9.閑話 ちょっと前のルナとウィル
「ルナ」
クリストヴァルドの婚約者として王宮で教育を受けた帰り道。正面玄関を通り抜けようとしると、ウイリアムに声を掛けられた。
「ウィルがなんでこんなところにいるのよ!」
「そろそろルナが帰るころだろうから、偶然この辺りにいたし待っていたんだ。噂のパン屋にもそろそろ行ってみたかったし」
「あっそう」
ウイリアムと鉢合わせし、一緒に買い食いをすることになった。ローズの家紋が眩しい馬車で市場のど真ん中――子どもたちが駆け回る騒がしい噴水広場――に乗り付け、いつものパン屋に向かう。
ルナビアは美味しくって腰を抜かしても知らないわよと、自慢げな様子でずんずんと進んでいく。
市場には不釣り合いな美貌の令嬢に周囲がざわめく
……と思いきや、「あっ月の聖女様だ」「ひと月に3回見たら願い事が叶うっていう?」「今月あと1回見たら……」とかなんとか聞こえてくるだけで、すんなり受け入れられている様子だ。
「ルナ、ここにどれだけ来てるんだよ……」
「ウィル、何か言ったかしら?」
それでも注目を集めているに違いないが、視線を少しも気にせずパン屋に殴りこんでいく。
期間限定と書かれた棚にたどり着くと、うーんとしばらく吟味して、ピンク色の丸っこくて可愛らしいパン――確か春イチゴたっぷりもちもちクリームパン――を買い、上機嫌で店を出ると、噴水広場を目指してスタスタと歩いていく。
パン屋の常連客たちも、期間限定メニューの入れ替え時期になると颯爽と現れる明らかに高位の貴族令嬢にだんだんと順応していた。
「また聖女様が来てるね」
「儚い妖精のようなお方だわ」
「平民とも口を聞いてくださるし、平気で私たちと同じパンを口になさるらしいぞ」
「この前わしの腰痛は冷やすんじゃなくて温めろとおっしゃってな。温めてみたら随分よくなったわい」
「ああやって見えるところで美人さんがパンを食べてくれると宣伝になるねえ」
「この前転んで服を汚しちゃったときに、聖女様に汚れの落とし方を教えてもらったよ。おかげで母ちゃんに怒られるどころかありがたがられたや」
ウイリアムがルナビアにこそこそと耳打ちする。
「授ける知識が物知りおばあちゃん……ぐふっ」
ルナビアは静かに肘打ちを食らわせた。
「そんな風には断じて思われていません」
……と信じている。
前世の職場はアットホームで、よく言えば事務全般、悪く言えば何でもさせられていた。やれ制服を汚した、やれおじいちゃん社長が腰痛になったと、騒ぎが起こるたびに駆り出されていたのだ。
「昔誰かが大騒ぎしていたのと似たような内容だったから、見かねて助言しただけのことよ。それで変なイメージをつけられても困るわ」
よいしょと噴水のふちに腰かける。ウイリアムがさっとハンカチを広げて座る場所を作ってくれていた。気が利くじゃない。
「それよりこれよ! 今日しか食べにくる時間が取れなかったの。今回こそは買い逃すかと思ったわ」
「そんなにこの店のが美味いのか?」
「家で出てくるのとは違ったこの安っぽい味が懐か……癖になるのよ」
「そんなものか?」
ウイリアムが訝しげに自分の分のパンを見つめて食べようとしない。食べてみればなかなか美味しいのに。
じれったくなったルナビアは、自分のパンをひと口ちぎり、ひょいとウイリアムの口元に差し出した。
「はい、食べてごらんなさいよ。私の味覚が信用できなくて?」
公爵令嬢の味覚を舐めないでちょうだいと更に勧めると、ウイリアムはぐっと眉根を寄せた。
「ルナに自覚はないと思うが……そういうのはよくない」
「何よ、そんなに食べたくないの? ウィルが一緒に来たがったんでしょう?」
ここまで通い詰めたパン屋の味を、絶対に認めさせてやる。勇み立ってさらにぐいっとパンを近づける。
「二度と一緒に出かけないわよ」
「はあ、わかったわかった」
ウイリアムは降参とばかりに両手を上げ、口を開いた。ルナビアは勝利に喜びながら、パンをウイリアムの口に放り込む。
「どう? なかなか美味しいでしょう?」
絶対美味しいと言わせたい。そんな圧を込めて見つめると、ウイリアムの頬がじわりと今食べたパンみたいに染まっていった。その後大きなため息をついて、美味しかったと一言呟くと、今度はちょっと不機嫌そうに自分のパンを食べ始めた。
「ほうら、美味しいでしょう。なんでも食べてみなさいよ」
ウイリアムが不満げなのは何故だろう。食わず嫌いを指摘されたのが気に食わなかったのだろうか。
とにかく菓子パンを布教できたことに満足し、自分のパンをぱくりと頬張る。
「ルナ」
呼ばれて顔を上げると、ウイリアムが意を決したようにこちらを向き、パンをひと口差し出してくる。
はて、自分のパンがあるのだが?
なんだか緊張した面持ちのウイリアム……を見ていると、その肩越しに見える光景に気が付いた。
「割れてる」
「へ?」
ウイリアムが振り向いた背後には、1軒の雑貨屋が建っており、そのショーウィンドウの端には割れたガラスを塞ぐように板を打ち付けてある。そして可哀想なことに、その横に並ぶ仕立て屋の窓にも同じようにガラスが割られていた。
「昨日うちも割られちまってよう」
「忙しいって言うのに直す暇がないよ。来週のどこかで人を頼むとするよ」
「最近窓を割るいたずらが多いよねえ」
数名の店主がそうぼやいているのを聞きつけると、ルナビアはすっくと立ちあがり、真っすぐ仕立て屋の店主の方に向かっていった。月色の美少女がもっさりとしたおじさん連中に突っ込んでいく異様な様相に、周囲の客が唖然としている。
「直さないと、他の店のガラスも割れますよ」
「へ?」
「今すぐ皆さんが手を貸してガラスを直さないと、この辺のガラスは割りたい放題になりますよ」
「ど、どういうことだい?」
仕立て屋とは別の店主が大慌てで聞いてくる。
「割れ窓理論といいます。割れた窓を1つ放置しておくと、この辺りは窓を割っても咎められない場所だと思われて、他の窓もどんどん割られます。そのうち街全体の雰囲気が悪くなり、しまいにはもっと大きな犯罪が起こるという考え方です」
「さ、最近この手のいたずらが続いているのは」
「さっさと修繕しないから、格好の餌食になっているのではないでしょうか」
先ほどまで他人事のような顔をして適当に仕立屋を慰めていたおじさんが、ひえっと情けない声を漏らした。
「この街全体の治安に関わります。皆さんで協力すればすぐに直るのでは?」
「だ、大工を呼んできてやるよ」
血相を変えて一人が駆け出していくと、堰を切ったように周りも動き始め、先ほどから様子を窺っていた人々も一斉に動き始めた。
「ショーウィンドウの中身を一回出しちまうか!」
「うちもこの際だ、綺麗にしとくよ」
「手貸してくれ!適当に貼ってた板を剥がしちまいたいんだ!」
「さすが聖女様、ごもっともなお説教だあ」
「はるばる遠くの修道院にまで出向くようなお方らしいぞ」
「見かけと違わぬ清らかなお方だな!」
三々五々何か手伝おうと駆けまわる中、ルナビアはふうと息を吐き、隣に来ていたウイリアムに満足げな視線を向ける。
「パン屋に穴が空いたら嫌だものね」
「どこで覚えてくるんだそんな話」
「…………さあ? ソル兄様に聞いたのかしら?」
「まあ確かにソルが好きそうな話かもしれないな」
そう言うと、ほらご褒美だと微笑みながら、ルナビアの口にぽいっと先ほどのパンを放り込む。
「ふぐ……はあ、やっぱり美味しい」
一件落着した安堵で、ルナビアからへにょりと微笑みが漏れる。
帰りの馬車で、ウイリアムが何やらずっと悔しそうにしていたのだが、ルナビアが何度問い詰めても理由を教えてはもらえなかった。
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