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尊き麗人は笑わない  作者: 宮
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反抗の色は心配の色



ACT 4



「……熱、大丈夫ですか」

 ベッドに横たわるクレンの頬は赤い。

「問題ない、とは言えないな。とんだ失態だ」

「そんなことないですよ。あれは……」

 あれは、クレンが自分を庇ったから。

 魔龍の攻撃に反応し氷礫を作れるだけの余裕があったなら、防ぐなり避けるなりなんらかの防御策を立てられたはずだ。セアがいたがために彼は余計な負傷をした。そしてそれが命取りになるとも知れない。

「すみません。自分のせいです」

「寝言は寝て言え」

 かぶせるように言われる。厳しい口調は高熱に浮かされても変わらない。

「ひよこの君が背負う責任は自分の命を守ること、それだけだ。余計なことは考えなくてよろしい」

「でも、私がもっとうまく立ち回れてたら……」

「セアがうまく動けないのは想定済みだ。あの罠を抜けてくる魔龍のほうが想定外だった……開発部め、何が地這の魔龍に効果的、だ」

 彼が愚痴を言いたいのも当然だ。開発部はあの接着トラップに自信を持っていた。実戦データこそないものの、理論的にはかなりの完成度などと宣っていた。それでこのざまである。現時点では開発部に落ち度があるのか、あの地這の魔龍が破格だったのかわからないが、もし前者だったら髪をちりちりに焦がしてやりたい。

「君は君がもらえる報酬のぶんだけ働いた。それでいい」

 反論したいが言葉にならない。心の中のもやもやが、わずかに表情に浮かんだ。

「不満か」

「え……あ、その……はい。不満です」

 クレンの目をしっかりと見て――そらしたくともそれを我慢して、自分の意思を告げる。

「私はひよこです。未熟者です。でも……先生に怪我をさせた責任の、一部分くらいは背負わせてください」

 そうでもしなければ、それさえできなければ、自分がここにいる意味なんてない。

「そうしないと私は成長できません。いつまでたっても、先生から独り立ちできません。それじゃあ、これからのスレイヤーとして駄目なんです」

 天斬クレンの唯一の弟子として、セアにはセアの面子が、プライドがある。クレンの負傷を魔龍の強さや彼自身の落ち度にだけに帰結させたくない。

「……今日はやけに食い下がるな」

 クレンは手のひらで汗を拭い、諦念の息をついた。

「満足に動けない私が何を言っても、いまの君には響かないだろう。不本意ではあるが……セア、君には責任を取ってもらおう」

「はい」

「回復するまでの身の回りの世話を頼む。本部との仲立ちも君に任せよう。私は休む……しっかりこなしてくれ」

「わかりました」

 クレンは荒く息を吐いた。やはり、目に見えて弱っている。

「……汗、お拭きします」

 先ほど額に乗せたタオルはすでにぬるくなっていた。冷たい水で絞り直したタオルを額に置き直し、さらに顔や首周りの汗を拭う。

「――スレイヤーさま。少しよろしいですか」

 軽いノックとともに、ホテルの従業員が声をかけてきた。タオルや着替えなど諸々頼んでおいたものの用意ができたのだろう。

「あ、はい。いま行きます。先生、少し行ってきますね」

「ああ」

 部屋を出たセアは、従業員が何も持っていないことに首を傾げた。セアとそう年の変わらなそうな若い女の従業員は「ちょっと下までお願いします」と、申し訳なさそうに言う。

 荷物が多すぎて一人では運べないのか。そう考えたセアは、特に文句を言うわけでなく彼女に従う。

 ロビーに出たセアを待っていたのは、ホテルの支配人だった。物腰穏やかなホテルマンではあるが、ほかのサキア住民同様魔龍の討伐を求める発言を繰り返すため、セアは少し辟易していた。

「スレイヤー・セアさま。本日はお疲れさまでした。スレイヤー・クレンさまの体調はいかがでしょうか?」

「あまり思わしくないです。なので明日には本部に帰還しようかと。マーキングの確認は入れ替わりでファインダー部隊がくる予定ですので……」

「もし件の魔龍が暴れ出したら、その方々が倒してくださるのですね?」

「や、いえ……その人たちはスレイヤーではないので。マーキングがしっかりなされているかどうか確認し、デコイを回収する程度です」

「では、魔龍が暴れたら誰が対処してくれるのです?」

「対処って……それは別件扱いになりますので」

 またこのパターンだ。こういう話になると彼らはしつこい。

「それより頼んでいたタオルや着替えは?」

「用意済みです、ご安心ください。そのまえにセアさま、別件扱い、とはどういうことでしょうか?」

「言葉通りです。マーキング任務と討伐任務は別物ですので。新規受注という形での対応になります。詳細は本部のほうに聞いてください」

「あなた方のマーキングがうまくいかなかったばかりに魔龍を怒らせ、結果この町が危険に晒されたとしても? それでもあなた方は、別件だと言うのですか」

「言います。そういう規約です」

 規約に同意して契約を結んだのはこの町のほうだ。それ以上を求めるなど論外である。

 しかし感情的になっている人たちに、論理的な反論は通用しない。セアがばっさり切り捨てると同時――おそらくは最初から仕組んであったのだろう――ロビーにいた従業員はおろか、外にいた住民までもがロビーに侵入し、セアに詰め寄ってきた。これにはさすがのセアもたじろがざるを得ない。

「それってどういうことだ! あんたらに責任はないっていうのか!?」

「聞こえるか、この低く響く唸り声。遠く、あんたらに傷つけた魔龍が怒っている。そいつがこの町に来たら、サキアはもう終わりだ。あんたらはそんな中でも、自分だけ助かろうっていうんだろう!」

「ここまできたら討伐するのが最善だと、あんたらの固い頭じゃあわからないんだろうね! 何度も教えてあげてるのに、なんて理解力の低さだ!」

 セアにはもちろん、クレンに対しても侮蔑の言葉が並べられる。セアは反駁したい言葉を抑え、聞くに徹する。言い返すのは火に油を注ぐことだとわかっているからだ。しかしこの沈黙を肯定と受諾と取られても困る。セアは結局すべてを無視し、ホテルの支配人に向き合った。冷たい表情はいつもと同じだが、目つきが普段とは違う。

「電話を貸してください」

「討伐のことを本部にお願いしてくれるのですね?」

「……いえ。明日帰還する旨と、調査隊の派遣についての申請です。何度も言いますが、私たちは魔龍を討伐しない。それが契約だから。そして私の師匠が戦闘不能の状態であるから。……わかってください」

 支配人は電話を貸してくれなかった。この地は電波が悪く、さらにデコイの影響もあるため〝赤い木の実〟の通信機はほとんど役に立たない。そのため電話線を引いているホテルの電話が唯一確実な連絡方法なのだが、支配人はそれの貸し出しを拒んだ。

「師匠……スレイヤー・クレンは負傷中です。一刻も早く専門の治療を受けさせねばならないんです。その邪魔をしないでください」

「それは大変なことです。スレイヤー・クレンさまにはこちらで治療を提供いたしましょう。そのあいだにスレイヤー・セアさまが魔龍討伐に当たられれば何も問題はないと思われます。スレイヤー・クレンさまが快復すれば、より簡単に討伐できるでしょうし」

「魔龍の毒は一般の薬ではどうにもできない! 本部にある適切な薬がないと、先生の……スレイヤー・クレンの身が危ないのです! どうしてそれがわかってくれないんですか!」

「あなたがこちらの条件を飲まないのと同じ理由ですよ、スレイヤー・セアさま」

 声を荒げるという慣れないことをしてみたが状況は変わらず、埒が明かない。ここにいる奴らを全員爆風で吹き飛ばして、強引に押し通してしまいたい気分だ。しかしそんなことをすれば最後、サキアと〝赤い木の実〟の関係は絶望的になり、下手をすると第三者が倫理問題を旗に攻め入ってくるだろう。自分やクレンの身も危うくなる。

 とはいえこの状況のままではいられない。クレンはいまだ毒に苦しんでいるが、事後確認の部隊がくるのは早くても五日後だろう。こちらからの連絡がなく、報告も上がらない状況では、もっと遅くなるかもしれない。そして仮に彼らが毒の治療薬を持ってきてくれたとしても、それがあの地這の魔龍の毒に効くのかもわからない。本来ならばいまのクレンの状態をつぶさに伝え、適切な治療薬を持ってきてもらわねばならないのに、連絡手段がないのでは話にならないではないか。

 一般市民に命術を仕掛けるのはあらゆる面でご法度だ。しかしそんな倫理を無視してぶっ飛ばしたくなる。彼らは一体何様のつもりだ。こんな数の暴力を仕掛けられて、それでいてこちらはライフラインを彼らに委ねざるを得ない現状に、セアは激しく苛立った。どんな魔龍よりも脆弱な民衆が、ここまで自分たちを手こずらせるとは。爆破の光球一つ浮かべるだけで、彼らなど簡単に黙らせることができるというのに。

 セアは小さく舌打ちをして、怒気を示した顔を元の鉄仮面に戻した。なんの感情も見つけられない顔で、ただし目つきだけは先と変わらぬままで、抑揚なく言葉を紡ぐ。

「……話は、明日にしましょう。私も疲れているので、今日はまともな話し合いができる自信がない」

「そうでしたか、いや、そうでしょう。タオルなどはそこの者に用意させましたから、持って行ってくださいませ。明日の朝食後、お話は改めて」

 慇懃無礼に支配人が言う。セアは混沌とした目で彼を睨んだ。燃えるようなその双眸のきらめきは、魔龍と対峙しているときのそれと似ていた。

「こちらに……ご希望の品はそろえておきました。もしほかに必要なものがあったら仰ってくださいませ……」

 先ほどセアを階下におびき寄せた従業員がか細い声で促す。彼女自身は、支配人を初めここにいる者たちほど過激派ではないのだろう。あるいはこんなことに巻き込まれたセアを気の毒に思っているのかもしれない。顔は伏せがちでけしてセアとは目を合わせようとせず、自信がなさげに振る舞うのが印象的だった。

 部屋に戻るとき、廊下にはピリピリとした沈黙が満ちていた。耐えられなくなったのか、従業員の少女がか細い声で尋ねる。

「スレイヤー・クレンさまのご容態は……」

「思わしくない。さっきも言いましたが、何か」

 セアの反応はきつい。苛立ちを彼女に向けるのが間違いだとわかってはいるが、それでもここの住民と話をするだけで忌々しいという思いもあった。冷たい対応をされることがいかに苦しいことかを知ったうえで、敢えてセアはそういう態度をとる。

「す、すみません……ではその、スレイヤー・セアさまにお怪我は……? あの……先ほどから右のおなかを庇っておられるようですが……」

 セアは驚いて足を止めた。瞬間、忘れかけていた――忘れようとしていた右腹部の痛みがじくじくと暴れ始めた。

 クレンがとっさに自分を庇ってぶつけた氷礫、あれは一方でセアに軽くない打撲を負わせていた。死に至る魔龍の一撃比べたらなんのことはないが、セアは右半身の広範囲に痣を作っている。痛み止めでごまかしていたが、腹部に負った傷だけはどうやっても疼きが消えなかった。

「……そんなに簡単に気づかれるほど、変な動きでしたか?」

「あ、いえ! 私の姉が、病気でおなかに痛みを感じていた時期があって……そのときの動きに似ていたものですから。さする手とか、そういう動きが少し気になりまして……」

「いい洞察眼をしている。打撲をしてるんですよ、右半身に」

 そう言って服をめくる。腕に腹部にと、見るだけで痛々しい痣がセアの皮膚を侵食していた。それを見た従業員はひゅっと息を飲み「大変じゃないですか!」と声を荒げた。

「痛み止めは持ってきています。だから問題なんて……」

「湿布! さきほどスレイヤー・クレンさまにお持ちしたぶんじゃ足りないじゃないですか! 私、追加で持ってきますから! 使ってください!」

 クレンの打撲用にすでに湿布はもらってある。しかしそれは彼のぶんだけだ。自分のぶんを頼まなかったのは、痛み止めでなんとかできると思っていたことと、クレンに痣の具合を知られたくなかったという二つの理由がある。

 従業員の少女は引かなかった。伏せがちで合わせようとしなかった目をこちらに向け、いまのままでは駄目だと訴える。その瞳には、階下にいるほかの住民のような濁りは感じられなかった。

「……ありがとう。それじゃあ、遠慮なく受け取ります。多めにもらえますか」

「わかりました。包帯やテープと一緒に一式ご用意いたします。ほかにお怪我は? 何か必要なものはありませんか?」

「今度こそ大丈夫ですよ。何かあったら、その都度言いますから」

 彼女ならば、多少は心を許せるかもしれない。セアは柄にもなく表情を緩め、息を吐く。周囲が煩わしい連中しかいないからこそ、彼女の善意が身に染みるのかもしれない。

 タオルや着替えなどを受け取り、部屋に戻る。クレンは先ほどとほとんど変わらぬ体勢でベッドに横たわっていた。しかし眠ってはいなかったようで、セアがドアを閉じると同時、「下で何かあったようだな」と声をかけてきた。

「はい……住民が暴動を起こしました」

 セアは起きたことを詳しく伝えた。住民は魔龍討伐をこちらが了承し、完遂するまでここから出す気はなさそうだと。連絡手段は得られず、下手をするとほかのライフラインすら盾に取られるかもしれないと。明日の朝話し合いの機会を設けることにしたが、双方納得いく結果に持ち込むのは難しいだろうと。

 クレンは額のタオルを手に取り、自分で自分の首筋の汗を拭った。それからやれやれとため息をついた。

「ひとまず、君が冷静さを欠いて彼らを爆破しなかったのはよしとしよう」

「こんなときに冗談なんて言わないでください……柄じゃないですよ」

 クレンはこういう冗談をごくたまに言うが、それはいま言うべきタイミングではない。セアには笑っていられるほどの余裕はないのだ。

「私が出て行っても火に油か……そもそもこの状態ではな」

 クレンとしても、これといった最善の打開策が思い浮かばないらしい。熱に浮かされた状態で良い案など生み出せるわけもないが。

 セアはクレンのタオルを取り換えながら悩み、珍しく眉根を寄せた。胸の中がもやもやして、何もできない自分がもどかしい。

 ――何もできない自分?

 そうだ、自分はいま、何もできない。クレンだって満足に動けない。だが、ここに派遣されてきたのは自分たち二人だけではない……――。

 セアは自分の制服のポケットをあさり、小さな笛を取り出した。それを吹きながら、出窓を開ける。下を覗いてみたが、こちらをしつこく監視している者はいないようだ。

「セア?」

「先生、バイタルを確認させてください。それと症状を詳しく教えてください」

 首をひねるクレンの隣で、セアはペンを取った。クレンの体温や脈拍などを測りながら、その体の状態を細かく記入していく。しかしそのペンが連ねる文字は、おおよそ普通の人に読める文字ではない。

「……鳥を使います。私に慣れているのを二羽ほど連れてきているので」

「ああ、そういえば……」

 クレンにはその程度の印象しかないだろう。何せあの二羽は彼に近づこうとしないから。よい動物的直観だが、こういうときには役に立ってもらわねばならない。こういうときに使うため、自分は彼らを育てているのだ。

「一羽を研究部に……いまの先生に必要な薬をくれるように送ります。もう一羽は本部に。サキアがこんな状況になっていることは本部も知らないでしょうから……現状を伝え、応援を要請します」

 万が一この二羽に何かが起きたとしても、情報が外に漏れるのはご法度だ。そのため鳥を使って情報を伝えるときは言語をすべて暗号化する。セアの書く暗号文はかろうじて文字に見える程度のもので、何を伝えたいかは専門の知識がないとわからない。

 窓から飛来した二羽の鳥の足にある金属の筒に、暗号の書かれた紙を詰める。そしてそれぞれに帰還する場所の匂いをかがせた。化物鳥は嗅覚に優れた鳥であり、その近縁とされるこの二羽の鳥も鋭敏な嗅覚を持つとされる。それを利用して、匂いをかぎわけて帰巣するよう訓練も受けていた。これほどの遠距離で試したことはないが、やるしかないだろう。

「成功するのか」

「わかりません。サラストルから放したときは成功したので、その近くまで行ければ脈ありですが。そもそもここからサラストル近くまで行けるかは……彼らしか知りません」

 一応ここにくるまでのルートを覚えさせるため、地点ごとに匂いを覚えさせる試みはしてあるが、正直なところそれが役に立っているかは怪しい。ここらに群生する植物には大差がないように思われるし、炭鉱の匂いでどうにもならない場所もあった。だから、彼らが無事に〝赤い木の実〟の総本山、アルビアスまでたどり着けるかは賭けに近いのだ。

「行っておいで。せめて薬だけでも……持って帰ってきて」

 セアが鳥を解き放つ。彼らは鳥目ではないので夜でも飛べる。長距離の高速飛行も可能なため、うまく行けばこの状況も早く打開できる。

 だが、ただ待つだけというのは心もとない。

「通信機はいま不通です。デコイの影響も考えられます。なので……明日、デコイを破壊してきます」

「危険だ。それは許可できない」

「でもこのままでいるほうが、先生にとっては危険じゃないですか」

「私は大丈夫だ。この程度の傷では死なん」

 死なずとも後遺症が残ったら〝赤い木の実〟の甚大な損害だ。そのぶん自分が死ぬほど……いや、死ぬまで働かされる未来が見える。そのためにはクレンには快癒が求められ、負傷するまえとなんら変わらぬ彼に戻ってもらわねばならないのだ。

(奴隷ないしはファンからのリンチか……はは)

 笑えない。まったくもって笑えない。

 そしてセア自身が見たくない。足を引きずったり片足を失くしたりして生きていくクレンなど。

「死なずとも、スレイヤーとして生きていけなくなったらどうするんですか。死ぬより苦しい思いをしたらどうするんですか」

「そんなこと、私にはあり得ない。生きている限り、どんな状態でも私はスレイヤーだ」

「話が噛み合ってません! そういうことが聞きたいんじゃなくて、私は先生のことを心配して……――」

「心配など、いらない」

 セアは黙るしかなかった。この人はそういう人だとわかっていたのに、面と向かって言われるとダメージが大きかった。

 彼はセアの心遣いなどどうでもよいと思っている。あるならばそれはそれ、ないならばそれはそれ。ただし重しとなるのならばすぐに切り捨てる。その程度にしか見ていない。わかっていた。理解していた。この人が、セアの心配など邪魔にしか思っていないことなどわかっていたのだ。

 それでも心配する自分は馬鹿みたいだ。保身のためとはいえ、抱く感情の種類はほかにもあるだろう。よりによって心配などと……彼が一瞥もしない気持ちを持つなんて、なんて愚かなのか。

 いいだろう。愚者には愚者なりの振る舞い方がある。彼が自分の心配を邪魔とするならば、こちらもそうしてやる。分不相応だ? そんなこと――知るか。

 セアはいつになく露骨な苛立ちを覚え、ぷいと顔を背けた。

「……なら、私も先生の心配など知りません。明日、デコイを破壊に行ってきます。このままここに閉じ込められると、私も困るので」

「心配ではなく指導教官からの指示だ。単独行動は許可できない」

「だったら止めてみてください。先生の氷で、私の足を凍らせてみてください。私の動きを封じて、強引に指示通りにさせてみてください」

 クレンの目が細められる。この顔なら実際にやりかねない。そう思ったセアは矢継ぎ早に続ける。

「でも氷はすべて爆破します。先生が何をしようが、すべて爆破して押し通ります。……先生の方が命術に長けているのは当たりまえですが、現時点で体力があるのは私です。命術がぶつかり合ったら、いまなら、いまだけなら、きっと負けません」

 命術は体力に左右される面も大きい技術だ。何にしてもそうだが、体力がなければ集中力を欠き、行動は精彩を欠く。細かい操作と大きなエネルギーが必要な命術を扱うのに、傷病者と健常者を比べては話にならない。たとえ元の技量で雲泥の差があったとしても、その差は大幅に縮められてしまう。

「……デコイを破壊したとして、通信機が使えるとは限らない」

「わかっています。通信できたとしても、すぐに状況が好転するわけでもないです。でも何かしないといけないって思うんです……私だって、スレイヤーなんですから」

「ひよこでもか」

「ひよこでも、です。スレイヤーに変わりはないです」

 セアは短い前髪をぎゅっと握った。眉上にざく切りにされた前髪は、クレンに師事してしばらく経ってから――同級生の数も元の三分の一を切ったころから――ずっとこの長さだ。クレンが、目にかかる髪は戦闘の邪魔になるからと伸ばすのをよしとしないのである。後ろ髪も同じく、セアの髪型は巷の男子よりもむしろさっぱりしていた。

「……今日の失態は、繰り返しません。倒すことは……撃退すら無理でしょうが、逃げることぐらいならばできると思います」

「私が希望的観測を許したことが一度でもあったか」

「ないです、が……何事にも初めてはあるものです」

 クレンはこれ見よがしにため息をついた。

「今日は本当に噛みつくな」

 自分でもそう思う。いままでここまでクレンにたてついたことはなかった。実績でも負けるし口でも負けるし何をやっても負けるし、そもそも対立する気が起きなかった。ここまで舌が回るのは、自分でも不思議でならない。

「……もう知らん。勝手にしろ」

 嘆息して、クレンはそれだけ言って黙った。セアは「はい」とだけ答えようと思ったが、癖で「すみません」と後づけした。

 ここにきて、半身の痛みを思い出した。鎮痛剤でも抑えきれない痛みだったのに、それをすっかり忘れていた。それほどまでに、自分は舌鋒を振るっていたのだ。

 ――らしくない。

 床に臥せているクレンも、彼に反駁するセアも、どちらもらしくない。

 彼と過ごす日々は総じて涙に濡れているというのに、セアはあの毎日に戻りたいと願った。こんな居心地の悪さを味わうくらいなら、毎日号泣して過ごすほうがましだ。


***


 ホテルを出るセアを、住民たちは白々しいほどの笑顔で見送った。セアはそれに仏頂面でのみ応対し、足早に去っていく。目指すは地這の魔龍が息をひそめる山だ。

 恐ろしさを思い出すだけで、内臓が押し上がってくるような不快感を覚える。よだれをまき散らして、筋肉を盛り上がらせて、その牙で食らいついてやろうと迫ってくるあの姿。あれに恐れを抱かぬ者などいないだろう。

 デコイは合計十五設置してあり、そのうち電波干渉やら磁力を発生させたりするものは五つだ。それさえ破壊すれば、通信機が役に立つようになるかもしれない。

(経費削減削減って……安物よこすからこうなるんだ)

 通信機も最新の高性能なものを使えば、こんな僻地でもデコイを動かしても通信できる。しかし、それにはいろいろとコストがかかるということで、今回は使用できなかった。たとえ使用できずとも、サキアの固定回線を使えば問題ないと判断されたのである。これは判断ミスと言えるのか、予期せぬ事態と言うべきなのか。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫」

 言葉にして繰り返す。気弱なセアが、自分で自分を守る言葉だった。

 山に入ってまず一つ目のデコイの機能を停止する。これは高周波の音も一緒に発生させるものだったが、その機能も共に止まった。こういった行動一つひとつが自分と魔龍との壁を取り除いているのだと思うと、指先が震えてくる。

「……なぜ?」

 震えの理由が、よくわからない。

 死など怖くない。痛みなど恐れない。そう習ってきた。実践してきた。身につけてきた。

 だがそれは虚構だったのか?

 違う、そんなわけがない。事実、自分は煉瓦塔の上で魔龍との心中を図ったではないか。あのとき、死を恐れることなかれという教えに、指先まで満たされながら海に落ちたではないか。

 地這の魔龍だから違うのか? そんなに違うのか? 

 拳を握ることで震えを隠し、次のデコイの機能を止める。ぼんと爆破できれば簡単だが、爆発の衝撃が魔龍を刺激してもまずい。コードをいちいち切ることでしか、デコイの停止を実行できない。だが切るとき切るとき、指先の震えがどうしても気になった。

「……っ」

 魔龍の唸り声が遠く聞こえた。距離はあるからすぐに動かねばならないわけではない。しかしこれ以上山にい続けることは危険だ。

 退くときは退く、無理に進むのは愚かなスレイヤーである――ギルザの講義で習った。

 クレンもまたそう言う。訓練のときには多少の――ほとんどは多くの――無理も敢行するのに、実際の任務では無理を許さない。優秀なスレイヤーとは、帰還できるスレイヤーのことなのだ。

 自分は帰還する。必ず、自宅に戻る。そのためにはここでホテルに戻らなければならない。そして、クレンに大事がないか確認する。彼の世話はホテルの従業員に任せ、今日は医者もくると言っていたが、彼らに深い信頼は寄せられない。自分が彼の傍にいなければ。

 踵を返すセアの耳に、再度唸り声が聞こえた。足早に、けれども確認を怠らずにセアは山から撤退する。頭の片隅で、住民たちにまた文句を言われるのだろうなと予想しながら。

 しかしこのときセアは気づいていなかった。細い指先の震えが、止まっていたことに。


***


「――先生。具合はいかがですか」

「変わらん」

「そうですか……」

 クレンは医者が治療にきたと言っていたが、やはり魔龍関連の傷病には縁遠いようで、通り一遍の治療と投薬がなされたとのことだった。少しでも改善すればいいが、とセアはクレンの顔を見る。彼はこちらを見てくれない。戻ってから、一度も。

 やはり怒っているのだろう。そしていつものように説教や小言を言うだけの体力もないのだろう。普段彼の目に見つめられることを恐れているセアだったが、一瞥もされないとなればそれはそれで嫌だった。

 ――嫌? 

 洗面所でタオルを絞りながら、セアは鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。鏡には一見少年とも見紛う短髪無表情の女が、紅蓮の双眸を大きく見開いている。

短くざんばらで男みたいな髪形。クレンになかば強制された、彼と似通った髪形。髪の長さにまでケチをつけてくる彼を、当時の自分は疎ましく思った。いまでさえ、事務の可愛らしい女の子たちの多様なヘアスタイルを見るにつけて、そうはなれない自分に、そうはさせないクレンに不満を覚えている。

クレンがこちらを見るときは、何か負担になる指示を出してくるか、説教および小言か、といったところ。だから自分は彼に見つめられることが苦手だった。高い位置から湖底を思わせる冷たく澄んだ瞳で見下ろされることは、セアにとって凶兆に等しかった。

そんな視線が、あちら側から逸らされているのだ。むしろ喜ばしいことと考えてもよいのに、セアが感じたのは「嫌だ」というものだった。

(先生がこっちを見てくれない……なんでそれが、嫌なんだろう。見てくれなければ、姿勢や格好に文句をつけられずに済むのに)

 わからないままクレンの額にタオルを乗せる。彼は目を伏せており、やはり視線は交じり合わない。

自分とは真逆の色をしたクレンの双眸そのものは嫌いじゃなかった。純粋に綺麗だと思っている。眺めるぶんには、どんな宝石にも負けない魅力を持つだろう。

それが見られないことが寂しい? ――いや、そんな理由では弱い。

「デコイ、三つだけ止めてきました。あとの二つは明日にでも……現段階では、まだ通信機に反応はありません」

「そうか」

 彼はもう行くなとは言わない。昨日のやり取りで無駄だとわかったのだろう。同時にこんなセアをもう見放したのかもしれない。このところのセアは、分不相応に勝手な判断で動いてばかりだから。

(ああ……そういうことか)

 昨日のことも考えてみれば、この気持ちにも理由がつけられる。

 どうやら自分は、彼から「どうでもよい存在」に思われるのが、嫌なようだ。

 心配する声もいらない存在。一瞥にすら値しない存在。そういったクレンにとってなんの価値もない存在に堕すことが――あの涙の連続の鬼の指導よりも嫌なのだ。

 これは、自分がクレンにとって、ある程度特別な存在であるという自負が生む気持ちなのだろうか。あるいはあれほど酷な鬼の指導を受け続けてきたのだから、せめて特別な存在でありたい――そうでなければ話にならない――という代償を求める気持ちかもしれない。いずれにしても、そこらの石や草、彼の指導についていけなかった者たちなどと同じ、

「そこにあるのは構わないが、だからどうした」というような存在にはなりたくない。

 この「どうでもよい」という評価は、もしかすると自分の恐怖感にすら影響を及ぼしているのかもしれない。煉瓦塔の上にて相打ち覚悟で光球を炸裂させたときは、恐怖をまるで感じなかった。それなのに、地這の魔龍に食いつかれそうになったとき、そしてそれを思い出すときには怖くなる。それは自分が死ぬという事実ではなく、意味もなく犬死することに対して恐れを抱いているからとも考えられる。

「どうでもよい存在」「意味のない存在」――これほど嫌な評価があるだろうか。セアはそう考えてつばを飲み込む。

「……先生。水、いかがですか」

「いまはいらない」

 会話が続かない。胸の中にもやもやとした不安が満ちる。

「先生……その、すみません」

 ベッドの縁に腰をかけ、静かに謝罪する。クレンが「謝るくらいなら最初からするな」と返すまで、数秒の間があった。

「これからの行動をやめる気は……ないんですけども、それでも、謝りたくて言いました。不出来な教え子で、本当にすみません」

「は……ただ不出来ならばこうやって下手に動きはしない。君みたいなのは、無謀というんだ」

 皮肉たっぷりに言われて、セアは再度「すみません」とつぶやいた。

「それみたことかと叱られるのを承知で言いますけど……今日は、すごく怖かったんです。一人で、魔龍のいる山に行くことが。指が震えました。でもそれは……魔龍が恐いからとか、先生に叱られるからとか、そういう理由だけじゃないと思うんです」

 どうでもよい存在と見なされるから――それも理由の大きな部分を占める。けれどそれだけではないことに、セアは気づいていた。

「戻ってきたら先生が……先生の容体が悪化してるんじゃないかって。それどころか……死にそうになってるんじゃないかって……それが、そういうことが……」

「――セア」

 揺れる声にクレンも気づいたのだろう。セアだってもちろん気づいている。ただ落涙だけ堪えていることは評価してもらいたい。

 いまになって思い出す。山から戻るとき、それまで止まらなかった指先の震えが止まった。それはこれからクレンの傍に戻れると思ったからだ。無事であろうとそうでなかろうと、クレンの傍にいたい。クレンの世話をして、できるだけ快方に持っていきたい。だから……。

「泣いていません」

「……そういうことが訊きたいのではない。君に心配される謂れはないと、何度言えばわかる?」

「おそらく……わかってもできないんだと思います。私が先生を心配するのは無駄で、先生は全然望んでいないって、頭では理解してるんです。でも……それでも心配してしまうんです。勝手に」

 セアが泣いているかどうかなど彼にとっては「どうでもよい」。セアが理解の範疇を超えて心配してしまうのも「どうでもよい」。クレンとはそういう男だ。だから評議長らが望んでいる結果などけして訪れやしない。

 その「どうでもよい」がこんなにも嫌なのに、なぜなのか。なぜクレンのことがこんなにも気になるのか。好きとは違う、この気持ちはなんだというのか。

「先生……早く元気になってください。怒鳴らない先生なんて、らしくないです」

「怒鳴ってほしいのか、奇特な奴だ」

「い、いえ。そんなことはまったくもってないですけど。こんなに弱々しく小言を言う先生だと……私が、こうやって刃向かってしまうので。手綱をちゃんと握ってもらうためにも……早く元気になってください」

 汗でしっとりしたクレンの手に触れ、きゅっと握る。表面は冷たいが芯は熱い。この熱が早く去ればいいのにと願いを込めて、指先に力を入れる。先生の手は少し冷たいくらいでちょうどよい。

 ここにきて視線に気づいた。クレンはいつもより二重の幅が広い両目で、こちらを見ていた。そのせいかいつもよりも雰囲気が違う。いつものように怖くない。

「……本当にその通りだ。私がこうなってから、君は本当によく反抗する。文句も多い。どうせなら普段からそれくらい覇気があればいいのだがな……」

「覇気……ないですか」

「ないな。常におどおどして目が死んでいる」

 その意見は正しい。自覚はある。しかしクレンも気取ってはいたのか。気づいたうえであえてあの対応だったわけか。空恐ろしい。

「……早く回復できなくて悪いな」

「ぅえ」

「なんだその音は」

「や……先生がそんな……こんなことで謝るだなんて、それこそ……らしくない、です」

 つぶれた蛙のような声がセアの驚きを物語る。クレンは基本的に正論を述べるし状況に即した最善の行動を取る。だから彼には言動の誤りなんてものが理論的に少なく、結果謝罪などはほとんどない。少なくともセアは「悪いな」などと謝られた最近の記憶を蘇らせることができなかった。

「らしくない……か。本当に、そうだな」

 そう静かに言ったクレンの表情は穏やかで、セアは少しだけ胸を撫で下ろした。


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