死の匂いと、怪我と、反省と
ACT 3
アラクフェスには魔狩を掲げる組織が二つある。一つは〝赤い木の実〟、一つは国軍の魔物討伐軍だ。そして両者の関係はあまり芳しいものではない。
当初〝赤い木の実〟は軍では守り切れない者たちを守るために立ち上げられた、小規模の組織だった。それが今日では各地に拠点を構え、国内外に名を知られた巨大組織となっている。それが軍にとっては面白くないのだった。
このご時世、近隣諸国との多少の摩擦はあれども、戦争に発展するほどの衝突などはまず見られない。そうなるまえに大陸連合や第三者となる国々が介入し、戦火の火種は消し止められる。アラクフェス軍は現にここ百年ほど、諸外国を相手取り大規模な武力衝突を起こしたことがなかった。
一方で目立つのは魔物の被害である。大陸連合全体で見ても魔物の被害は増加傾向にあり、各国は日々その対応に追われている。言ってしまえば、人間同士で殺し合うよりもまず魔物をどうにかしないといけない世の中なのだ。
そんな中で、魔物を討伐できる力を有す組織は大きな権力を持つ。〝赤い木の実〟はその最たる例だろう。いまや国軍をも圧倒する魔狩の力を持った〝赤い木の実〟は、民衆の支持を集めつつその権力を拡大している。上層部が「人手不足だ」「予算が足りない」と言うのは、事業の拡大に資源拡充が追いついていないがゆえのものなのだ。
しかしそうなると、相対的に軍の権威は弱められる。威信は揺らぎ、その力で統べられない地も増えてくる。それは軍にとって――軍を統べる国にとって面白くないことであり、看過できない事案であった。
そうして勃発したのが〝赤い木の実〟とアラクフェス軍による対立である。各地に散りばめた拠点を中心に、対魔物問題に関する人民からの支持を得る権利の奪い合い。それはときに、陣取り合戦と揶揄されている。
セアはと言えば、生まれ育った地が〝赤い木の実〟管轄下であったがゆえに、〝赤い木の実〟陣営についた。命術が魔狩に有用だと気づき、軍人になるかスレイヤーになるかと二択を挙げたとき、単純に親しみがあったスレイヤーを選んだに過ぎない。また、軍人というお堅い職業よりも、スレイヤーというどこか華々しい存在に魅力を感じていたところもあるだろう。
そう、自分が将来の身の振り方を考え始めたころのことだ……天斬クレンという男が次々に武勲を立て、注目されるようになったのは。いまより五年ほどまえの話になるか。
あのときはまだ、その男が自分の師となり上司となることなんて考えもしていなかった。彼が勲章を授与されるニュースを見ながら、綺麗な人だと思うのがせいぜいだった。女友達が彼のブロマイドを集め始め、何枚かつき合いで買ったりもらったり……いずれにせよ、それだけで終わっていた。
その後、〝赤い木の実〟の養成所に入ることを決め、教官の希望届を提出するときになって、天斬クレンの像がいきなり近くなった。クレンに憧れその下で学びたいという人たちが多い一方で、彼の指導はとても厳しいのだという噂も流れていた。
スレイヤーの訓練が厳しいのは当たりまえだが、わざわざきつい師を選ぶこともないだろう。元々が貧しい家の出、奨学金を受けて養成所に通うのなら、心地よい緊張感の中で有意義に――できることなら楽しく、健やかに、穏やかに時間を過ごしたい。そう思っていた。……思えば、その最初の思いに素直に従っておけばよかった。
命術の素質を大きく評価され、セアはその年の特待生の枠を得ることができた。その奨学金授与式のとき、評議長の名守クトラから声をかけられたのが運の尽きだった。
命術師として、いま最も優れているのは天斬クレンだ。せっかく命術に長けているのなら、その素質を生かすべく、彼の下で学ぶことを勧める――と。
クトラの言は間違ってはいなかった。実際、命術師としてクレンは天才にほかならない。剣でも銃でもなく命術を主な武器として戦っていくなら、彼に教えを乞うことは正しい選択である。しかし正しいことが幸せかといえば、そうではない。
「ぼーっとするな。行くぞ」
「はい」
クレンに促され、セアは荷物を背負い直した。町から山に向かい、潜伏する魔龍を見つけるためである。
視線を上げれば、手なずけている鳥が二羽旋回していた。開発部からは十羽渡されたが、そのうちの五羽はすでに亡い。残っている五羽のすべてが優秀なわけではないが、遠征につれてくるこの二羽は頭がよかった。
ちなみにその知性ゆえか、彼らはクレンをあからさまに避けている。普段は呼べば飛んでくるのだが、隣にクレンがいるときは何をやっても上空から下りてきてくれない。動物ながらいい判断だ、と思う。
(……おまえらはいいなあ、簡単に逃げられて)
ホテルから山、山からホテル。セアはクレンの少し後ろを歩きながら何度も往復した。山に設営された観測所や山小屋を転々としつつ、魔龍の痕跡をたどっている。
昨日はまだ新しい糞を発見し、その周囲に魔龍の通った跡を確認した。幸いなことにそれらは人里から離れており、サキアへの危険は薄いと判断することができた。
安心する一方で、緊張の糸は張り詰めるばかりだ。セアたちと魔龍の距離は近まりつつあり、今日にも接触するかもしれない。たとえようのない恐怖と不安がずっしりと心にのしかかる。
「スレイヤーさんスレイヤーさん」
ホテルから数百メートル歩いたところで声をかけられた。サキアに住む初老の女性だった。
「今日も大変だねえ。本当にありがとう、ありがとう」
頭を下げて、女性は礼を言う。
「獰猛な魔龍がこの近くにいるって知ってから怖くて眠れんで。早く倒してくれると、町のみんな大助かりだよ」
「あ。いえ……」
声にだけ困惑をにじませて、セアは女性の言葉を訂正した。
「私たちは討伐ではなく、マーキングに……つまり観察にきたわけで。倒す、というのは今回行わないわけなんですが……」
そう言うと、女性の目の色が変わった。ちょうど通りがかった人もまた、セアの言を聞いて振り返る。
「倒さない? なんで!」
「いや……本部の決定なので、私は理由まで……」
「魔龍がいるってわかってるんだろう! だったら呑気に観察なんてしないで早く倒せばいいじゃないのさ。なんでしないんだ、そっちのほうが無駄じゃないのかい!」
「なんだいあんたたち、魔龍を倒しにきたわけじゃないのか?」
「観察なんて言って、もし魔龍を怒らせたらどうする? 俺たちはどうなる!」
わらわらと人が集まってくる。その中の何人かに声を荒げられて、セアはびくりとした。反論しようにもうまいことが言えず、狼狽しかできない。
セアはただの駒だ。あそこに行ってあれをこうしろ、ああしろ。そう言われたら従い、それに応じた報酬を受ける。その任務にどんな背景があるかまでは考える必要がない。それが新米スレイヤーの身分である。
だがそれを言ったところで、町の人は理解しないだろう。それが予想できるからこそ、反論が目に見えているからこそ、セアはなおのこと喉を鳴らせない。
「そっちの兄ちゃんは〝赤い木の実〟のエリートさんなんだろう。だったら魔龍の一体くらい、すぐ倒せるもんじゃないのか!」
やめて、その人にまで火種を飛ばさないで……と思うも虚しく、火を投ぜられたクレンは、至極面倒くさそうに振り向いた。その瞬間、セアは亀のように首をすくめる。
「……なぜ倒さないか。理由はいろいろありますが」
クレンはため息交じりにセアの腕を取った。
「その一つとして依頼金があります。我々〝赤い木の実〟は、サキアから『マーキング任務』ぶんの依頼金しか受けていない。別途かかる討伐費用を、この町は出さなかった」
先を急ぐ、というように、クレンは先ほどよりも足早に歩きだす。つかまれた腕が、少し痛い。
「魔龍を倒してほしければそれ相応の対価を。できないならば騒ぐな。私たちは慈善事業をしているのではないのです」
クレンが突きつけたのは正論だった。無論、かといって町民が納得するわけではない。反論は収まることなく響いたが、彼はあっさりとそれを無視した。
クレンの早歩きはセアにとっての駆け足だ。傍から見たら引きずられているようにも見える。しかしこうやって強引に引っ張ってもらわねば、セアはあの町民たちから逃げられなかっただろう。
「いちいち相手をするな。時間の無駄だ」
「す、すみません」
「……おそらく、あれは故意に起こした騒ぎだ」
ぽつり、とクレンが言う。いらだった声音はそのままに、ただしできるだけ音量を控えた声で。
「サキアは〝赤い木の実〟陣営だが、この周辺は軍陣営の町が多い。魔龍が出たというあの山も、三つの町が共有する土地で……残り二つは軍陣営の町だ」
「あ、ええと……ガドバインとイーディア、ですか」
「ああ。おそらくあちら側も魔龍のことは観測している。サキアに近いところで行動しているとはいえ、山から各町まで.三十キロと離れていないのだから」
ほぼほぼ普段の淡々とした口調に戻ったようだが、それでも言葉の端々には冷たい嫌悪感がにじんでいる。
「ただ、あちら側は動こうとしない。なぜだと思う?」
「はい。え……と。魔龍の痕跡はサキア側に多いので、わざわざ戦力や予算を割きたくないと考えている、とか……?」
「それもあるだろう。自分たちの陣営に被害が及ぶぎりぎりまで、あちら側は静観を貫く気だ。しかし予算や戦力の節約のためだけに、挙兵を控えているわけではない」
セアの苦手な方向の話だ。軍と〝赤い木の実〟の陣取り合戦は、いろいろな事情が絡んで複雑化している。セアはスレイヤーという駒に徹することで、こういう面倒な話をできるだけ避けてきた。
「サキアが追い詰められれば、自治体は魔龍の討伐依頼を出すだろう。だが、どこに?」
「〝赤い木の実〟じゃないんですか?」
「順当に考えればな。しかし〝赤い木の実〟は軍よりも手続きが簡単で依頼後の動きが早いぶん、費用が高い。ただでさえ財政的に余裕のない自治体が、おいそれと支払えるものではない」
費用の問題は〝赤い木の実〟と軍の対立でよく引き合いに出される項目だ。アラクフェス政府が元締めとして存在する軍は、費用の一部を税金から補助している。しかし〝赤い木の実〟は基本的にそういった補助はないため、依頼者の費用負担が重いのだ。
無論、税金の補助があることがすべてにおいて功を奏すわけではない。国の予算を使い、国の軍を動かすためには、それ相応の時間と手間がかかる。魔龍が出ました退治してください――そう申請してから実際に討伐が終了するまで、早くとも見積もっても二か月はかかるのだ。緊急要請制度というものがあって、それが適応される場合には即座に挙兵されるが、そうそうその制度は適応されない。
一方で〝赤い木の実〟は申請を受理してから、早くて一週間、遅くとも二十日前後で討伐隊が派遣される。軍に比べると少数で討伐隊を編成するため、周囲の環境に与える影響もわりかし少ない。
また、軍の拠点が置かれればそれなりに、良くも悪くも町が賑わうが、〝赤い木の実〟の拠点はそこまで地域の発展に貢献しない。一方、軍の拠点のある自治体は拠点のない自治体に比べ高額な「魔狩対策税」を取られる。一回の費用は高くつくが、拠点の維持費的には〝赤い木の実〟のほうが割安だ。
とはいえ両者とも一長一短、どちらがより優れた組織かは簡単に断言できるわけではない。軍の遅い動きに失望して〝赤い木の実〟側についたり、〝赤い木の実〟に報酬を払えなくなって軍側についたり、各自治体や市町村の動きも様々である。
「ガドバインとイーディア、その二つと連名で依頼を出すならまだしも……サキアは単体で討伐費用を捻出できない。軍はそこにつけ込む。アラクフェス軍なら比較的低コストで魔龍討伐が行えるから、こちら陣営につけ……とな。ここでサキアが寝返らず〝赤い木の実〟に討伐依頼を出したとしても、財政的に困窮すれば必ず落ちる。あるいはそのほうがあちらには嬉しいのかもしれない。挙兵の費用を削減した上にサキアを手中に収め、このあたり一帯を制すことができるのだから」
「あ……」
セアもようやく事態の構造を飲み込み始めた。〝赤い木の実〟、アラクフェス軍、サキアの三つが、それぞれの思惑を抱えて、より多くの利を得ようと画策しているこの状況を。
「……サキアも、それが狙いなんですか。助けてくれないと軍に寝返るって……〝赤い木の実〟がここの拠点を失うのが大きな損失だって、それをわかったうえで」
「上はそう見てるし、私も同意見だ。先の騒動も、半分は意図的だろう。サキアは安い費用で討伐まで完遂してもらいたいがため民も動員し、〝赤い木の実〟に強気な姿勢を取っている。嫌なら宗旨替えするぞと……それくらいの脅しの意味はあるんだろう」
クレンは言葉を吐き捨てる。対価以上の働きを要求するサキアと、漁夫の利を狙うアラクフェス軍、そして拠点を維持したい〝赤い木の実〟――その三者すべてに、彼は苛立っているようだった。
「〝赤い木の実〟としては、依頼金を積まないサキアに辟易する一方で、この拠点を手放しここら一帯を軍一色に染められるのも痛い、といったところか」
まったく、いい迷惑だ――とクレンは続ける。セアも同意見だった。
「勢力争いは上でやれ。金のやり取りは私たちの仕事ではない。組織の政治にかかずらって、もしものことがあったらどうするつもりだ……スレイヤーは目のまえの魔龍に集中しなければ、一瞬で命を落としてしまうというのに」
それはおそらく、セアに対する注意喚起でもあるのだろう。先の騒動にびくついて集中力を欠けば、魔龍はあっという間にこの身を裂く。
「……先生は、いつも言いますものね」
セアは日々のクレンの顔を思い出しながらつぶやく。
「生きて帰り、相応の対価を受け取ってこそのスレイヤーだ、と」
慈善事業ではない。スレイヤーは命を懸けて魔龍に挑む。ならば必ず生きて帰るのが義務であるし、報酬の金で心身を癒す権利がある――と。
「当然の心得だ」
「承知しています。私も……それは心に留めています」
「よろしい」
クレンがようやく手を離した。指が食い込んでいた腕が少し熱くなって、すぐに冷える。
セアは両手で自らの頬をぱちんと叩いた。気を引き締めよう、そうしなければ死ぬのだと、自身に戒めるように。
***
レンズ越しでも震え上がりそうになるほど、地這の魔龍の形相は恐ろしかった。
大きく開いた口は、一噛みでセアの体の半分は持っていくだろう。第五、第六の脚には棘が並び、翼膜は固く鋭く発達している。あの巨体が木々をなぎ倒して迫ってきたら、きっと逃げようがない。かすっただけでもダメージが大き過ぎる。
望遠鏡に目を当てて、セアは高台から地這の魔龍を観察していた。数キロ先の地点に、餌を探してうろつく巨体がある。
魔龍の生態についてはいまだ謎が多く、彼らがどうやって獲物を見つけているのかはよくわかっていない。視力に優れているとする説もあれば、嗅覚に長けるとする説もあり、さらには獲物の体温を感知して襲いかかるとする説もある。魔龍の分類が進めば定義もはっきりしてくるだろうが、現時点では「種類によって異なる」としか言えなかった。
そしてこの地這の魔龍がどのような知覚のメカニズムを持っているのかは、セアはもちろんクレンにもわからない。匂いを消し、動きを殺し、できるだけ姿を隠してはいるが、そもそもそういった行為が効果的なのかも不明である。
ただ仮にこの隠密が功を奏していたとしても、マーキング弾を撃ち込めば確実にこちらの居場所がばれる。撃たれた魔龍がこちらに反撃してくる可能性は高く、セアたちはいかにうまく逃げるかを考えねばならない。不用意に町に逃げれば、そこの民まで巻き込んでしまう。
様々な退路のプランを用意してはいる。何度も何度もクレンとミーティングを開き、そのたびに三度は小言を言われ、涙を飲みつつ頭に叩き込んだ。
クレン曰く、セアは我を失くしてしまうことが最大最悪の問題点であるらしい。我を失くす理由は焦りであったり恐れであったり怒りであったりするとのことだが、いずれにしても、深刻な状況において冷静さを著しく欠いてしまうようだ。それはスレイヤーとして致命的な問題であり、早急に改めねば命にかかわると言われた。
そうは言われても、いついかなるときも冷静沈着を保つことなど、一朝一夕にできることではない。場数を踏み経験を踏んで慣れていくしかないだろう。クレンもギルザもそうやって成長してきたのだから。
セアはこの任務を通して成長せねばならない。高鳴る心音に振り回されず、状況を俯瞰できるようにならねばならない。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
「……ターゲット、動きを止めました。狙撃射程圏です」
地面の匂いを嗅ぐ動作を見せて、魔龍が足を止めた。
「よし。狙撃の準備を」
「はい」
使い捨てのマーキング用ライフルを構える。スコープを覗いて、照準を定める。
マーキング弾を撃ち込むのは、魔龍の臀部から腹部にかけてがベストとされる。要は鱗や甲殻が薄い部位で弾かれる可能性が低く、魔龍自身の牙や爪でどうこうできない部分を狙えということだ。知能の高い魔龍の中には、埋め込まれたマーキング装置を食いちぎって破壊する個体もいる。そういった可能性を排除するために、肩や前腕部などは避ける必要があると言われている。
「落ち着いて狙え。練習通りにやれば、問題ない」
「……はい」
射撃の成績は悪くなかった。爆発の命術師として、炸裂する光球を射出する経験があったからだろう。指導に当たったクレンも射撃専門の教官も、筋がよいと、ちゃんと訓練を積めば大成するだろう、と太鼓判を押してくれた。
彼らの目を信じ、自信を指に満たせばよい。
スコープ越しに魔龍を見つめる。大丈夫だ――と自分を落ち着かせて。
しかしここで予想外のことが起きる。
「――先生」
思わずクレンを呼ぶ。冷静さを欠き始めた、わずかに震えた声で。
「魔龍が……こっちを見ました」
一体何を気取ったというのか。魔龍は不意にこちらを向き、セアはその獰猛な目を直視してしまった。刹那、得体のしれない戦慄が体を貫き、関節が固まる。
クレンが指示を出すより早く、魔龍がこちらに足を向けた。いまのセアの技術では、こうなったらもう狙撃は難しい。魔龍が方向を変えるまでに撃てなかった時点で、あの目に怖じてしまった時点で、セアによるマーキングは失敗したのだ。
「退くぞ!」
肩を殴られ、硬直が解ける。弾かれたように腰を上げ、一散に後方に駆け出す。
「奴は高台を越えてくる! プランK!」
「はい!」
木々をなぎ倒し岩を砕き大地を蹴る音が聞こえる。耳を劈く咆哮が腹の底に響く。爪をスパイクのようにして崖の壁面に打ち込み、筋肉を隆々と盛り上がらせ、魔龍は簡単に距離を詰めてきた。死の匂いが背面から漂ってくる。
死に恐怖を覚えることなかれ――そういう教えは身に染みていたのに。その一方で別の教訓を忘れていた。魔龍の眼を直視してはいけないという、一般民でさえ知る教えを。
死ぬのが怖いのではない。喰われるのが恐いのではない。そうやって何度も心を矯正してきて、退避のさなかでさえ殉職の恐怖は感じないのに、セアの身体はただ一度きりの視線の交錯に停止してしまった。
(やってしまった……!)
経験や訓練の差にかかわらず、人はみな魔龍に絶対的な畏怖の念を抱いているという。我々とはまるで異なる進化をしてきた、禍々しく強大な力を持つ生物に対して。
魔龍の眼光は、恐怖を超越して身を貫くことがある――だから、安易に目を合わせるな。
クレンからもギルザからも等しくそう教わった。それなのに。
「っ……」
駄目だ。これも駄目だ。魔龍と交戦する際、後悔も反省も邪魔にしかならない。そういうものは生還してからするもの。いま持つべきは、必ず生き残るという強い意志である。
歯を食いしばり逃げる。クレンとは同じ方向に、しかしルートは別に。
冷たい風が頬に当たる。クレンが氷の礫を魔龍にぶつけているのだろう。退避のプランはいくつも用意しているが、そのほとんどにおいてクレンは囮役だった。彼が魔龍を引きつける間に、自分は十分に逃げる体勢を立て直さねばならない。
走り始めておよそ一分、脚も肺も悲鳴を上げている。だが足を停めたら死ぬ。転んでも死ぬ。
(あそこだ……!)
迫るのは三メートルほどの崖。その下には魔龍の動きを拘束する爆弾が設置されている。セアたちは崖下のくぼみに身を隠し、魔龍を罠にはめ、その隙に逃げおおせる……それがこのプランだった。
息を切らして崖に飛び込む。くるりと体を丸めて受け身を取り、そのままくぼみに滑り込んだ。一拍遅れて、ほぼ同時にクレンと魔龍の影が落ちてくる。追突されてもおかしくないような距離ではあったが、クレンはさすがの身のこなしで異形の巨躯をさばく。くぼみに彼の体が収まるのと同時に、魔龍が頭上を飛び越えていった。
そして地面を震わせるような爆音が響いた。
魔龍を殺せるようなものではない。炸裂するのは特殊な接着剤であり、それにより魔龍の動きを封じるのが主な作用だ。元は普通の飛翔する魔龍用に作られたもので、翼を固く重くし飛べなくするために用いられる。セアもそういった用途では何度か使ったことがあった。
今回設置しておいたのは、地這の魔龍用に改良したもの。驚異的な速力を生み出す三対の脚を絡めて、うまく走れなくさせよう、という魂胆だ。開発部は性能に自信を持っていたが、そもそも地這の魔龍を相手のすることが少ないので、実戦的なデータはほとんど得られていない。この任務ではそういった試験的な兵器がいくつも投入されている。
しかし一見するに、この兵器はある程度有用なように感じられた。
魔龍は腹と足に接着剤が巻きついて、先ほどの俊敏さを失っていた。自由を奪われたせいで魔龍は激しく怒り、暴れ、唸っている。
「ぼさっとするな」
息を切らさずクレンの指示が下りてくる。セアは息を切らして返事をし、マーキング弾を手に取った。
軽いパンッという音とともに、マーキングタグが内蔵された弾が撃ち出される。それは暴れる魔龍の後脚近くの腹部に突き刺さった。これでマーキング自体は完了である。
「ただちに退避してデコイを動かす。行くぞ」
罠から抜け出たあと、セアたちの退路をたどって町に降りてこられたら困る。それを未然に防ぐため、ここら一帯には大量のデコイが仕掛けてあった。それは魔龍の五感に働きかけ、追尾を困難にさせる。
「……?」
虫の知らせとはこのことか。
セアがわずかな違和感を覚えたその瞬間。
捕らえていたはずの魔龍が、大地を蹴ってこちらに飛びかかってきた。
「え――」
影が下りる。よだれが滴る。剥がれた接着剤や鱗が落ちてくる。
死が迫る。
「セア!」
クレンの動きは誰よりも何よりも早かった。
彼はセアの体に大きな氷の礫をぶつけた。冷たい痛みと同時に、セアはくぼみの外に押し出される。そしてそれはぎりぎり、魔龍の攻撃の射程圏外だった。
「せ……先生!」
クレンのとっさの機転により、セアは魔龍につぶされずに済んだ。しかしクレンはそうもいかなかった。
「くっ……」
さすがの反応ではある。クレンは氷礫の射出に伴う反動を利用し、直撃のコースから身を避けていた。けれどもそれはあくまで即死級のダメージを回避したに過ぎない。魔龍の左側の二本の脚は、確実にクレンを捉えていた。
セアの目には、魔龍の巨体の下に透明な亀の甲羅のようなものが映った。あれはクレンが氷で作り出した盾だろう。それがクレンの周囲を厚く覆い、魔龍の重さや爪の鋭利さを受け止めていた。けれどさすがに全身を覆う完璧な壁を作る時間はなかったようで、一部は砕け、ひびが入ってしまっていた。砕けた氷が白く積もる中に、じんわりと赤色がにじんでいく。
「先生!」
魔龍は氷の盾を、その咢で噛み砕こうとする。バリ、ガリ、と氷が砕かれ削られる音がする。
――クレンが、死ぬ?
セアはこの刹那に様々な思考を巡らせた。
クレンが死んだら、自分も死ぬだろう。
よしんば自分だけ生き残ったとしても、〝赤い木の実〟内で相当なバッシングを受けるだろう。
もちろん、一般市民からもひどく憎まれるだろう。
自分はスレイヤーを解任されるかもしれない。
あるいは危険区域に投げ込まれ、死ぬまで戦わされるかもしれない。
思考のほとんどが保身だった。セアは一刻を争うこの時点で、自分のことしか考えられなかった。
その中で帰結した答えが――「いやだ」というもの。
クレンが死ぬのは、嫌だ。困る。
利己的だ。理由は総じて利己的だ。それでもただクレンに死んでほしくない。
「やめ……てっ」
セアの周囲に光球が出現する。一つ、また一つと人魂のように浮かび上がる。
セアの命術に欠けるのは速さだ。動くものを捉えるには遅く、数をそろえるには遅く、続けて放つにも遅い。けれども威力は申し分ないものを誇る。
「先生を、放せ!」
光球を手の動きで操作する。腹に潜り込ませれば一番ダメージが見込めるが、それではクレンまで傷つけてしまう。かといって背面の攻撃は甲殻に阻まれるだろうし、爆風で地面に叩きつけたらこれまたクレンを巻き込んでしまう。
ならばこうしよう。先ほどクレンが自分を助けてくれたときのように。
横から、吹き飛ばせ。
「先生、東の盾を厚く!」
魔龍が振り向くが、遅い。すでにセアの光球はまぶしく輝きながら一点に集まっていた。セアの声を聴いたクレンも、すでに氷の盾を強化している。
激しい轟音と髪を焦がす熱風が感覚を支配した。
地這の魔龍の体が吹き飛ぶ。硬い翼膜と甲殻に阻まれ、重大なダメージまでは与えられなかったが、十分だった。あの窪地からクレンを逃がすことができればいい。クレンが立ち上がる、その隙を用意できるだけでいいのだ。
焦げ臭い煙の奥で、異形の巨体が肩から転がるのが見えた。
目標は達成できた――あとは彼がどうにかしてくれる。天才スレイヤーの、彼が。
爆発の熱が急激に冷える。焦げ臭さは風に流れて薄まっていくのに、煙による視界の悪さは一層ひどくなった。否、これは煙ではない。霧だ。
氷霧。氷を自在に扱うクレンが使う妙技である。
「セア!」
「はい!」
詳細な言葉はいらない。セアはクレンに続いて、即座にその場を離れた。
限界まで距離を稼いでから、デコイを動かす。開発部があれやこれやと策を詰め込んだデコイは、動くものから熱くなるもの、血の匂いや超音波を発するものまで多岐にわたる。魔龍がどんな手段でこちらを補足するかわからないなら、考えられる可能性をすべてつぶそうという乱暴な考えの基で作られた、開発部の力技の結晶だ。
まとわりついていた死の匂いが薄くなる。魔龍の気配が近くから消え、遠く咆哮が聞こえた。油断はならないものの、死地は脱したと言っていい。
その後、二人は計画通りにエリアから撤退した。任務自体はこれであらかた終了だ。
「先生……」
一定の速度で駆け抜けながら、尋ねる。
「傷は、大丈夫なんですか」
普段と変わらぬ速さで走るクレンはしかし、わずかに左足を庇っていた。
「大事ない……いまのところはな」
限定的な物言いがセアには引っかかった。あのとき、魔龍の爪は氷の盾を砕き、クレンの腿を傷つけていた。
一部の魔龍は爪に毒を持つ。毒の種類にも個体差があるため、血清は存在しない。
クレンはすぐに薬を服用していた。完璧な血清ではないが、魔龍の毒に比較的効果が望める解毒薬だ。魔龍との交戦により傷ついた場合は、できるだけ早くこの薬を飲むことがスレイヤーの慣習になっている。
とはいえそれも万能ではない。
駐屯するホテルについて武装を解除したあと、クレンは熱を出した。




