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尊き麗人は笑わない  作者: 宮
2/7

あの人と恋仲、冗談は諸経費だけにしてください



ACT 2



 やはりこうきたか、というのが正直な感想になるだろう。クレン期間後の一週間は、普段とは違う方向で散々なものだった。

 クレンの作った特別メニューは、確かに傷ついた身体を酷使するものではなかった。実施されたのは大半が命術の訓練。術の制御や持続時間の調整など、激しく動かない代わりに精神がごりごり削られるタイプのものだった。

 そのほか、持ち帰りの課題として、スレイヤーの心構えを説いた教本の書き写しや、対魔龍戦術論に関するレポートなどが課せられた。おかげでセアは、食事中だろうが入浴中だろうが、ずっと「スレイヤー」でいなければならなかった。ただの少女に戻れたのは睡眠に充てた数時間くらいだろう。

 この辺りでセアの心の耐久力は限界に達していた。

 それに加え、式典だのなんだのと、これまたストレスになるようなものも重なった。案の定、評議長たちは自分を広告塔にしたいらしく、やたらと取材などを振ってきた。やんわりと断ろうとするも、押しが強い彼らには勝てるはずがない。

 そもそも彼らは、養成所に入るまえのセアにクレンを薦めた過去がある。待ち受ける厳しさを伏せてよいところばかりを並べ立てられ、セアはほかの候補もろくに見ずに担当をクレンに決めた。いまの自分であったら間違いなくギルザを選ぶだろうが、それでも彼らは抽選落ちがどうたら言って、自分をクレンに押しつけたかもしれない。

 彼らはそういう類の人間だ。

 そして週末の夕刻、訓練でへとへとになったセアは彼らに呼び出された。すでに心身の耐久値はゼロ、早々に毛布に丸まりたいところにいい迷惑だった。

「――失礼します」

 疲弊も迷惑している感も見せない無表情で、セアは評議長室の扉を開けた。部屋の中は朱色の灯りがともされ、シックで落ち着いた雰囲気になっていた。

〝赤い木の実〟には、現在三人の評議長がいる。実質的な組織のトップだが、独裁とならないよう出自も思想も得意分野も違う三人が選出された。彼らは広く包括的な視点で、偏りなく平等で公正な判断をする――とされているが。

 セアにはどうも何か偏りがあるように思えてならなかった。

「こんばんは。身体はもう大丈夫なの?」

 評議長の中で唯一の女性、女らしくて魅惑的な硝子妓リーヤがそう尋ねる。

「はい。ご心配には及びません」

「それはよかった。式典のときはまだ頭の包帯が取れていなかったから、経過はどうなのかと思っていたんだよ」

 そう合わせたのはこの中で最も年長の秋映ヨウシュウ。

「そうそう、式典のときはご苦労だったね。病み上がりで大変だったところ参加してくれて、感謝しているよ」

 柔和な笑みでそう言ったのは、名守クトラ。セアが最も面倒だと思う人物だ。

 書面ではなく直接彼らから何かを通達されるときは、大抵が嫌なことや悪いこと、面倒なことだったりする。養成所を辞めないよう奨学金をちらつかせたり、スレイヤー採用後の就任先をクレンのところに強引に決めたり。特にクレン関係では迷惑なことばかりされてきた。

 それゆえに今回も、ほんのり警戒している。警戒しようがしまいが、その表情は変化なしなのだけれど。

「今回呼んだのは次の任務の話だ。全快していないところ悪いがね」

 ヨウシュウが資料を手渡す。それにぱらぱらと目を通しているあいだ、クトラとリーヤがああだこうだと話し始めた。経験的に、この流れはよろしくない。

「いま、〝赤い木の実〟は人員不足なのよ。養成所に人手を割かれた上に、このあいだの魔龍襲来で負傷者がたくさん出ちゃって。それでも魔物は待ってくれないから大変なの」

「君も負傷者だし、新人なのはわかっている。それでも動けるならば動いてほしいんだ」

「はい……まあ、それは構いませんが」

 すでに半分聞き流しているセア。それを気にした風もなく、彼らはなおも語り続ける。

「それにね、言っちゃうと予算も足りないの。施設の修繕・拡張費はかさんでるし、医療費も右肩上がり。この組織、いま火の車なのよね」

「かといって、福利厚生の質を下げたり安易に給与を減額したり、というのも避けたい。特に君たちスレイヤーは体を張って戦ってくれているわけだからね。そこで、任務にかかる諸々の経費を削減してみたんだけども、それも芳しいとは言えない」

「おまけにねえ、国が軍拡し始めてるし、ベリドのような武闘派スパイも幅効かせ始めてるし、立場的にもよろしくないんだこれが。人海戦術を取られたらうちの組織はどうしても不利なんだよねえ」

「はあ……」

 セアの反応が段々おざなりになっているのは、任務の内容ゆえだった。書類には、魔龍の調査任務でリーダーはクレン、と書かれている。わかっていたことではあるが、気が滅入る。

 と、ここでセアは資料に疑問な点を見つけた。気弱なセアではあるが、こと仕事の話では忌憚なく質問できる。もちろん、相手がクレン以外の場合に限るが。

「あの……ほかのメンバーは? 記載されているのは、自分とスレイヤー・クレンだけですが……」

「ああ。いないよ」

「はあ……と、え、待ってください、いないってどういうことですか」

「調達できなかったんだ。先にも言った通り、いまは多くのスレイヤーが負傷して出動不可の状態だ。かといって、遠方に派遣しているスレイヤーを呼び戻すには時間も金もたりない」

「だからって二人で任務だなんてそれこそ無茶な……」

「スレイヤー・クレンは了承してくれたよ。二人もあれば十分、と言ってくれた」

 絶句する。

(あの人何言ってくれてるの……人のこと甘いとか半人前未満とか言ってたくせに……)

 無表情が崩れ、眉がひそめられる。たった二人で任務など、苦行以外の何ものでもない。せめてほかに人がいれば、彼の視界から逃れられる時間も増えるのに。

 そもそも、先にクレンに任務の話を通し、承諾を得ている以上、自分に選択権も拒否権もないではないか。この呼び出しは単なる事後報告に過ぎない。とすると、ほかにも何か嫌なことがありそうな気がする。

 セアは資料を凝視し、内容を頭に叩き込んだ。未確認の魔龍が潜伏している地に赴き、発見してマーキング弾を撃ち込むのが今回の任務の目的である。そのほかにもその魔龍の特徴を調べ、データ化する仕事もあるようだ。データベース云々については、今週嫌というほどクレンに教え込まれたばかりだった。

 クレンとの二人任務ということ以外には、行き先が遠く、支援物資が少ないことくらいしか気になる点はない。しかし行き先が遠いのは仕方がないことで、物資の少なさは黙認できる程度だ。そこまで大きな不安、不満は見られない。だがそれこそがセアの不安を煽る。

「これで以上……ですか? ほかに連絡することがあったから、呼んだのではないですか?」

「おや。君も鋭くなったものだ」

 ヨウシュウが目を丸くする。確かに養成所時代のセアはいま以上に気弱で、こういう場では「はい」以外の言葉を口にできなかった。穿った見方を言葉にできるようになったのは、数少ないセアの成長と言える。

「リーヤ評議長。私からは上手く言えない。雄弁な君が説明し、彼女を納得させてやってくれ」

 嫌な言い方だった。じんわりと、不安が心に滲み、広がる。

「はいはい、わかったわ。……それでね、セア。さっきから何度も言ってるけど、いま組織はお金がないの。だからまず経費削減の一環として、任務中はスレイヤー・クレンと同室で頼むわ」

「……は? どういう意味ですか」

「そのままの意味よ。部屋を二つから一つに減らせば、そのぶん経費が浮く。ということで、今回は二人で一つの部屋に寝泊まりしてもらうことにしたの」

「したの、って……そんな勝手な。仮にも私は女なんですが。常識的に……少し問題があるのでは」

 怪訝な顔で訴える。彼らは時に突拍子もない提案をするが、こうくるとは思わなかった。

 男女で同室、ということもさることながら、「クレンと同室」というところが看過できない。それではあの男と四六時中一緒になってしまうではないか。夜に毛布に丸まってうじうじする時間が取れねば、それこそ自分は生きていけない。

「そうそう。君は女の子で、スレイヤー・クレンは男。そこが大事なんだよねえ」

「は?」

 にっこりと微笑むクトラは、まるで少年のようだった。悪戯好きで言うことを聞かない、実に扱いづらい少年の顔をしている。

「いやねえ。僕らは、君とクレンくんがくっつけばいいのになーと思ってて。だから任務中、君たちのあいだに男女の何かが起きたとしても、それはそれで僕らにとっては僥倖なんだ」

「……はぁぁぁぁっ!?」

 相手が目上だろうとなんだろうと関係ない。セアは資料をくしゃりとやって、「何馬鹿なこと考えてるんですか!」と叫んだ。しかしクトラとリーヤはにこにこと笑っていて、ヨウシュウでさえ苦笑するに留まっている。どうやらこれは三人の総意らしい。

「ああ……そういえば君も、そんな顔できるんだな」

「当たりまえでしょうヨウシュウ評議長!」

 おそらく自分は怒り顔を呈しているのだろう。無表情が崩壊することはあっても、このように何かの一つの感情に支配された顔になることは少ない。いまのセアは本当に驚き、心の底から怒っていた。

「クレンくんはもう二十八歳でしょう? そろそろ身を固めてもいいころじゃない?」

「ですが私はまだ十八です!」

「あら何言ってるの、十歳差ならまだまだいけるわよ。いいじゃない、彼、優良物件よ? あんな男前、そうそう出逢えるもんじゃないわ。収入もまったく問題なし。堅物なところを差し引いてもおつりがくると思うけど」

「そういうこと言ってるんじゃありません! 私と先生は部下と上司、弟子と師匠です! それ以外の何ものでもない!」

 そう言い返すと、リーヤはやれやれといった様子で肩をすくめた。やれやれと呆れたいのはこちらのほうだ。

「まあまあ、リーヤ。こういう意向になった理由を話さないと、セアだって混乱してしまうよ。ご覧、いつもは言葉少なで大人しい彼女が、あんなに怒っている」

 クトラが眉を上げて微笑む。その表情と口調は、まるでセアを馬鹿にしているかのようだった。どうせ、ほかの場所でもこれくらい元気に話せればいいのに、とか思っているのだろう。

 公正な判断のために主義思想に偏りなく選ばれたという三名の評議長。しかしヨウシュウはともかくとして、クトラとリーヤは同類に見える。人を食ったような態度や、どこかふざけたような言動。混乱する相手を見て楽しむ屈折した性格。そして何かにつけてセアで遊ぶ辺り、彼らは間違いなく同じ穴の狢である。

「セア。君は痛いくらい知っているだろう? スレイヤー・クレンの厳しさや硬さを。彼は実に優れたスレイヤーだが、いかんせん完璧過ぎる。自身の完成度を他者にも求めてしまうから、そこに軋轢が生じてしまうんだねえ」

 セアはゆっくり頷いた。クトラの言うことは事実で、セアはその事実を文字通り痛いほど知っている。

「言わずもがな、彼はこの組織の要だ。それなのにあの気質が災いして、ほかの部署やスレイヤーとの連携がいま一つ取れていない。どうしても周りが彼を避ける」

「それは……そうでしょうが」

「だが君は彼を避けない」

「必要に迫られてのことです」

「なら必要に迫られれば結婚もしてくれるかい?」

「……すみません話の趣旨がよくわからなくなりました」

 頭を抱える。どうもこのクトラは人を舐め腐っているようにしか思えない。かつてはとても優秀なエンジニアだったということだが、場所が変わるとその論理的思考さえ破綻してしまうのだろうか。

「結婚で生活の状況が変わると、人の性格も変わる。彼も少しは丸くなるかもしれない」

「ならないと思います。あの人は」

「やってみなければわからないよ。意外と子煩悩になるかも……ああ、その作戦もいいねえ、子供子供。子作り子作り」

「そ……んな無謀な賭けに人の人生を投じないでくださいっ……! 非常識です!」

 要領を得ない話が続く。指先でペンを弄んでいたリーヤが、ここでクトラの援護に入った。

「あのね、セア。このあいだの調査で、スレイヤーの結婚率がとても低いって結果が出たのよ。で、アラクフェス政府のほうから、〝赤い木の実〟は結婚もできないほどスレイヤーを酷使しているのか、って批判がきてね。実際問題、国からそういうのがきたら見過ごすわけにはいかないのよ」

 その話は組織の下層でもよく聞く話だった。スレイヤーは結婚とは縁遠い、と。

 魔物と戦う勇敢な男たちがモテないわけではない。彼らはむしろ、ほかの部署に勤める男たちよりも人気がある。しかし結婚相手として見られることは少ないのが実情だ。いまは高給取りでも、いつ先立たれるかわからないという不安。不規則かつ拘束時間が長い任務ばかりのため、家庭のための時間が取れないのではという不安。そういった不安要素が多いスレイヤーは、安定した家庭を持ちたいと願う女性からは敬遠されがちだった。

 また、スレイヤーはほとんどが男性であるため、そもそも女性との出会いが少ない。さらに出会ったところでものにできないとくれば、結婚率は伸びないだろう。

「混乱させて悪かった。とりあえず、我らはスレイヤーの結婚率を上げ、アラクフェスに提示しなければならない。そしてスレイヤー・クレンの気性を和らげ、より効率的なスレイヤー活動を実現するために、結婚という策は有効だと考えられる。だから君と彼を、と思ったんだ。多少強引なのは認めよう」

 年長のヨウシュウがまとめに入った。最初からリーヤにバトンを渡さずに、彼がかいつまんで説明すれば早かったのではないだろうか。

「それに、いまや君は市民から大きな支持を得ている。同じく人気の高いスレイヤー・クレンと一緒になれば、それだけでかなりのニュースになるだろう。敏腕スレイヤー同士のカップルは、これ以上ない……」

「宣伝になる、ですか?」

 ヨウシュウは一拍間を置いて頷いた。

「〝赤い木の実〟はこれから優れたスレイヤーを増やしていきたいと考えている。もちろん、女性スレイヤーもどんどん増やしていきたい。君たちが広告塔になれば、それもなし得ることができるだろう。……と、これが我々評議長の見解だ。君のプライベートに踏み込み、勝手を言っているようだが、組織の運営にはこういうこともある。納得はできないだろうが、せめて趣旨くらいは理解してほしい」

 セアは細かく二回、頷いた。納得はしていないし従うつもりも毛頭ないが、彼らの言いたいことはわかった。

組織を円滑に回すため、そういう点にまで気を回さねばならない彼らも大変だとは思う。ゆえに広告塔にしたいといったモノ扱いされること自体はそれほど苦にはならない。そういう組織に属しているのだ、と諦めがつく。

 ただ、結婚、というのは。たとえ薦められた相手がギルザやほかの同僚であっても、自分はやはり首を横に振るだろう。いまの自分には、誰かと家庭を作ることなど想像もできないのだ。

「このことは先生に……スレイヤー・クレンには話したんですか?」

「いや。彼には話していない」

「そうですか」

 話が終結に向かい、ここでどっと疲れが出てきた。毛布の温もりが恋しくて仕方ない。

 セアの怒り顔はすでに影をひそめ、いつも通りの無表情に戻っていた。感情の揺らぎがない顔で、一つため息を落とす。呆れか諦めか、はたまたただの疲労か……その吐息の意味は、セアにもわからなかった。

「私がどうこう、というより何よりも、スレイヤー・クレンが拒否すると思います。あの人は仕事以外のことを考えないですから」

「だから言ったろう、やってみなければわからない、って。仕事以外のことを考えないということは、少なくとも君のことは思考の範囲内にあるわけだよね? そこをうまいことつつけば、もしかしてもしかすると、ということもあるかもしれない」

 ああ言えばこう言うクトラ。もう駄目だ、反論に意味はない。そもそものところ、上には逆らえないのが新米スレイヤーだ。国に人権侵害を申し立てようにも、この三人ならばこともなげに握りつぶすだろう。

「……任務は遂行します。一つきりの部屋でも我慢します。ですが、その先は望まないでください」

 まっすぐ前を向き、評議長の誰とも視線を合わせず、セアは言い切った。その紅蓮の瞳は、記憶の中のクレンを見ている。

 彼との記憶を最初のページからさらってみても、ネガティブな色に塗りつぶされているようだった。その中でいくつかポジティブな色が輝いてはいるものの、闇夜の漁火よりも弱々しいものでしかない。

「私は……スレイヤー・クレンを愛していません。あちらも同じだと思います。私たちは、魔龍を倒すために引き合わされた師弟でしかない。特殊な感情なんて……けして生まれ得ないんです」

 断言する。三人の評議長は何も言わなかった。

そのまま五秒ほど沈黙を堪能したあと、セアは「失礼します」と頭を下げた。

「疲れているのに呼び出して悪かったね。今後も期待しているよ、スレイヤー・セア」

 クトラの言には視線で返事をした。そしてそのまま踵を返す。

 その夜、セアはいつもの倍、毛布にくるまっていた。


     ***


「死にたい」とは何度も思うし時には意図せず言葉にしてしまうが、今日の「死にたい」は、普段よりさらに緊迫した「死にたい」だった。生命保険の約款をいま一度確認しておこう、と思うくらいには現実的な「死にたい」だった。

 あの任務が通達されてから、訓練量がいつも通りを通り越してさらに増えたのが大きいだろうか。慣れない対魔龍用ライフルの扱いを一も二もなく叩き込まれたからだろうか。初めて二人きりで任務に臨むからだろうか。単純に、行き先が遠いからだろうか。

 どれも確かにセアの大きな負担には違いない。そのすべてに対して、セアは辛抱を重ねて耐えてきた。しかし、ああ、しかし。

 任務先に到着したその日、案内されたホテルの部屋を見てセアは頭痛を覚えた。

(しにたい……)

 ベッドの上で膝を抱え、セアはぼんやりと思った。いまここに、自分が愛するひよこのぬいぐるみはない。使い慣れた毛布もない。しかしそれはほかの任務でも体験している。ストレスは解消できないが、耐えられないほどではない。

(せめてツイン……そこまでするか、上は)

 ベッドは大きかった。二人寝ても余裕があるくらいには大きかった。でも一つしかなかった。

 このふかふかでけれど少し古いベッドが、セアには悪意の塊に見えた。

「何をしている?」

 びくりと肩を震わせる。反射で「はい!」と答える。

 目をやれば、シャワーを浴びたばかりのクレンが髪を拭きながらこちらに歩いてきていた。わずかに上気した肌が男の色気を感じさせる。クレンのファンに見せたらさぞや喜ぶだろう。二人きりという状況を解消できるなら彼女らを何人ここに呼んでもいい。むしろ代わってもらってもいいくらいだ。

「あ、その、明日のイメージトレーニングを……」

 実際は何もしていなかったのだが、勝手に口が言い訳を並べる。こういった行動はもはや反射のそれと言っていい。

「殊勝だな」

 クレンはそのままベッドを通り過ぎ、窓辺の椅子に腰を下ろす。濡れた髪の彼は普段とはまた違う印象だが、態度はなんら変わりない。彼が制服を着てさえいれば、ここが本部の会議室であれば、自分だっていつもと同じように振る舞えるだろうに。

(しにたい……)

 じとっ、と睨むようにクレンを目で追う。

 拭えない緊張が、確かにあった。

 自分の記憶が正しければ、男性と二人で一つの部屋に寝るというのは経験がない。一つのベッドを共有するというのは間違いなくない。何を想像するでもなく、ただ緊張するのである。

「しかしいまの君ではイメージトレーニングしてもあまり効果はないだろう」

「は……あ、え」

「経験を積んで記憶からイメージを得るならともかく。まともにマーキング任務に就いたことさえないのに、どんなイメージが描けるというんだ」

 クレンはぽいと資料を放り投げた。今回標的とする魔龍の情報が詰まっている封筒だ。

「いま君がする最善のことはその資料を頭に叩き込むことだ」

 確かに、頭で考えようとするとどうしても余計な方向にそれてしまう。ただでさえ自分にイメージトレーニングできるだけの経験はないのに、いまは悩みの種もいくつもあるのだ。それならば目から得られる情報を記憶するよう努めたほうが、まだ賢明だろう。

 渡された資料を大人しく手に取る。今回の標的となる魔龍の写真が、鮮明なものからそうでないものまで、何枚も添付されていた。

 今回、クレンとセアが相手とするのは「地這」の魔龍だ。

 本来ならば背から生え、飛行を可能とするための一対の翼。それが第五、第六の足として機能しているのが特徴で、飛行能力がない代わりに恐ろしい速さで地上を移動する。魔龍の中でも個体数の少ないほうで、アラクフェスでは滅多に遭遇しない。調査によると、気温が低い地域での出現率が高いらしい。

 派遣されたのは、アラクフェス第二の都市であり〝赤い木の実〟総本山であるアルビアスから、さらにずっと北上したところにあるサキアという田舎町。高速鉄道もここまでは伸びておらず、途中から普通の鉄道に乗り換えねばならない。車を使おうとすると、山をいくつか越える必要がある。

 アルビアスに比べると、サキアは気温が少し低い。だからこそ地這の魔龍が流れ着いたのかもしれない。先遣隊の報告では、営巣の様子はないが人里を襲う可能性があり、そうなれば甚大な被害が予想される、とのことだった。

「私も地這の魔龍との交戦数はそれほど多くはない。いつも以上に、自分の身は自分で守れるよう努めろ」

「は、はい」

 クレンは何度か地這の魔龍に接触しており、討伐したこともあるようだが、その経験数は普通に飛行する魔龍とは雲泥の差がある。もちろん、セアには接触経験すらない。

「……」

 対象が地這の魔龍であることを再度考慮する。討伐や意図的な戦闘行為を含まないマーキング任務ではあるが、それにしても二人というのはかなり酷な部類の待遇に感じられた。せめてほかに支援要員を何人かつけるべきではないだろうか。

「あの。ひとつ……よろしいでしょうか」

「なんだ」

「先生は、この任務の待遇に……地這の魔龍を相手とするのに、これくらいの準備しかないのか、と……その不満というか、そういう、こう……ネガティブな感情は持ち合わせてはいないのでしょうか……?」

 おずおずと、言葉を濁しながら尋ねる。

 優秀なスレイヤーの扱いは難しい。あらゆる状況に対応できる優秀なスレイヤーであれば、劣悪な環境下や支援が行き届かない場であっても投入することができる。しかし支援が不十分であったがために万が一のことが起きてしまっては取り返しがつかない。その折り合いを見つけ、スレイヤー一人一人の実力を見極めて任地に派遣するのは、想像よりも難しいことであろう。

 とはいえ一スレイヤーの目線で言えば、組織の支援も満足でない場所にぽいと送り込まれるのはいい気がしない。悪く言えば、ぞんざいに扱われている気がする。いくら「あなたの実力を見込んでのことです」と説明されても、信頼を飾った甘えと傲慢ではないか、と考えてしまう。

「……妙な質問だな。しかもわかりづらい」

 微妙に間を取ってからクレンは答えた。

「あ、す、すみませ――」

「不満はない」

 セアの言にかぶせるようにして、クレンはそう言い切った。

「この程度の待遇ならまだましなほうだ」

「そう、なんですか」

「地這の魔龍が相手、というのは、確かに少し身構える。人員もけして多くはない。だがそれだけだ。物資にさほどの不足はないし、日程に無理もない。そもそもスレイヤーは、常に万全の態勢で戦いに臨めるわけではないからな」

 ばさばさと髪をタオルで拭きながら、クレンは静かに言った。

 そういえば聞いたことがある。クレンは一人で魔物がひしめく砂漠に放り出されたことがあると。物資も仲間もない状況だったにもかかわらず、彼は無事に生還した。それを考えれば、人里にホテルを用意してもらえるのは待遇がよい部類に入るのかもしれない。

(弱い者ほどよく吠える……ってことか)

 自分の器の小ささを思い知らされたような気がして、セアは視線を下げた。

「君は不満なのか? この任務の組み立てが」

「い、いえ。そんな……」

「確かに見習いに行かせるべき任務ではないな、今回は」

 はっとして顔を上げる。クレンは髪もあらかた乾かし終えていたところだった。

「見習いにはできるだけ万全な準備・支援をもって任務に向かわせるべきだ。分不相応に仕事をあてがったところで、リスク以上のベネフィットは得られない。それは当人にとっても周囲の者にとっても不幸なことだろう」

 ――驚いた。

 彼も彼なりに、新人教育の理念を持ち合わせていたのか。それも、いたって常識的な。

「本部ももう少し頭を使えばいいものを。先の魔龍襲来から、あいつらは何を学んだのか」

「あ……」

 アラクフェス首都の魔龍襲来。あれには多くの新人スレイヤーが「分不相応に」投入された。実際、あの動乱での負傷者は多かったし、セアも一歩間違えば死ぬところだった。将来的に貴重な戦力になるだろう人材が、不用意に危険に晒されたのだ。

 無論、必要に迫られて、のことではある。今回の任務にしても、組織が様々な問題を折衝して組み立てたのだろう。しかし様々なリスクを考慮してみれば、けして賢明な措置とは言えない。

(意外……先生もそういうこと、考えたりするんだ……)

 育つべき新人のリスク回避。そういうところを、クレンだって無視しているわけではなかった。ギルザが言っていたように、普段の厳しい指導も、もしかしたら彼なりの優しさだったのだろうか。

「セアは臆病なくせに無鉄砲で不用意に突っ走るからこういう任務に充てるべきではないと、なぜわからないのだろうな」

「は……あ、はい?」

 期せずして組み上げられていた幻想、『クレンにも優しいところはあるのかもしれない』という考えにヒビが入る。セアは無の表情のままで停止した。

「地這はただでさえ気が抜けない。それなのに隣には君という、これまた何をしでかすかわからない奴がいる。どちらにも気をつけるというのは難儀なことだ」

 地這の魔龍を引き合いに出され、けなされた。よりによって魔龍と同列に厄介な奴認定されてしまった。

 クレンは立ち上がり、椅子の背にタオルをかけた。そのままセアの眼前へと移動する。

「いいか。余計なことはしなくていい。打ち合わせ通りのことだけ確実にこなせ。未熟者が背伸びをしても迷惑なだけだ」

 セアは慌てて正座に切り替え、強く二度ほど頷いた。

「は、はい……!」

「よろしい」

 結局はいつも通りのクレンだった。発言は厳しく、突きつけるのは事実だけ。優しい言葉で励ましたり不安を解いたりしようとしてくれるわけもない。

未熟者はおとなしくしてろ、と言うが、おとなしく粛々と人をまっとうしたところで、彼は褒めてはくれないだろう。今までと同じように、見つかる粗を指摘して、次の訓練に組み込むに違いない。余計なことをすれば怒られるのは確かだが、余計なことをしなくても「怒られないで済む」未来が待つだけで、安寧はないのだ。

ため息を飲み込む。ここには毛布やぬいぐるみがないだけではなく、一人でいられる場所さえないのである。任期の一週間は、文字通り涙を呑んで生きるしかない。

「ところで、セア」

「はい」

「君は私と寝ることに抵抗はないか」

「ぅえ」

 つぶれた蛙のような音。普段は鳴っても一度きりなのだが、今回のセアは一秒ほど間を置いて、また「ぅえ」と首をかしげた。

 表情の変化はあまりない。瞬きの回数がやたら多いことと、口がパクパクしていること以外は特におかしなこともない。

「……やはり、あるか?」

 朴訥とした口ぶりで、クレンもなぜか同じ方向に首をかしげる。ゆえに視線が真っ向から交錯する。

「や、はりも何も……だって、ほら、いろいろと、その……問題じゃ、ないですか……?」

 意味もなく手を握ったり開いたりしながら、クレンの動向を窺うように尋ね返す。そんなセアの脳裏には、過日評議長らと交わした会話がよみがえっていた。

――僕らは、君とクレンくんがくっつけばいいのになーと思ってて。

子供が「夏休みがずっと続くといいなーと思ってて」と言う程度の軽さで放たれた、けれどセアにはとてつもなく重い、彼らの願望。

――君たちのあいだに男女の何かが起きたとしても……。

その万が一が、まさかそんなことが、いまここで、起きるとでも?

この綺麗な生き物が――正確に言うならば、容姿に欠点はない代わりに人としてどうかと思うほど厳格でこの人の人生何が楽しいんだとある意味心配にならざるを得ないこの人間が――それでも男である、と証明するとでも?

「……ねる?」

「寝る」

セアの頭がエラーを起こす。情報を処理できない。そもそも情報入力さえままならない。無表情はお互い様だが、いまのクレンは通常モードの鉄仮面なので、何を考えているかわからないのだ。本当に下心があるのかあるいは単純にからかっているのかはたまた別に意図があるのか一向にわからない。

「私は……先生の、教え子でしか……ただの弟子でしか、ないんですが」

 逆側に首をかしげる。あくまで正面から目を合わせることにこだわるのか、クレンも一拍遅れて逆側に頭を倒した。傍から見れば非常に奇妙だし、見ようによっては仲がよいと取れるかもしれない。

「ああ。弟子だから大丈夫と思ったんだが」

「ぅえ」

 それはあれか。師弟という一つの上下関係を逆手にとって、拒否できないようにするとかいう悪質な手口か。恋など愛など知らぬ存ぜぬな雰囲気を醸し出しているくせに、そういうところは狙ってくるのか。

 行き場を失った両手が、自然と頬を覆った。手のひらにじんわりと熱を感じる。

「私は……あれ、私は……」

わからない。

あるいはこれがただの同僚であったなら。同期の人たちでも、先輩たちでも、単純なスレイヤー仲間が相手だったなら。セアはにべもなく「馬鹿を言わないで」と突っぱねることができた。鉄仮面の本領を発揮し、冷たい女になり切れただろう。

嫌ならそうと言えばいい。評議長らが何を言ったって、決定権はこちらにある。くだらない願望にわざわざつき合ってやる必要はない。わかっているのだ、そこまでは。しかし実際問題、拒否の言動が表に出てこない。

これはどういうことか。彼の言うことに逆らってはならないと、骨の髄までしみ込んでいるからだろうか。それとも、少なくとも拒否を展開しないくらいには、彼のことを受け入れているということだろうか。

「ああ、違うんです、ただ、私は……」

 たどたどしさに拍車がかかる。何を訂正するでもないのに「違う」と訴えてみるが、結局自分は何を伝えたいのだろう。自分で自分がわからない。

 ……わからない?

 そうだ、自分は本当にただ「わからない」だけなのかもしれない。好きだとか嫌いだとか、そういう次元の一歩まえで迷走して、わからなくなっているのかもしれない。

 ならばまずはそれを伝えなければ。

「わからない、ので……」

 本心を、いまどうにか表現できる本心を、言葉に編む。

「本当に、なにも知らなくて……はじめてなので、こういうの、わからなくて……なので……」

 クレンの服の裾をつかむ。せめて自分が「わからない」がゆえにこうなっていると、それだけでも気づいてほしかった。スレイヤー活動よりもずっと、こちらのほうは経験も知識も浅い。ほぼ皆無と言ってもいい。だから、どうか、気取ってほしいと。

「…………」

 クレンは二、三度、その鋭い瞳を瞬かせた。そして不意に視線をそらし、天井に向ける。数秒間、珍しく目を泳がせた彼は、唐突に「ああ」と声を上げた。

「?」

「ああ……」

 もう一度、今度は頷きながら。

「あ、あの……先生……?」

「そういうことか……さて、これは私に非があるな」

 珍しい、彼が自分の非を認めるとは。と、どうでもいいことを考える。

「いや、セア。深く考えなくていい。私は単純に、君とベッドを共有……と、これも誤解を招くか。ふむ、どうしたものか……」

 左手を顎に当てて考え込むクレン。この姿勢自体はそう珍しいものではない。クレンは物事を考えるとき、よくこうやって顎に手を当てる。その姿がまた様になっていて、事情を知らない女子からは盗撮されるほど人気があったりする。

「私は単純に、純粋な睡眠を取りたい。短期間で効率よく疲労を取るため、できればベッドで横になりたい。そして君にも十分な休息を与えたいから、君にもベッドに使わせたい。そうなると、二人で同時にベッドを使用することになる。その行為を、君が嫌がるかどうかを尋ねたんだが」

「は、あ……?」

「ふむ……つまり、だ。寝る、に多義的なところはない。断じて男女の情愛を要求するものではない。これで意味は取れるか?」

 具体的なワードを出され少したじろいだが、ここでようやくセアも彼の言いたいことが理解できた。

「あ……」

 同時に――勘違いしていた自分がどうしようもなく恥ずかしくなった。いや、誤解を招く発言をするクレンが一番悪くてその点は一つ謝罪も求めたいところだが、それでこの羞恥心は払拭されない。

「わ……わかり、ました。こちらこそ妙に勘ぐってしまって申し訳なく、思います……」

 卑屈も極まるとこうなるのだろう。謝罪を求めたいと思った矢先に、自分から謝ってしまっている。とりあえず謝っておこうという流れが確実にセアの中に根づいている証だった。

「そういうことなら、お構いなく……寝てもらって大丈夫、です。任務に支障をきたさないことが一番ですし……」

「……生理的に受け入れがたいというなら無理せずとも」

「大丈夫です! はいどうぞ、寝てください!」

 場所をあけ、ベッドの上をバシバシと叩く。恐怖より焦りより、羞恥によってセアは無表情の仮面を崩した。下唇を噛んで、悔しがるような、照れ隠しをするような、そんな表情でクレンの就寝を促す。

「君がいいというなら、私はそうするが」

 特に何を気にした風でもなく、クレンはベッドに膝をついた。マットレスが大きくへこみ、セアの体が傾く。

「明日は早い。もう寝るのが賢明だろう。君はどうする」

「私も、寝ます。予習は、明日朝にでも、しっかりと」

「よろしい。ならば消灯を」

「はいっ」

 部屋の明かりを落とす。枕元にある古めかしいランプだけがぼうと光り、クレンの横顔を艶めかしく照らした。この写真を横流しすればいい値がつくだろう、とぽっと出の邪心が疼く。

 クレンは早々に枕に顔を沈め、ベッドの淵のほうで背を向けた。これでも多少はセアが女の子であることを意識しているのだろうか。

(添い寝権……オークションにかけたらいくらくらいするんだろうなあ)

 この綺麗な生き物と一つ布団の中に入れるのだ。人によってはひと月ぶんの給料やボーナスをはたくほどの価値があるだろう。そんな人たちのまえで「一緒に寝るのが苦痛でした」と言おうものなら、闇討ちされてもおかしくない。

(でもほんと……私には毒なんです。あなたと、一緒にいるのが)

 己を律し、睡眠を含めたスケジュールをしっかり管理しているその姿。どんなときでもスレイヤーとしての心構えを忘れない気高さ。言わずもがなのその美貌。すべてがセアの自尊心を下げていく。

 クレンの弟子、という肩書きは、セアに「クレンに追随する素質」を求めた。あらゆる面で、人々はセアの背後にクレンの影を見ている。セアの無表情とクレンの無表情を同列に並べて、似ていると評するのがその最たる例だろう。周囲は、セアが第二のクレンになることを暗に願っていた。

 それがわかるから、セアはつらかった。クレンの近くにいるからこそ、セアには自分とクレンがどうしようもなく遠い位置にいることを知っている。セアがクレンに及びようもないことを知っている。それなのに期待だけをかけられる。あなたはクレンに似ている、だからいつかはクレンのようになりなさい、と……そう、軽々しく。

 なれるわけないではないか。

 こんなに努力しても、駄目だ駄目だと言われる自分が、彼のようになれるわけないではないか。

 期待に応えたいとする自分と、そんなの無理だと嘆く自分、セアは相反する思いに挟ま

れて悩んでいた。


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