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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

僕の話

作者: 彼岸
掲載日:2022/03/12

 僕は何者でもない。平凡などこにでもいる社会人である。


 会社の上司に飲まされてふらふらしながらの帰り道、すったんこけてゴミの山へ突っ込んだ。


 痛いし、臭い。


 立ち上がろうとするも身体に力が入らない。どうにか仰向けになり空を見上げる。


 世界が回っている、いや、回っているのは僕の視界か? まあ、どちらでもいい。どっちだろうが変わらない。


 通り過ぎる人が僕を見て笑う。


 クスクス、クスクス。鼻につく笑い方だ。しかし文句は言わない。僕は心の広い人間なのだ。……嘘、単に勇気がないだけだ。


 声を上げる勇気が、自分自身を他人に晒す勇気が僕にはない。


 もうこのまま眠ってしまおうかとまぶたを閉じる。夜風が気持ちよく僕を包み込んでくれる。


 思考が薄れる。心地よい感覚に誘われるまま意識を手放そうとしたとき、突然、僕は自身の顔に刺すような冷たさを感じた。


 驚いた僕が目を開けると、そこには美しい女がいた。


 月の光を吸い込むような夜の髪に、星が瞬く瞳。口元には魅惑的な笑みが広がっている。


——想えばこのときすでに、僕は女の虜だった。


 僕を襲った物の正体はすぐに分かった。


 女の手にはペットボトルが握られていた。中身が半分ない。僕に振りかけたのだろう。


 僕は黙っていた。人と話すのは得意じゃない。ましてこのときは酒で頭が回らなかった。頭が回らないのは酒のせいだけではなかったが。


 僕がなにも言えないでいると女が口を開いた。


「こんばんは」


 脳みそを溶かすような甘ったるい声が耳を支配する。


「こ、こんばんは?」


 どもった。自分に泣けてくる。僕は挨拶もまともに返せないのか。


「こんなところで、一体何をしているの?」


 女は僕をつつきながら訪ねた。


「え、あ、その、……う」


 僕は泣いた。比喩ではない。目からしょっぱい水をあふれさせた。


 情けない。


 僕はどうしてだか、この女に自分の情けないところを見られるのがどうにも嫌だった。その想いからさらに目から涙がこぼれる。


 女は不思議そうに小首をかしげると、僕の目元に指をあて涙をすくう。そのまま自身の唇に指を持って行く。……え?


「……しょっぱい」


 女はつまらなそうにそうつぶやくと、僕の口に持っていたペットボトルをねじ込み去って行く。引き留めようとするが言葉が出てこない。


 僕はその後ろ姿から目を離すことができなかった。


■■


 次の日から僕は、仕事終わりから早朝まで女と出会った場所をうろうろとさまよっていた。


 女を忘れられなかったからではない。ペットボトルのお礼をするためだ。


 自身にそう言い聞かせながらこの習慣を続けること一ヶ月。ついに女と再会した。


 女は真夜中の町をハイヒールを響かせながら歩く。夜の主役は自分だと感じさせるような堂々としたものだった。


 僕は女の前に立つ。緊張で足が震えた。


 女は不審そうに僕を見る。それはそうだろう、一ヶ月前のあの会話ともいえない出来事を覚えているわけがない。


 女はすぐに興味なさげに、つまらなそうに僕から視線を外す。


 僕は女の、僕が思い描いていた女らしい行動に満足感を覚える。これだよこれ! と僕の中の僕が沸き立つ。


 一ヶ月前のことを伝え、お礼がしたいからとかなんとか、とにかく僕はしゃべりまくり女の連絡先を手に入れた。


 自分でも驚くほどの行動力だった。一体自分のどこにこんな衝動があったのかと不思議に思う。


 女は最後までつまらなそうだった。


■■


 僕は女をデートに誘いまくった。連絡は十回につき一回返事が来れば良い方だった。


 それでも良かった。朝も、昼も、夜も、いつどんなときでも女は美しかった。


 デートにかかるお金は全て僕が支払った。当然だ。女の時間をもらっているのだ、むしろこれだけで良いのかと心配になってくる。


 僕は自身の不安を払拭するために女にプレゼントを渡し始めた。


 女は黙って受け取った。


■■


 上司から最近よく働いていると褒められた。同僚からもよく話しかけられるようになった。


 僕の顔はでれでれと崩壊しているだろう。


 女のおかげだ。女と出会ってから良いことばかりだ。女は僕の女神だったのだろう。僕は本気でそう思った。


■■


 しばらくすると、女と連絡がつきにくくなった。完全に途絶えたわけではない。


 女は急がしいのだろう。僕のように職場で振り回されているのか。人間らしいところがあるじゃないか。


 思考がぐるぐる回る。考えなくて良いことまで考えてしまいそうになる。


 気分転換に外に出ることにした。もしかしたら女に会えるかもしれないし。


 足は自然と女と初めて出会った場所へ向かう。女はいない。


 周辺をぶらぶらと歩いていたが、女は来ない。


 足を商店街へと向ける。女へのプレゼントでも買いに行こう。最近会えなかった分、お金は貯まっているのだ。


 商店街へ赴いた。なんとなく恋人が多いような気がする。気のせいかもしれない。


 ぼんやりと眺めていると、夜の髪が目に飛び込んでくる。


——あれは、あの髪は!


 僕は想わず駆け出す。迷惑そうに避ける周りには申し訳ないが止まれなかった。


 間違いない、女がいた。


 偶然会えるなんて! やはり僕たちは運命だったのだ。


 僕は顔いっぱいに満面の笑みを浮かべて女に駆け寄る。駆け寄ろうとした。


 女の隣には男がいた。僕では足下にも及ばないであろうイケメンだった。


 瞬間、僕の胸には怒りと痛みが襲う。


 女に詰め寄りたかった。しかし僕は、女と関係は持っていてもいまだ恋人関係ではない。そんな僕がなにを言えるのか。言う資格があるのか。


 そして僕には、この大衆の中で修羅場に興じるほどの勇気はなかった。じっと二人を見つめる以外に、僕がとれる選択肢はなかった。


 胸が痛い。それは締め付けられているようでもあり小さな棘で刺されているようでもある、形容しがたい痛みだった。


 女は男に微笑む。


 あの日、あの夜、僕に、僕だけに向けられた魅惑的な笑みだった。


■■


 いつの間にか家にいた。どうやって帰ってきたのかは覚えていない。


 女へのプレゼントを買い忘れた罪悪感を押し殺しながら、女へと何度も何度も電話をかける。なんでも良いから声が聞きたかった。安心したかった。


 女は出ない。


 結局その日一日中待っていたが、女から連絡が来ることはなかった。


 女と連絡がついたのは、あれから数日後だった。


 それまでは、ひたすらに女への連絡を続けていた。僕は連絡先以外に女のことをなにも知らない。そのことを痛感させられる数日だった。


 女の第一声は、「なあに」だった。


 脳みそを溶かすような甘ったるいその声を聞いた僕は、全身から力が抜けた。


 舌を一生懸命回しながら会話をした。僕の情けない姿が伝わっていないだろうか。不安になりながらも、どうにか会う約束を取り付けることができた。


 僕はいそいそと女へのプレゼントを用意しながらその日を待つ。


■■


 僕は女がしゃべり出すのを遮るようにして話し出す。商店街で見たこと、僕がどう思ったか、そして、僕がどれだけ女を愛しているのか。


 女はつまらなそうに話を聞く。手を口元に当てた。自然と手に視線がいく。女の手首には高級そうなブレスレットが輝いていた。僕があげたものではない。


 僕の怒りは噴火した。


 女からブレスレットを取り上げると床に叩きつける。


 女をなじる言葉が止まらない。女はしばらく興味なさげに地面をじっと見つめていたが、ふいに顔を上げて僕を見る。


 星が瞬く瞳に魅入られ僕は自然と黙り込む。すらすらと口から出ていた言葉がせき止められる。


 繊手が僕の顔に添えられる。美しい顔が迫り、唇に柔らかな感触を感じたとき、僕の思考ははじけて真っ白になる。


■■


 上司から休みを取るように言われる。同僚から顔色が悪い、無茶をしすぎだと心配される。


 なにも分かっていない。僕には休んでいる暇などないのだ。少しでも稼いで女の気に入るものをあげないと。


 そうでなければ、


 ……そうでなければ?


■■


 女へのプレゼントを買いに商店街へ出かけると、女を見つけた。


 女の美しさは僕を離さない、離れていてもすぐに分かる。


 女はまた男と連れたって歩いていた。あの日の男とは別の男だ。


 僕は黙って見送る。


 不意に女と目が合った。一秒にも満たない、しかし僕にとっては永遠にも感じられるその交わりは、女が視線を外したことで呆気なく終わる。


 女は何事もなかったかのように去って行く。


 唇に生暖かいものを感じた。指で拭うと血がついている。


 乾燥していたのだろうか? 女の唇を傷つけるわけにはいかない。家に帰ったらリップを塗らなければ。


 ふと、拭った手を見てみると手のひらに四つの爪痕があった。血がにじんでいる。


■■


 女と連絡が取れなくなった。もう半年になる。家の中は、女へのプレゼントがあふれかえっている。


 あの日みたいに、外を出歩けば女に会えるかもしれない。


 藁にもすがる思いで、痩せ細った身体に鞭を入れながら家を出る。


 ふらふら、ふらふらと町を練り歩く。外は暗い。真夜中だ、あの日と同じ。


 足は自然と女と初めて出会った場所へ向かう。女はいた。


 女だけではない。ゴミの山に突っ込むように倒れている酔っぱらいがいた。


 僕の心臓が早鐘を打つ。自然と足が速くなる。


 女は酔っぱらいへ持っていたペットボトルの水を半分ほどぶちまけると、酔っぱらいの顔をのぞき込むようにしゃがみ込む。


「やめ……」


 僕のかすれた声は届かない。目の前の景色がゆがむ。


 水をかぶった衝撃で酔っぱらいが目を開ける。遠くからでも良く分かる。今、酔っぱらいの目には、月の光を吸い込むような夜の髪に、星が瞬く瞳。そして、口元には魅惑的な笑みを浮かべた女が映っている。


「こんばんは」


 脳みそを溶かすような甘ったるい声が、美しい夜空の下で良く響く。


 そうして、僕の脳みそは壊れた。


 僕は女に飛びかかると、白くて細いその首を両手で締め上げた。


 酔っぱらいがなにやら邪魔をしてくるが関係ない。今の僕を止められるものはいないだろう。


 女は初め二回目に会ったときと同じ、不審そうな目を僕に向けた。


 僕はさらに力を込める。


 女はあと少しで呼吸が止まりそうになると、その顔に苦しげに、しかし、はっきりと笑顔を浮かべる。初めて会ったときのような、いや、それ以上に美しい笑みを。


 思わず女の首から手を離し、退く。


 酔っぱらいが何か怒鳴っているが聞こえない。僕の全ての神経は女へと向けられていた。


 女は首を何度かもんだ後、僕の方をはっきりと見て言う。


「いくじなし」


 目には失望が浮かんでいた。


■■


 失望された! 失望された! 失望された!


 焦りと絶望が僕の胸を襲う。


 転がるようにして家に入ると、そのまま家の中をぐるぐる歩き回る。


 どこを見渡しても、僕の家には女へのプレゼントがある。僕の家は女への愛で満たされている。


 もうとっくの昔から、僕の全ては女に支配されていた。


 キッチンから包丁を持ち出す。熱い涙が頬を流れるのを感じながら、首を切り裂いた。


 床に血だまりができる。


 女へのプレゼントが赤く染まるのを最期に見届けながら、僕の人生は終わりを迎える。


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