もう少し優しくしてほしい、ただそれだけ
ACT 1
別に死にたいわけではないが、何がなんでも生きたいわけでもない。
そういうわずかな逡巡を経て、少女は眼前で光球を炸裂させることを選んだ。
自らが作成した爆弾だ。それが目のまえで爆発すればどうなるかなんて、考えるまでもない。いや、そもそも考える余裕なんて初めからなかった。あと数秒後には、得体のしれない化け物――魔龍が攻撃を仕掛けてくる。
奴をのさばらせるわけにはいかなかった。
右手の動きに従って宙に浮く光の球。魔龍が飛んできたところで炸裂させる。
不意に、自分がこの球を作れるようになったとき、すなわち命術が使えるようになった時のことを思い出す。誰でも使えるものではない命術、その素質が自分にあることが、素直に嬉しかった。しかし力が爆発関連に限定していたのは、少し残念だった。
もう少し利便性のある命術が使えたら、もう少し楽しく便利な人生が過ごせたのかもしれない。少なくとも、知り合いが持っていた「火を出せる命術」のほうが便利だった。あの子は蠟燭に火がつけられるが、自分は爆散させてしまうから。
と、そんな詮無きことを思う間に、魔龍がこちらに突っ込んできた。
大きな体だ。自分なんて簡単に潰されてしまうだろう。
しかし恐怖はまるで感じない。未来がほとんど死に塗りつぶされていてもなお、怖くない。死に恐怖を覚えることなかれ――そういう教育の賜物だった。
まえに伸ばした右腕、その先で静止する光球。その光が接近する魔龍を照らした瞬間、右手を手前に引き、その掌を光球に晒した。指が掌に触れ、空を包み込む。
わかり切っていた未来が到来する。光球は多大なエネルギーを周囲に振りまいて瞬時に消滅した。その残滓は熱と風とに成り代わり、自分と魔龍とを激しく傷つける。
灼熱の痛み。自分の髪が、皮膚が焦げる臭いがする。
「つっ……」
予想外の痛みが額を襲った。どうやら爆風に飛ばされた煉瓦が当たったようだ。脈打つ痛みとともに、ぬるりとした何かが頬を濡らしていく。
思えばここは煉瓦塔の上。ここで爆弾を発動させれば、煉瓦も爆散し吹き飛んでくるのは当然だった。こんなことも予想できなかったのか、と師には間違いなく呆れられるだろう。全身を打つ煉瓦の痛みを感じながら自嘲する。
そしてそのまま、彩聖セアは大荒れの海へと落下した。焦げ臭さが一気に潮の匂いにとって代わられる。
嵐の海は思ったよりも気性が荒く、すぐにセアの身体を飲み込んだ。印象的な紅蓮の髪も、すぐに波間に消えてしまった。ただでさえ嵐で視界が悪いのだ、一度見失ったら終わりである。
終わってもいいな、と当のセアは思っていた。
未練はないな、と目を閉じようとしていた。
感覚が鈍くなった手足をばたつかせることもなく、藻屑となる運命を受け入れようとしていた。
だからこそ、その手をつかまれたことには驚いた。朦朧とする頭が、描いていた未来との齟齬を処理し切れない。
(せんせ……?)
霞む視界で、けれどはっきりと捉えた。そこにいたのは、自分の師。
波の勢いと彼の勢い、勝ったのは後者のほうだった。師はセアを腕に絡め、海面に顔を出した。それから驚異的な力強さで自分を岸へと連れて行く。この辺りでセアの視界は真っ黒になり、意識は遠のき始めていた。
「医療班はどこだっ!」
岸に上がるなり師が叫ぶ。耳はまだ稼働していた。
「セアっ。大丈夫か、セア!」
必死な師の声が響く。正負入り交じるなんとも言えない感情が胸の内に巻き起こったが、それを理解するほどの余裕はない。頭痛と吐き気をこらえるので精一杯だった。
ただ……そう。聞き間違いでなければ、師は先ほど「医療班はどこだ」と尋ねていた。そしておそらく、自分はそこに運搬されている途中なのだろう。ここの医療従事者は優秀だ、もしかしたら自分は助かるかもしれない。
死なずに済む。まだ生きられるかもしれない。
――困る。
助けられたら困る。すこぶる困る。死ぬより困る。
この状態で生き永らえるのは、ある意味で死ぬよりもずっと恐ろしい。死に恐怖を覚えなかったセアが、ここで生きることに恐怖を覚えた。
理由は自分を抱えている師匠にある。というかほとんどそれしかない。
見えてはいないが、こんな状況でも師は美しいのだろう。その横顔は凛々しく、豪雨さえも引き立て役にしているに違いない。彼はそういう人だ。その胸に抱かれる幻想を抱く女性は数知れず、実際にこんなふうに抱かれたら「きゃっ」と黄色い声を上げ、ぽっと恋に落ちる女性が続出するだろう。
だがセアの反応は違う。ある意味真逆と言ってもいい。
怒っている、彼は。間違いなく。
見なくてもわかる。こんなときでさえも師は美しい。だがその凛々しい顔の底には、苛立ちや怒りが潜んでいるに違いない。その矛先は自分だ。
(ああ……あとで……ぜったい、おこられる……)
生き残ったら師に必ず怒られる。その確信があった。そしてその激高の矛先に立つ恐怖は、魔龍の正面に立つことよりもずっと大きい。死が持つ潜在的かつ概念的な恐怖を簡単に凌駕してしまうほどに恐ろしいのだ。
どうか二度と目が覚めませんように……セアはそれを切に祈り、意識を失った。
***
ここアラクフェスは、海と山に挟まれた豊かな国である。様々な資源に恵まれ、これからの発展が期待されている。
しかし自然に恵まれることは必ずしもよいことばかりでない。海や森からは絶えず魔物が流れてきて人里を襲う。アラクフェスは魔物の襲撃に常に悩まされてきた。
そこで設立されたのが〝赤い木の実〟という武装集団だった。魔狩組織と銘打って、アラクフェス周辺の危険な魔物を討伐する。狩りに特化した猛者・スレイヤーは、その後爆発的に増えることとなった。
しかし大した訓練も受けず、さしたる技量もないままスレイヤーを名乗り、そうして逆に魔物に狩られてしまうスレイヤーも続出した。それを受け〝赤い木の実〟はスレイヤー養成所を開設する。そこで正規の訓練を受け試験をパスした者のみが、スレイヤーと認められるようになった。
養成所の教官は名うてのスレイヤーが兼ねているため、英雄たちに憧れてスレイヤーを志望する者も多い。だが志望者は多くても合格者が少ないのが現状だった。今期スレイヤーに採用されたのはわずか十二名しかいない。
その十二名の中の一人に彩聖セアがいる。女性としては実に七年ぶりの採用であり、それだけでセアには注目が集まっていた。
セアは紅蓮の髪と瞳の持ち主で、見た目だけでも目立つ少女だった。喜怒哀楽の沸点が低く、あらゆる時と場で無感動の無表情を決め込む、強くてクールな女傑――そう評されることが多かった。
「……」
ベッドの上で半身を起こし、セアはひたすらぼんやりとしていた。頬にはパッドが貼られ、額には包帯が巻かれた痛々しい姿であるが、顔色はそう悪くはない。
(生き残ってしまった……)
包帯の撒かれた手に目を落とす。右手のほうが特にじんじんと痛むのは、火傷のせいだろうか。
どうしても思い出してしまう。爆発の瞬間を、その後の熱さを。そして連想するままに師のことも頭に浮かぶ。あのとき聞いた師の声が無意識に再生され、思わず右手に力を込めた。痛みを覚えてから、自らの愚行に気づく。
と、乾いたノックの音がした。セアは弾かれたように「はい」と返す。
「――やあ、セア」
片手を上げて入ってきたのは、チョコレート色の髪をした精悍な男性。
「ギルザさん」
「だいぶ顔色いいみたいだね。安心したよ」
霞裂ギルザは〝赤い木の実〟の中でも特に人気のあるスレイヤーである。戦士としての技量もさることながら、その人望が人気の理由だった。渋く落ち着いた佇まいもまた魅力の一つである。
彼はセアの師の先輩に当たる。それゆえか養成所時代から可愛がってもらっていて、セア自身も父親のように慕っていた。
「念のためもう少し入院するように、だそうだよ。あとでもう少し詳しい精密検査をするそうだ。ああ、これはお見舞い。いろいろあるから、あとで食べなさい」
ケーキの箱を置くギルザは、にこにこと穏やかな顔をしていた。セアに大事なかったことを喜んでいるのだろう。それがなんとなくわかるから、胸が痛い。
今回のことで、セアは自らの丈夫さを嫌というほど思い知らされた。目のまえで爆発を起こしたのに、目立つ怪我は火傷と打撲、それに煉瓦の破片で切った傷がいくつか。脳にも内臓にもこれといった損傷はなく、命に別条はないということだった。
確かに爆発の命術師として、爆発の衝撃にはそれなりの耐性はあるだろう。それにしてもここまでくると逆に少しへこむ。自分は一体どういう体をしているのだろうか。
「だが本当に無事でよかったよ。君が意識不明で医療班に運ばれた、と聞いたときには正直肝が冷えた」
「……すみませんでした」
「うん。君はまだ新人なんだし無理はしなくていい。ああいう無茶は今後控えてほしいな。君に死なれるのは組織として大きな損失だが、それ以上に私が悲しいからね」
セアはもう一度「すみません」と謝った。変わらずの無表情ではあったが、ほんの少し眉が下がっていた。
昨日の夕方、アラクフェス首都・シェレティスのリダル漁港に、突として魔龍が押し寄せた。その数は実に十二頭で、記録に残る大襲撃だった。現場は大きく混乱し、たまたま新人研修会が行われていたこともあって、新人スレイヤーまでもが投入された。
とはいえセアたち新人に命じられた任務は一般市民の避難の援助だった。避難所に誘導したり、屋内に取り残された人を探したりというもので、魔龍と直接戦うものではない。まだ採用されて三か月ほどのひよっこが大型の魔龍とまともに戦えるわけがないと、誰もが思っていた。
セアは避難誘導連絡役を任されており、煉瓦塔の上から避難できていない者や危険な状況にある者を見つけ、それを仲間のスレイヤーに連絡し派遣する仕事をしていた。実際に避難誘導に当たっている仲間よりも、魔龍に襲われるリスクは少ない役割だった。
女だからと配慮されたのか、あるいは女だからと甘く見られたのか。いずれにしても余計なお世話であるし、セアにとっては侮辱に取れた。無論セアには講義する権限などなく、ただ従うしかなかったのだけれど。
「まあ、それにしてもセアはよくやってくれたよ。君がいなかったら、保育所は破壊され多くの子供らが犠牲になっただろう」
「あ、みんな無事だったんですか? カイウは大丈夫でした?」
「避難の際の混乱で何人か軽傷を負ったらしいが、あの現場では重傷者も死者も出なかった。カイウくんも大事ない」
「そうなんですか……よかったです」
幼児が多く、避難がうまく進まなかった海辺の保育所。そこに応援を派遣しようと思っていたとき、屋根に魔龍が降り立った。そこの避難誘導に当たっていた同期の革入カイウでは歯が立たないが、ほかのスレイヤーの到着までは時間がかかる。このままではカイウはもちろん、子供たちも殺される――。
そう思ったとき、セアは対魔龍ライフルを構えていた。
撃ったとき、魔龍がこちらにきたらどうなるか、自分はどう戦えばいいのか、などという考えはまるでなかった。とにかく子供たちと仲間を助けたいと思った。
「採用三か月で魔龍を撃退、それもたった一人で……というケースはほかにないからね。上は君を表彰するみたいだよ」
「え、そんな。そこまで大それたことは……」
「今日の朝刊にはすでに君の名が載っていた。新人の、それも女性スレイヤーの体を張った活躍に、多くの人々が感銘を受けたようだよ。ここで君を讃えなかったら、〝赤い木の実〟に批判が殺到するさ」
「でも……私なんてまだまだひよこなんですよ。表彰なんて値しません。むしろその……煉瓦塔を破壊したことの賠償などは」
「賠償? ははっ、そんなこと考える必要はないよ。君は謙虚というか心配症というか、本当に面白いな」
至極真面目な話をしたつもりだったが、ギルザは面白いと言って笑う。彼の笑顔を見るのは好きだから別に構わない。だが釣られて笑うほど、セアの表情筋に可動性はなかった。
そもそも目立つことが苦手なセア。その無表情で淡白なコミュニケーションは時に相手に不快感を与えるため、人のまえに立つことは努めて避けていた。せめて笑顔くらいは作れるようになろうと努力もしてみたが、その甲斐はまるで見られない。
「どうやら上は、君を積極的に表に出していきたいみたいだ。七年ぶりの女性スレイヤーというのは大きな話題になったし、それに加えてこの一件だからね。セアは見た目にも可愛いから〝赤い木の実〟の広告塔にさせられるかもしれない」
「え、え……あ、困ります。私は何も……ギルザさんのほうがすごいのに」
「はは、こんな中年じゃあ様にならないさ」
絶対にそんなことはない、と訴えるように首を振る。本当にギルザの人気はすごいのだ。老若男女、みな彼を信じ慕っている。それは揺るぎようがない。セアと同じ年代の女子にもファンは多く、ギルザと結婚したいなどとほざく者もいるくらいだ。
同じように人気が高いスレイヤーには、セアの師も含まれる。だが彼はセア以上に広告になり得ないような性格をしているため、望みは薄い。
ふと師のことを想起してしまい、セアはぶるっと肩を震わせた。そんな様子を見てギルザは「ああ」と思い出したように声を上げた。
「そういえばクレン、君のことすごく心配していたよ」
「ぅえ」
「……ふ、なんだいその声は?」
「あ、いえ、だってその……」
硬い表情のまま、声だけが困惑に侵され始める。
――天斬クレン。
セアの師でありギルザの後輩。〝赤い木の実〟の優れたスレイヤーを語る際、間違いなく名が上がる人物だ。
典雅な容姿に加え、魔狩において圧倒的な実力を誇る、恵まれ過ぎた男。世の男は僻みながらも憧れ、世の女は畏れながらも想いを寄せる。彼を見ると「世の中の不平等さ」を痛いほど思い知らされる、というのは組織内で有名な話である。
彼にはセア以外の弟子も部下もいない。養成所時代に最後まで指導したのはセアだけで、いまも面倒を見ているのもセアだけなのだ。
麗しの青年が、たった一人の少女を傍らに置いている――そう言うと巷で流行の少女向け小説のようだが、展開はそんな夢と希望に満ちた甘いものにはならない。
クレンはセアにとって、恐怖そのものだった。
「心配してるかどうかはともかく……怒ってます、よね?」
「君にとっては酷だろうが、お説教を回避するのは無理だと思うな」
セアの顔がみるみる蒼白になる。無表情の仮面は瓦解し、口が半開きのまま固まった。
「喜怒哀楽の沸点が低い」「無感動」「クール」「強い」――そういった周囲の評判は真実ではない。セアの心は普通に感情的に動くし、無感動だったり冷淡だったりするわけでもない。その精神はどちらかといえば脆いほうで、気弱で傷つきやすい少女だった。
誤解の原因はわかっている。変化のない表情と、硬い言動のせいだ。
「ああ……やっぱり、そうですよね。そうなりますよね……」
「こらこら、そんな顔するものじゃないよ」
常人からすれば、いまの顔も一分まえの顔も同じ鉄仮面に見えるだろう。しかしギルザは、セアのわずかな表情の変化を、こめかみをつたう冷汗を見逃さない人だった。
本当は弱いのに強いと誤解されること。それはセアを大いに苦しめた。周囲はセアの心が頑強であると思い込み、打てば打つほど強くなると思い込み、容赦なくガンガン叩いてくる。セアの心がひび割れてぼろぼろ崩れていっても、誰も気づいてはくれない。なぜなら、つらそうな顔をしていないから。
つらいのに上手く表現できず、苦しいのにわかってもらえず、そして結局我慢してしまう。ギルザという理解者が現れるまで、セアの心の拠りどころはお気に入りの毛布とひよこのぬいぐるみだけだった。
「誰よりも早く君の元に駆けつけ、自らの危険も顧みずに助け出したのはクレンだ。君のことをとても大切にしている証じゃないか」
「……あの、お言葉ですが、実感ないです」
しょんぼりして言い返す。
「だってそれなら……なんであんなに厳しくするんですか。私にだけ、いつも。絶対嫌われてますよう」
「そんなことないよ。私も厳し過ぎると思うときはあるが、それもまたクレンの優しさだろう。君を厳しく指導し、優れた技能を身につけさせることは、君の身の安全につながるからね。唯一の弟子、唯一の部下として、セアを大切に思わないわけがないよ」
養成所時代、クレンの元には定員いっぱいの百人の訓練生が集った。それなのに、半年を経過したときには誰もいなくなっていた。クレンの指導は至極苛烈だったのである。
言ってしまうと、セアも早々に音を上げた者の一人だった。
しかしクレンに「辞めたい」と言う勇気が持てないままずるずると時が過ぎ、気づいたときには周りの九十九人がいなくなっていた。最後の一人という肩書は、セアをクレンの元に縛りつけるに十分な圧力を持っており、さらには〝赤い木の実〟本部からも「多額の奨学金を受け取っておいて『辞めたい』などと、寝言でも言わないよね」という圧力もかけられた。気弱なセアが逃れられるわけがない。
上司と部下の関係になったいまも、周囲からの圧力には苦しめられている。麗しき師弟愛と言われたり、チーム鉄仮面と言われたり。クレンの話題にはセアの名が顔を出し、セアの話をするときにはクレンの名が挙げられる。そういう相互関係を周囲が面白おかしく定型化するから、なおのことセアは逃げられなくなっていた。
「もしそれが本当なら……もう少し優しくしてほしいです。ギルザさんみたいに」
セアの監督者はクレンであり、治療の際の手続きなどは本来彼が担う。しかし今日のように任務があって手が回せないときは、ギルザが代わりを務めてくれた。ギルザがいろいろ優しくしてくれるからこそ、いざクレンが戻ってきたときの落差が大きい。
大き過ぎて、想像するだけで瞳が潤むくらいだ。
「ふむ……まあな。あれはあれで、セアに甘えているのかもしれない。確かにもう少し優しさを見せるというか、君に対する配慮は必要だろうな」
「それ、直接先生に言ってあげてください……」
「はは、まえにも君に余裕を与えたらどうか、と言ってはみたんだがね。効くかはわからないが、また言ってみようか。ほら、そんな顔しないで」
ギルザに愚痴や弱音を吐くのは、セアの欠かせないガス抜きだった。彼がいなければ、セアは毎晩毛布に丸まって泣き暮れるしかない。
ただ彼はクレンの先輩でもあるため、基本的にセアとクレンの仲を取り持つ立場にある。どんなにセアがクレンを忌避しても、「あいつにもいいところがあるよ」とその関係を修復しようとするのである。しかしそれは対処療法的であり、セアとクレンの関係はまだまだ円満から程遠かった。
「……さて、そろそろ行くとするか。会議があるんだ」
「すみません、お忙しいところありがとうございました」
「いやなに」
目尻にしわを寄せ、ギルザは微笑んだ。そしてまるで本当の父親のように、頭をそっと撫でてくれた。大きな手は父のイメージと重なる一方、理想のスレイヤーのそれとも一致する。セアは彼の手も大好きだった。
「君は十分頑張っているよ。私はそれを理解しているし……きっと、クレンだってそれくらいはわかっている」
セアは二度、頷いた。泣いてしまいそうなのをぐっと堪える。
「クレンの元で活動していると、どうしても厳しいなと思ったり、つらいなと感じたりすることは多いと思う。それでも、彼が君を大切に思っているということは忘れないでほしい。それでもどうしようもなくなって苦しいときは、遠慮せずに私のところに愚痴を吐きにおいで。お茶とお菓子を用意して待っているから」
そう言って目を細められたとき、彼と結婚したいと騒ぐ女の子たちの気持ちがわかったような気がした。
***
スレイヤー養成所に入った候補生には、指導教官を選ぶ権利があった。受入上限を超過した場合は抽選になるが、まずは候補生本人の意思が尊重される仕組みだった。
とはいえ教官はみな名うてのスレイヤー。当時のセアには、これといった強い希望はなかった。
最終的にクレンを選んだのは、それを勧められたからだ。クレンは命術師としても超一流で、技術もセンスもずば抜けている。〝赤い木の実〟としても、今後は命術が使えるスレイヤーの登用を増やす方針だから、ここで命術の力をつけておくと試験に有利――と。
思えばあれが一つの転機だったのだろう。あそこでギルザを選んでおけば、鬱々スレイヤーライフなど送らずに済んだかもしれないのに。
退院して数日が過ぎ、傷の疼きもかなり収まったころ。魔龍討伐に出ていたクレンが戻ってくると聞き、セアは〝赤い木の実〟本部第二号館、通称・スレイヤー塔のまえで待っていた。
〝赤い木の実〟は軍ではないため、その構成も特殊かつ自由なものである。養成所を卒業したスレイヤーは、活動歴七年以上のスレイヤーを監督者として、最低二年間ともに活動する。訓練も任務もその小さなチーム単位で行うため、今回のように監督者たるクレンがいないとセアは何もできない。とはいえ実際何もしないでいると、怒られるのは目に見えている。
(かなり怒ってるんだろうなあ……何言われるんだろうなあ……)
塔のエントランスまえの階段に腰掛け、セアはぼんやりと考える。
(……鳥はいいなあ)
放し飼いにしている鳥が頭上を飛んで行った。〝赤い木の実〟開発部・動物担当の研究者から譲渡された、悪く言えば研究レポートを取るよう言われた鳥だ。なんでも巨大な鳥の魔物、通称・化物鳥に近い鳥であるらしく知能がかなり高いらしい。
(でも鳥の世界にも上下関係とかあるのかなあ……あるんだろうなあ)
化物鳥に近いとはいえ、その見た目はほぼほぼ鷹である。そもそも化物鳥自体が異常に巨大な鷹のようなものだから、差がないのは当然とも言えるが。
鳥を見てもレポートのことを思い出してまったく癒されない。セアはため息をついた。
(どの世界に行ってもつらいことは変わらないのかもなあ……)
思案するセアの顔は普段と同じ無表情だが、若干眉がひそめられていた。
海に落ちて気を失った自分を助けてくれたのはクレンだ。そのことは心から感謝しているし、迷惑をかけて本当に申し訳ないとも思っている。今回ばかりは厳しく叱責されても仕方がない。
だが彼の激高を直接浴びることは、セアの精神的な死につながる。セアは彼に怒られることが――それによって評価を下げられることが――世界で起こる何よりも恐いのだ。
(一応やれるだけのことはしたけど……成功するかなあ。……駄目かもなあ)
手に持った封筒をかさっと揺らし、ため息をついた。
思えばクレンもタフな人である。魔龍襲来の翌日から遠方での討伐任務に就き、それもしっかり完遂してきたとのことだ。正直、同じ人間とは思えない。だが彼が任務に出ていてくれたおかげで、いろいろ対策を練ることができた。
と、視線の先の煉瓦道に、ぽつぽつと人影が見えてきた。夕陽を背中に歩いてくる彼らの顔はよく見えない。しかしそれが遠征団で、あの中にクレンがいることはわかった。
立ち上がって服装を正す。彼は身なりにも厳しいのだ。
「あれ、セアちゃんじゃん」
「あ……任務、お疲れさまです」
先頭を歩いてきたのは、セアよりも四期か五期先輩のスレイヤーたちだった。顔見知り程度だが、彼らもまた遠征に参加していたらしい。
「ありがと。てかここで何してんの?」
「おい聞くなって。わかってることだろ?」
「なーるほど。あ、愛しの先生は後ろのほうにいるよ」
すれ違いざまに蹴りでも入れてやりたい衝動が胸に湧く。それを抑え、セアは「わかりました」とだけ答えた。
セアとクレンはそういう仲だ――というのは、スレイヤーの中でまことしやかに語られる噂だった。今回の一件はその噂にさらに拍車をかけてしまったようである。戯言だと踏んでつぶすような気概はセアにはないし、クレンはクレンで噂話に関心を寄せるだけ無駄だと無視している。そう、結局は無視しかないのだ。
「……」
いま一度姿勢を正す。先輩らに乱された心を鎮める。頭の中でもう一度、声かけの辺りをシミュレートする。……よし、できるだけのことはした、
遠征団の最後方にクレンを見つけた。
夕日の中でなんとも言えない色に染まる青碧の髪が、とにかく印象的だった。足取りはしっかりしていて、疲れを微塵も感じさせない。
こうやって見ると、やはりかなりの美丈夫である。遠くから見ても近くから見ても、三百六十度どこから見ても美形だ。女の子たちが騒ぐのも無理はないだろう。できるなら熨斗をつけて彼女らに送りつけてあげたいところである。なんならご祝儀を同封してやってもいい。
「……っ」
不意にクレンがこちらに顔を向け、目が合った。もうあとには引けない。セアは一歩を踏み出した。
「先生! 任務、お疲れさまです! ご無事で何よりです」
折り目正しく礼をする。上のほうから「ああ」と声が降ってきた。出会い頭にいきなり説教、というのは回避できたらしい。
このまま先手を取ろう。後手後手に回ると勝機がない。怒られるまえに謝り、反省し、改善を見せる――これが大事なのだ。
「あの……先日は、すみませんでした!」
一度顔を上げて目を見てから、再び深々と頭を下げる。
「分不相応に……実力を弁えない行動を取ってしまいました。そのせいで先生にまで大きな迷惑をかけてしまい……本当に申し訳ありません!」
クレンは何も言わない。その無言がどうしようもなく恐怖心を煽る。
「これからはもっと鍛錬に励み、もうあんなことがないよう努めます。不出来な教え子ですが、どうかこれからもご指導のほどよろしくお願いします」
顔を上げる。高い地点から見下ろされて体がすくむ。けれどもここまできたら気力で押し込むしかない。セアは手に持っていた封筒を彼に向けた。茶色の封筒にはかなりの厚みがあった。
「自分なりに、今回の報告書をまとめました。どこが問題だったのか、どうしたらよかったのか、できる限り分析してみました。どうか、一度目を通してください。本当に……本当にすみませんでした!」
セアの戦いを嘲笑うように、後ろからヒューヒュー野次が飛んできた。彼らにはこれがラブレターにでも見えるのだろうか。百枚を超える報告書の束で、彼らの頬をひっぱたいてやりたい。
クレンはここでも何も言わなかった。ただじっとセアの目を見つめている。見透かされるようなこの視線がセアは苦手だった。できることなら逃げ出したいが、足も完全にすくんでしまっている。蛇に睨まれた蛙とは、こういうことを言うのだろう。
焦らしに焦らされ、ようやくクレンは報告書を受け取ってくれた。しかしこれで終わりではない。突っぱねられる可能性はまだ大いにあるし、そうでなくとも駄目出しの雨が降ってくるかもしれない。まだ予断は許さない状態なのである。
その場でクレンは封筒を開け、中の報告書にぱらぱらと目を通した。そのあいだ、セアはまるで生きた心地がしなかった。最初の「ああ」以外、彼は何も言ってくれないのだ。
冷や汗が頬をすべる。口の中は乾ききっているし、暑いのか寒いのかもわからない。このままだと怒られるより早く衰弱死してしまう。
「……多少は成長しているのか」
「あ……」
「粗だらけだが、自主的に提出したというその心意気は認めよう」
第一関門を突破する。セアは上ずった声で「ありがとうございます!」と頭を下げた。普段から滅多に褒められないため、こんな言葉でさえもちょっぴり嬉しいのだ。単純な奴だという自覚はある。
「こい」
クレンは顎をくいっとやった。
「はい……?」
「いまだと演習場はすいているだろう」
「えっと……それは……」
嫌な予感がした。
「これから、訓練を……?」
「ほかに何をする」
当然、というようにクレンは歩き出す。彼自身はしゃんとしているが、装備は少しくたびれ、なんとなく埃っぽかった。
「え、でも……先生、ずっと任務続きで……そろそろお休みになったほうが」
「君に心配される謂れはない」
にべもなく言われ、セアは返す言葉を失った。
「それとも何か。先ほどもっと訓練に励むと言っていたのは、ただのでまかせだったのか」
「い……いや、そんな! わかりました、装備は?」
「対魔龍用のコルセット一式でいい。まず命術の扱いを鍛える」
「はい、行ってきます……!」
第二関門は失敗と言える。謝り倒して反省に反省を重ねて、追加訓練を免除してもらうつもりだった。謝罪や反省のときにはもっと言葉を選ぶ必要があるのだろう。
任務帰りで多少は疲れているだろうクレンを待ち伏せし、先手を取って詫びを重ね、怒られないようにする……この作戦で学ぶことはあったが、結果は失敗だ。結局追加訓練に持ち込まれたし、そこできっと怒られるだろう。怒られないため、が最終目標だったのだから、これでは駄目なのだ。
駆け足で装備を整えに行く。クレンはこのまま演習場に向かうだろうから、急いで準備しなければならない。足の付け根がまだ痛いとか、右手の火傷がじんじんするとか、そういうことは言っていられなかった。
***
命術とは長く「化外の術」とされてきた。使える者は魔物と同類とされ、各地で迫害も目立ったという。
しかし今日ではむしろ命術は迎合される傾向にあり、それぞれの術のタイプに合った場所で能力を生かす者が多い。ただし爆発の命術を生かす場所なんて、こういった戦闘員か工事現場くらいしかないのが現実だった。爆薬代わりになるよりかはマシかと、セアはスレイヤーになることを志したのである。
……だがこんなにつらいのなら、爆薬になっていたほうが楽だったのかもしれない。
「っ……!」
二十メートル先から飛来する氷塊を一つひとつ爆弾で砕く――これが今回の訓練だった。
「反応が鈍っているぞ!」
「は……はいっ!」
この訓練で大きく求められることは三つ。飛来する氷塊にしっかり標準を合わせること、爆発の威力を氷塊一つ砕けるだけに限定すること、氷塊の数だけ爆弾を生成すること。しかしセアは、そのすべてにおいてまだまだ実力不足だった。
氷はオレンジ大からバスケットボール大まで様々。飛来する速度も数も方向も様々。そういった多数の不確定要素に的確に反応し、各々にふさわしい爆弾を生成する――言葉にするのは容易いが、実際行うのは至難の技だった。
「左側が甘い! 視野を広く持て!」
檄が飛ぶ。セアは唇を噛んで必死に応えようとした。
「く……っ」
捉えきれなかった氷塊が二つ、セアに迫る。慌てて爆弾を生成し起爆したが、両方とも同じ威力にしてしまったため、片方を粉砕し切れなかった。拳大の氷がいくつも散らばり、そのうち何個かがセアの体に当たる。鈍い痛みだが、それに気を回す余裕はない。そうしているあいだにも、次々と氷塊は飛来してくる。
しかし一度体勢を崩したらもう駄目だった。すべての歯車が狂いだし、標準も威力も、生成する光球の個数さえ制御できなくなる。無駄に大きな爆弾を作って自分まで炙ったり、破壊し切れなかった氷の飛礫が体を打ったり、もうてんやわんやだった。
そんなとき、正面から高速の氷塊が飛んできた。高速とはいえ軌跡は視界のど真ん中、捉えることはできた。しかしまるで対処することができない。どこにどれくらいの爆弾を生成すればいいのか……考えているうちに氷塊が鼻先に迫る。
「あ……っ」
予想される痛みに目を閉じる――が、衝撃は襲ってこなかった。
その代わりに顔面に冷水をかけられた。飛来する氷が解けて水になったのだ。
――また駄目だった。
当座の目標は被弾するまえに五十の氷塊を粉砕すること。しかし何度挑戦しても、四十個かそこらで被弾してしまう。三十の壁を超えると精度は落ち、氷を細かく砕くことさえできていない。
クレンが冷たい表情でこちらに歩み寄ってくる。今日は五回挑戦して五回とも駄目だった。演習場の開放時間的にも、もう次はないだろう。クレンは総評を述べにきたのだ。
「落第だな」
冷水よりも冷たい声でそう評された。
クレンは氷の命術師。氷塊の雨は彼がもたらしたものである。
彼ほど性格と素質が一致している者は見たことがなく、彼ほど命術に熟達している者にもまた出会ったことはない。あれほど絶え間なく氷を生成し操作しておきながら、彼は息一つ切らしていなかった。
「君は焦ると周りが見えなくなる。それが失敗の大きな原因だ。なぜ近くより遠くを狙った? 速いものではなく遅いものを狙った? どちらが先に着弾するか、そんな簡単な分析さえできないのか」
「すみません……」
「あいかわらず視野は狭く、反応も鈍い。その上すぐに焦り、冷静さを欠く。褒められるとことは一点もない。まるで成長が見られない。君は毎日何をしている」
「……はい。すみません」
批評は懇々と続いた。セアは粛々とそれを受け入れる。汗と混ざってぬるくなった水が頬をすべり、顎先から滴っていく。
「――分析の甘さと持久力の乏しさから追い詰められてしまうのは、この際目をつぶろう。問題はそのときの対策だ。あのように破壊対象が多いときは、同時生成をするのが最善だが……それはできるのか?」
「あ、はい……じゃない、いえ、まだ。十個ほど作ることは可能ですが、そうなると細かいコントロールができず……生成速度もそんなに早いわけでは」
「ならば明日はその訓練をしよう。いまの遅さでは話にならない」
たぶん彼にとっては新人の誰もが話にならないのだろうな……と頭の片隅で思いながら、「はい」と短く応じる。今期採用の十二人のうち命術師は四人だが、その中で自分は一番命術の扱いに慣れていると言われているのだ。
だが確かに、クレンとの実力差は雲泥である。どんな面においても、彼には勝るところはない。
勝とうとしなくていい、とギルザには言われたことがある。クレンは戦士として天賦の才の持ち主だし、セアより十歳年上なぶん、より多くの鍛錬を積んできたと。十年後にようやく背中に触れられただろうか、と感じられればそれでいいのだと。
もっともな話だが、セアのひねくれた心では受け入れ難くもあった。ギルザもまた非常に優れた戦士であるから、できない者の悔しさが理解し切れていないのかもしれない。早く認めてほしいという思いの強さ、そして認められないときの哀しみを。
それでも、どうにか理解しようとしてくれるギルザに文句はなく、むしろ頭が下がる思いだ。対するクレンは、このことをもう少し考えるべきだと思うけれど。
「――今日はこれで以上だ。君から何か言いたいことは?」
「いえ、何も。……ご指導、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。ほんの少し、ふらついた。命術の使用には心身の疲弊を伴うのだ。近接武器を用いて走り回る訓練よりはましだが、どうにも肩が凝っていけない。
「セア。……傷は?」
「はい?」
踵を返そうとするセアに、不意に声が投げかけられた。
「身体の傷はもう大丈夫なのか」
心の中で「訊くのが遅い」と叫んだ。普通こういうのは訓練のまえに尋ね、回復の程度に合わせたメニューを組むものだろう。
とはいえそれでも、意外だった。
「あ、と。まだ頭は抜糸してないですけど、もう、大丈夫です」
「……右手は? 火傷や切り傷が多かったはずだが」
「こっちは……あ、こっちも、もう大丈夫です。少し曲げづらいですけど、はい。もうあんまり痛くないですし」
言ってから後悔する。もう少し重傷を装い、今日はやっとのことで訓練に臨んだのだ、ということにしておけばよかった。
クレンは値踏みするようにセアの頭からつま先までを見た。そして軽くため息をつく。
「自分の命術で軽くない怪我をするとは、本当に愚か者としか言いようがない」
「あ……す、すみません」
湖底を思わせる青灰色の瞳が細められる。呆れている表情だった。彼はセアと同類で表情の変化が少ないが、怒ったり呆れたりといった表情はよく作る。
だがいつもの呆れ顔と違い、そこには非難の色が少ないような気がした。呆れられることが多過ぎて、自分の感覚が鈍磨しているだけかもしれないが。
「完治まで近接戦訓練は控え、ほかの訓練も回数を抑えよう。君も、無理のないように」
セアの肩をぽんと叩き、彼は確かにそう言った。
「ぅえ」
「……なんだ、いまの返事は」
「あ、いやっ、いまのはちょっと……でもよろしいんですか? 私はよく先生に怒られるような……まだまだひよっこもひよこなのに、そんな……そんな甘くして」
言ってからまたも後悔する。今回は自分をぶん殴りたいほどだ。
奇妙極まりないことに、クレンが訓練を控えると、無理はしなくていいと言ってくれたのだ。それに乗じないどころか、甘いと言ってしまうとは馬鹿げている。そもそも甘くされるのではなく、ようやくほかのチームの訓練と同程度になるというだけなのに。
「確かに君はひよこだが。かといってここで厳しくやり過ぎて、あとで飛べなくなっては困る」
そう思うなら普段からもう少し優しくしてほしい――と心が叫ぶ。
「…………実はギルザ先輩から、もう少し君に余裕を与えたらどうか、と言われたんだ。まったく……あの人は君に甘い」
この人の認識はそうなのか。素面で言われた言葉に空恐ろしさを感じた。
「しかしセア。先輩の優しさに甘え過ぎるなよ。あの人だって忙しい身、あまり負担はかけたくない。何かあったら私のところにきなさい、指導は私がする」
あなたに言えないことを相談しているのです――とは言えない。セアは二拍ほど間を置いてから引きつった顔で「わかりました」と頷いた。ギルザには近いうちに礼を言わねばならない。
何せこのクレンが、疲れ知らずの鉄仮面が、ひたすら厳しい鬼教官が、訓練を控えてくれるのだ。血が冷たい男とさえ言われる彼が、「無理のないように」という、気遣いとも取れる言葉を使ったのだ。今日は綺麗な夕焼けだったが、明日は雨になるだろう。
「先生のお心遣いに感謝いたします。無理はしないよう、頑張ります」
「よろしい。では明日、またここで」
「はい。ありがとうございました」
クレンの背中を見送る。今日もいつもと同じように厳しく指導され、一つとして褒められはしなかったのに、なぜかいつもよりかは心が軽い。怒られたこともそう引きずっていない。最後に、ほんのわずかでも、気遣いのようなものを見せられたからか。そんな微々たるものに惑わされるほど、自分は単純なのか。
(……期待し過ぎは禁物。裏切られたときが怖いから。普段より一割減、それで満足、くらいに考えておくのが得策……うん)
ギルザを甘いと評すような人だ。「控える」がどの程度なのか知れたものではない。過度の期待はやめようと自分に言い聞かせながら、セアも演習場を後にする。
その夜は、ひよこのぬいぐるみが涙に濡れなかった。
つまるところ、セアは至極単純な人間だった。




