば、この魔龍は山に戻るかもしれない。
かもしれない、のままでは予断を許さないのは重々承知。極力刺激させないよう音を立てず、大きな動きも見せず、セアは家屋の影に身を隠す。一息ついてから足音を立てずに家屋の裏を回り、別の角度から魔龍を視認。魔龍はまだ動かない。
セアが頬の傷を気にするように、魔龍も腹部の傷を気にしているようだった。時折舐めるような仕草を見せつつ、魔龍はまだそこを動かない。早く行ってくれと、セアは心の底から祈った。
その甲斐があったのか、魔龍は先のセアと同じように周囲を警戒しながら、それでもしっかりと大地を踏みしめて山へ去っていく。あの足取りを見るにまだまだ体力は有り余っており、大きなダメージも受けていないのだろう。このまま戦闘を続けていたらまず間違いなくセアが敗れていただろうから助かった。
本当に命拾いした。
「……はは」
途端に腰が抜ける。すとんと壁際に座り込んだセアは、自分で自分の肩を抱く。抑えがきかないほど体が震えていた。
やり切った、どうにか街を守れた、という達成感。一人でも地這の魔龍を撃退できた、という充足感。そのすべてを、遅れてきた恐怖感で塗りつぶされる。
「こわ……怖かっ……は、はは……」
怖いとむしろ人は笑えてくるのか。これが正常な反応なのか。何もわからないままに、セアは震えながら笑う。血に濡れていない左側の顔は蒼いまでに白かった。
自分が生き残れたのは運を味方につけたからだ。この交戦で死にかけた瞬間は何度もあった。それこそ甲殻を飛ばされたときは、あと数センチ逸れていたら顔面がぐしゃぐしゃになっていた。実力で勝ち得た撃退とは言えない。
「ははは……もう、全身痛い……やってられないな、もう……」
思い出したように脇腹が痛む。頬の傷もちりちりとした熱い痛みに変わってきている。帰還して傷を癒そうにも体が動かない。
結局セアはその場に五分ほどへたり込んで、それからようやく立ち上がった。やっとのことで踏み出した足はがくがくと震えていて、満足に歩くことさえままならない。それでも再び膝をつくことなく、セアはホテルへと戻った。
***
「セア!」
ホテルに戻ってすぐのこと。ロビーにはクレンがいた。彼はセアの姿を見咎めるなりすぐ足早に歩み寄ってくる。
その顔は険しいの一言に尽きる。ゆえにセアはすぐに身を縮めた。反射的に口にするのは謝罪の言葉。
「あ……その。すみませ――」
「無事か! その顔は……!」
「え、あ、はい……」
「はいじゃない。現状を報告しなさい、セア」
クレンはセアの肩をつかみ、顔を覗き込む。その顔には余裕がなかった。鉄仮面ではない、呆れ顔でもないクレンなど珍しい、と思考を泳がせる。
「頬の傷は……えっと、少し深いですが命に別状はなく……その他の被害は特に……」
聞くが早いか、クレンはセアの頬に触れた。痛みにびくっとするセアをよそに、彼はセアの肩や腹部に触れ、傷の具合を確認していく。自分では気づかなかった軽い打撲や擦り傷、体の歪みが、痛みになってセアを呻かせた。なんとか我慢していた脇腹に触れられたときは、そのあまりの痛さに「あくっ」と声を上げたほどだ。
「……このあいだの傷か」
隠してはいたつもりだが、クレンにはお見通しだったようだ。
「は……はい」
「あとでよく見せろ。おそらく悪化している。無理をするからだ、この……」
馬鹿者、と続くかと思ったが、クレンはそこで唇を結ぶ。
彼は少し迷ったように目を伏せ、ロビーに集う人たちに向き直った。
「私に理性がなかったら、ここにいる全員殴り倒しています」
クレンは普段と変わらぬ口調で淡々と告げた。彼はセアの手を引き、民衆のまえに立たせる。
「この子が……まだ二十歳にもなっていない娘が、こんなに血を流して戦った。それもこれも、あなた方を守るために。自分が死ぬ可能性があるのに構わずに。それでもあなた方はそれが当然だと……狩るまで続けろと、そう強いるつもりですか」
妙な既視感を覚えた。
「スレイヤーだから何をしてもいいと? あなた方は自分の子に、孫に、同じことが言えますか? 死ぬまで戦え、と」
「そ、そこまで言っては……!」
「同じことでしょう」
クレンの口調はどこまでも冷たい。自分を叱責するときよりもさらに冷たいかもしれない。クレンに長く接しているセアにはわかる。クレンは、いまとても怒っている。
「せ、先生。私は今回、結局は自分の意志で出撃したので……」
「同じことだ。君は甘い。結局はそうやって、自分の意志で決めたものだと見間違う。本当はただ押しつけられ、選択させられているだけに過ぎないのに」
いつもそうだ……私といるときも。
彼はそう続けた。セアはただ押し黙るしかない。事実でしかなかった。
「……彼女の手当てがあるので私たちはこれで。魔龍が出た周辺の住民は避難させておいてください。しばらくは近寄らないほうがいい。できるなら監視の目もつけておくといいでしょう」
それだけ言って、クレンはセアの手を引き、階段へ足を向けた。誰も、何も、言ってこない。見慣れた少女の従業員がそっと寄ってきて、救急箱やタオルなどを、いつも以上にびくびくしながらセアに手渡した。
熱がまだ下がっていないのだろう、クレンの手は汗ばむほどに熱かった。本来ならば寝ていなければならないのは彼のほうだ。それでもわざわざ階下に赴き、セアの帰還を待っていた。いや、待っていたというのは語弊がある。彼はまさに出撃する間際だったのだろう。彼は装備を整え、対魔龍用の武器も携帯している。おそらくは不出来な教え子を助けに行くために。
「先生……すみません」
「何に対して謝っている」
「……私が一般人に命術を向けたこと。一人で魔龍に立ち向かったこと。怪我を隠していたこと。それと……先生に心配をかけたこと」
クレンは誰からの心配もいらないと言う。セアが彼の身を案じ、どんなに心配しても、そんなものは不要だと断言する。そんな彼が、自分のことを心配してくれた。
迷惑だったかもしれない。面倒なことを、と苛立ったかもしれない。けれども自分は、彼に心配がられるほどの存在ではあったわけだ。
それに、喜びとも嬉しさともまた少し違う、奇妙だが温かい感情を覚える。
「……君が面倒な弟子だということは重々承知。今回はその手綱を握れなかった私にも責任がある」
彼は朴訥として口調で、それだけを言い放った。
***
部屋に戻ると、クレンは窓際の椅子に座るよう促した。「一人でできます」というセアの申し出も聞かず、彼は洗面器に水を張る。
「先生は寝ていたほうが……」
「どうということはない。それに、君はまだ気づいていないのか」
クレンはタオルを水で濡らしながら顎をくいっとやる。見れば部屋の隅で、二羽の鳥が大人しく丸まっていた。セアが放った、希望を乗せて送り出した、あの二羽の鳥。
セアは委縮した顔を綻ばせ、ともするとほんのり笑顔ともとれるような表情になった。そして柄にもなく大きな声を出し、その帰還を祝う。
「帰ってきたんですか! よかった……首尾はどうでした?」
「一羽は薬を、一羽は書簡を持って、君が階下に降りてすぐ戻ってきた。書簡のほうは暗号化されていて私には読めない。薬は別に私でも読める添え書きがあったからな、すでに服用している」
「ああ、本当によかった……! 薬は効きましたか?」
思わず立ち上がり、セアは二羽の鳥を撫でた。よくやってくれた、ここまで早く結果を出してくれるとは思っていなかった。もしかしたら自分よりも優秀かもしれない、とセアは目を細めて微笑む。頬で固まった血がぽろぽろと落ちて、見咎めたクレンが「座りなさい」と促す。
「そこまで即効性はない薬だからな。効果のほどはまだわからない。……が、関節の痛みは少し収まった」
「それこそ安心しました……あ、書簡の解析、急ぎますね」
「いいから座りなさい。せわしないな」
「す、すみません」
「解析などはあとでいい。まずは傷を見せなさい。上着は早く脱ぐ、下は……」
「下半身は負傷なしです。捻挫等もありません」
「そうか、よろしい」
セアはジャケットを脱ぎ、アンダーウェアも素知らぬ顔で脱いでいく。クレンに肌を見せることに恥じらいを覚えていたのは、候補生時代までだろうか。訓練、実戦を問わずに刻まれる傷、それをいちいち彼に診られていたのだからもう開き直るしかない。恥じらいがゼロになったかと問われれば多少は残っていると答えるが、それでも下着姿を晒すことぐらいはなんの抵抗もない。
セアの胸はそこそこの大きさがあるが、激しく動くのには邪魔であると、専用の下着でつぶしている。その下着一枚で、谷間もあらわになった状態をクレンに見せた。当のクレンはセアの胸やウエストといった女性らしい部分にはまったく興味を示さず、ただ肋骨の下からへそ一帯に広がる赤紫色に眉をひそめている。
「加減はしたつもりだったが……少しやり過ぎたか」
「いえ、ああやって吹き飛ばしてくれたおかげで私は命拾いしたんです。そこはお気になさらずに」
「とはいえこれではな。受傷後、派手に動き過ぎだ。内臓へのダメージも否定できないのに、内出血が広がっている。だいぶ痛むだろう」
クレンは「ひとまず頬の傷から片づけるか」と、椅子を近づけた。血でべっとりと塗りつぶされた右頬を、濡らしたタオルで拭いていく。傷が引っ張られるたびに痛みを覚えたが、クレンは特に何を気にする風でもない。
「深く切ったな。口に貫通してもおかしくはなかった。何で怪我をした?」
「魔龍が甲殻を飛ばしてきたんです。これくらいの大きさで……とんでもなく速くて。急所に当たらなかったのは幸運でした」
口内から舌で押すと、傷口から血がじんわり出てくる。口を貫通するかしないかのぎりぎりで受けた傷。これもまた運に助けられたと言ってよいだろう。
「甲殻を飛ばす魔龍、か。遭遇したことはあるが、地這の魔龍でそれか。厄介だな」
「いつっ……はい、それで私はほとんど対応できなくて……なんとか地雷を仕掛けて腹部を狙い、その一撃でどうにか追い払うことはできましたが……っつ」
「地雷か。地這の魔龍は一般の魔龍に比べても腹部が弱いからな。そこを狙うのは的確な判断だ。それにしても甲殻での怪我か……奴の甲殻に毒が含まれていないといいが」
毒が含まれていたら自分も熱を出して動けなくなる。魔龍の毒に侵されたことはまだないが、その苦しみがどれほどのものかはなんとなく理解できる。それゆえにセアは「願うばかりです」と小さく答えた。
血餅と化していた血をすべて取り除き、それでも取れない汚れや血の塊を消毒液で流していく。これはただ触れられるのとはまた違う、鋭い痛みだ。セアは椅子の縁を握って耐える。
そんなセアの様子を見て、傷を見て、クレンは小さく息をついた。
「……痕が目立たないといいな」
「はい?」
「これだけ深いと痕を残さずに治療するのは難しい。だが君も女性、顔に傷がつくのは望ましいことではないだろう」
「あ……はい。それはそうですね。確かにそうです……はい」
これはクレンの気遣いなのだろうか。普段こういうことを言わないだけに、たまに言われると反応に困る。常時女性扱いされていないセアにとっては、女性がゆえの気配りをされると何かちくちくするのだ。だいぶクレンに慣らされたな、という感はある。
それでも嬉しくないわけではない。変わらぬ無表情ではあったが、セアは心の中で気持ちが綻ぶのを感じていた。
「とりあえずスキンステープラーを使うか。まずは傷口を塞がないと、感染症で悪化してしまうかもしれない」
「それはお任せします。よろしくお願いいたします」
正直スキンステープラーはあまり得意ではない。処置に伴う痛みはさほどではないが、どうも止められている感がむずむずしてならないのだ。とはいえわがままが通る状況でもなし、互いに治癒系命術師であるわけでもなし、セアはクレンに最善の治療を頼むしかない。
手慣れたクレンはてきぱきと頬の傷を手当てし、洗浄からものの十分程度でパッドを止める過程を終えた。
「次は腹か」と、言うや否や、彼は腹部をぐっと押した。
「いっ……つ!」
「痛いか。だろうな。これはどうだ?」
「さっきほどではないですけどこれもやっぱり痛い……です」
「ふむ……内出血が広がり、臓器を圧迫している可能性があるな。状態を見るに内臓は損傷していないようだが、できるだけ早く専門の医者に診てもらったほうがいい」
はい、と返事するより早く、クレンは「それ以前に」と被せてきた。この流れは嫌な予感がする。
「なぜ隠していた。誰が隠せと言った。誰がそう教えた」
「あ、と、えっと……」
ここでそれを指摘されると思わなかった。たじろぐセアを、クレンは眼光鋭く睨む。その目を逸らすことさえできないセアはしばらく口ごもったが、結局はなぜそうしたかの理由を話すほかなかった。
「先生が……ご自分の怪我でつらい思いをしていて。そこに私の怪我がわかったらご負担になるかと……それに、仮にこれは先生の一撃で受けた傷ですから……その、責任を感じられたら悪いなあと……そう思いまして……」
「本当に君は馬鹿だな」
ぴしゃり、とクレンは言い放つ。険しい顔の中に呆れが垣間見える。
「その程度でどうこうなる私だと思ったか。だいぶ見くびられたものだ」
「……すみません」
「子供が割った皿を隠すのと同じだ。必ず見つかる、そして見つかれば余計に叱られる、そのことがわかっているのに隠す子供となんら変わりない。セア、君は一体いくつだ?」
再度「すみません」と謝る。クレンはため息をついて、ようやく目を逸らした。セアはここでやっとの思いで息を吸う。彼に直視されると呼吸を忘れていけない。
とはいえ報告を怠った、というのを見咎められたのはまずい。報告、連絡、相談、この三つはスレイヤーの中でも当たりまえのことだ。クレンはこういった基本を蔑ろにすることをかなりの勢いで嫌う。
「血便や血尿は?」
「ありません……これ以上の隠しごとは、本当にないです。すみません」
「スレイヤー間の隠しごとは、互いの信頼関係を破壊する愚行だ。任務の遂行にも支障をきたす。秘密ごとはプライベートのことだけにしておけ。馬鹿者」
クレンは湿布を貼って包帯を巻き、席を立った。おもむろにビニール袋を手に取ると、その中に氷を何個か生成する。
「まだ強く痛むだろう? これで冷やし、痛み軽くするといい。溶けたらまた言いなさい、用意しよう」
「は、はい。ありがとうございます」
こういう配慮はできるのにどうしてこんなに恐ろしいのだろうか、とセアは袋を受け取りながら思う。彼はけして無作法な人間ではない。相手にだけに厳しく接するのではなく、自らにも同じように厳しくする。間違ったことは言わない。論理的でないことはしない。
……論理的でないことはしない?
自分で考えたクレンの像を、自分自身で破壊する。クレンはそういう人ではないのかもしれない。今日、いまさっき気づかされた。
「……よかったんですか」
「何が」
「先ほど、街の人にああいうことを言っていたのが気になって」
――私に理性がなかったら、ここにいる全員殴り倒しています。
――この子が……まだ二十歳にもなっていない娘が、こんなに血を流して戦った。それもこれも、あなた方を守るために。自分が死ぬ可能性があるのに構わずに。それでもあなた方はそれが当然だと……狩るまで続けろと、そう強いるつもりですか。
――スレイヤーだから何をしてもいいと? あなた方は自分の子に、孫に、同じことが言えますか? 死ぬまで戦え、と。
クレンは民にそう言い放った。奇しくもその言葉はセアが数刻まえに放ったものと酷似していた。彼は殴ると言ったが、自分は命術で脅かした。言動がセアのそれととても似ているのだ。そしてそれは、自分たちとサキアの民の関係性を鑑みるに、あまり褒められたことではない。
「別に構わないだろう。本部と連絡が取れた以上、もういくら脅されても無意味だ」
「そうは言っても……建前的にはどうなんでしょうか」
「建前など君がとっくにぶち壊しただろうが」
命術を炸裂させ、強引に帰還を宣言したのは確かに自分だ。建前などとっくに崩壊している。しかしそれでも、ただ上官に従うだけの見習いが刃向かうのか、多くの部下を率いる将が啖呵を切るのかでは雲泥の差がある。
そしてそう、建前の話とは別に、聞きたいことがある。
「私のこと……心配して、それで怒ってくださったんですか」
クレンはすぐには答えない。こちらに背を向けているから表情も読めない。
「私が先生を心配したとき、先生はそんなもの必要ないと仰りました。先生が心配を無用とする方なのは承知しています。それではなぜ……私を庇うようなことを、あの場で仰ったんですか」
クレンの格好は対魔龍用の、いまできうる限りの完全装備だ。どのような形でセアが出撃したのを知ったかはわからないが、傷を押して戦いに赴こうとしたのだ。
「その装備も。私のことを助けようとしてくれたんですよね?」
クレンは、いまだ答えない。
「まえもそうです。そのまえもそうです。先生は……どうして私を、こんなにも守ってくれるんですか」
厳しい師だ、いままで何度も泣かされてきた。これからもそれはきっと変わらないだろう。それでもこの人は、自分を見捨てたことは一度もない。どんなときでも、最終的には我が身よりもセアのほうを優先して守る。
クレンは論理的な人間、だからこそ解せない。セアよりもクレンのほうが大事な人材だ。一つの戦力として考えたとき、彼は自分よりもずっと大きな価値を持つ。それなのに、彼はなぜかその論理に従わない。その理由をセアは知りたかった。
「私は君の世話役だ。君に何かあっては、親御さんに申し訳が立たない」
クレンはこちらに背を向けたままそう言った。
確かにそれは論理的であるし筋も通る。見習いのセアの監督者であるクレンは、その無事を守ることにおいて一定の責任を負う。もちろん危険の伴う仕事であるから、死傷の責任がすべて問われるわけではないが、それでも最善を尽くす必要があった。
「それだけですか、理由は」
まだ解せない、とセアは重ねて問う。
「……君がまだ若い、未来ある人間だからだ」
クレンはこちらに向き直った。冷たい目に引き結んだ唇、一目でわかる仏頂面だ。対するセアも同じく仏頂面。真面目な話をするとき、二人は競うように感情を押し殺した顔になる。
「君はまだ十九、この先何十年も生きる。その貴重な人生を、大人である私が守らなくてどうする」
「でも……先生だって十歳しか変わらないです。それに、私より先生の方がずっと強い。私を守ろうとして先生が傷ついたら……そちらのほうの損害が、無視できないほど大きいのではないですか」
「十年短いと考えれば大きな差だろう。それに、現時点の実力云々の話はここでは論外だ。私は君より長く生き、そのぶん経験も積んでいる。君が私に敵わないのは当たりまえのこと。しかし君は、この私が指導している弟子だ……このままいけば、いつかきっと、いまの私を超えるだろう」
セアはすぐに答えた。そんなことありません、と。クレンの天賦の才、努力に裏づけられた才はセアには到底届かないような域にある。追いつくことさえ敵わないのに、それを超えることなんてどうしてできようか。
「セア。私にも師としての誇りがある。弟子には、いつか私を超えてくれるようにしか指導しないし、基本的にそういう者しか弟子に取らない。私は君に、私の知るすべての力を伝授する。そして私を超え、この国を守るスレイヤーになってもらいたい」
嘘のない語りだった。だからこそ、セアは切り返しに困る。
それでは、クレンはセアの力を見込んで、その未来の成功を願って、守ってくれていたということなのか。セアの将来に期待をして、いずれクレン自身をも超えるスレイヤーになると考えて、それで。
黙るセアを見て、クレンは一息ついた。彼は、「とはいえ」と続ける。
「これは私の勝手な考えだ。君自身は意識しなくていい。普通の安定した人生を願い、結婚し子供を産み、スレイヤーを引退して生きるのもいいだろう。すべては君の自由だ。だが、選択する自由を、私は残しておいてやりたい」
セアはなんと言っていいかわからなかった。ただ嬉しかったという気持ちだけはわかった。やはりクレンは配慮に欠ける人間ではない。厳しい指導にも――行き過ぎなところは多々あるとは思うけれど――理由があったのだ。
「だからセア。今日のように……君だけで危険なことはするな。いいか」
「……はい。でも、私にもこれだけは言わせてください」
「なんだ」
「私も、先生には無事でいてもらいたいんです。ずっと私の師匠で、ずっと指導していただきたいので。ですから……先生もどうか、ご自愛を」
指導してもらいたいのは嘘ではない。もう少し、いやもっと優しくしてくれ、とは切に願うが、彼の教育の成果は目に見えて出ている。だから彼にはこれからも自分の師匠であってもらいたい。だからずっと無事でいてもらいたい。
仏頂面の交錯はまだ続いていた。沈黙が落ちたため、傍から見れば敵対しているようにも見えるかもしれない。
「……は。君に言われるようではな」
クレンはわずかに口角を上げた。普通の人間ではその表情の機微に気づくことは難しいだろう。常に一緒にいるセアだからこそわかる、微々たる変化だ。
だがそれで充分だった。セアは鏡写しのように口角を上げ、席を立つ。腹筋の動きに合わせて脇腹が重く痛む。
「書簡を解析させてください」
手渡された小さな紙、米粒のような小さな文字を拾い、暗号を解読する。時間はそう長くかからなかった。
「明日の晩には使いをよこすそうです。ファインダーだけでなく、スレイヤーや本部事務官も。これで安心ですね」
「安心かどうかはまだわからないが、状況は打開できるだろうな」
薬は入手した。明日には増援もくる。何も困ったことはない。自分たちの任務はこれでやっと終わりだ。ようやく自分の家に帰り、ひよこのぬいぐるみをもふもふし、毛布に丸まって眠ることができる。
それが希望的観測に過ぎないと気づいたのは、翌朝のことだった。




