第337話 天才たる所以
前回のあらすじ)カーミラは魔王の隙を作るために、魔王をディスった
魔王には真の仲間など誰一人いない。
そうやって魔王を煽り、挑発し、怒りを自分に向けさせる。
エリクが再び魔王の魔核を貫く隙を作るために。
だが、その代償は、当然ながらあまりにも大きかった。
「ごっ……」
カーミラは思わず血を吐いた。
視線を下に向けると、真っ黒い何かに胸を貫かれている。
魔王の全身から湯気のようなものが沸き立っており、その右手に闇を煮詰めたような真っ黒い剣が握られていた。
攻撃が来ることはわかっていた。
身構えてもいた。
しかし、あまりの威力と速度に防げなかった。
セーラの結界発動すら間に合わない神速の斬撃。
「もう何年になるか……かつて私を孤独だと罵った人間がいた。そこから私は大陸の争いを終わらせ、多くの仲間を作った。なのに、今になってまた同じ言葉を吐かれるとは……つくづく人間とは不思議な生き物だ」
魔王の声色は、奇妙に澄んでいる。
それはおそらく余裕というよりは、純粋な怒り。
「よ、かったでは、ないか。新しい、感情を、知れて……」
カーミラはかすれた声で答える。
代償は大きかったが、隙は作った。
この瞬間を、エリクは決して逃さないはずだ。
だが――
「カーミラっ、大丈夫かよっ」
「カーミラっ」
「カーミラさんっ!」
あろうことか、ダンゼルトとセーラの慌てた声に、エリクの叫び声が混じっている。
気配を消して、隙をついて、魔王を討たねばならないこの瞬間、棒立ちのエリクは、咆哮とともに剣を振り上げて、まるで剣の初心者のように魔王に向かって駆け出した。
「う、あ、ああああああああああっ!」
「エ、リク……」
どんな時でも飄々としている男。幼き日に親に捨てられ、それでも魔の山でたった一人魔獣を狩り続けた男。何事にも動じずに淡々と狩人に徹することができるのが、エリクの最大の強みだったはずだ。
仮に仲間が致命傷を負ったとしても、それは変わらない。
そう思っていたのに――
「ば、か、ものっ……」
こんなに動揺するエリクを初めて目にした。
「あぐぅっ……」
そして、そんな正面突破が通用するはずもなく、エリクも魔王にあっさりと腹を貫かれ、血だまりに崩れ落ちる。ぴくりとも動かなくなった勇者に声をかけようとしたが、もうカーミラ自身も言葉を発することができなかった。
声の代わりに、喉の奥から血が滝のように溢れ出し、身体中から力が抜けていく。
万事休す。
仰向けに倒れた瞳に映る灰色の空が、暗く沈んでいく。
ダンゼルトとセーラが自分とエリクの名を呼んでいるようだが、それも次第に遠くなり、やがて何も聞こえなくなった。
そして、世界は完全に閉ざされた。
魔王城の頂部では、嵐のような風が吹いて、枝葉を空高くへと舞い上げている。
大陸の覇者である大魔王ハデスは、どこか感慨深げにそれを見上げていた。
「なるほど……怒り……私は怒りを感じていたのか。魔法でもない、剣戟でもない、ただの言葉だけで相手を操る……やはり興味深いな」
魔王はそうつぶやいた後、血の海に倒れ伏したエリクを不思議そうに眺める。
「存外に楽しめたが、この小僧の最後の稚拙な攻撃はなんだったのだ。秘策があるのかと期待したが、ただの突撃……一体何がしたかった?」
「はっ、やっぱてめえは何もわかっちゃいねえな」
苦々しく舌打ちしたのはダンゼルトだ。
「大事な仲間が目の前でやられたんだ。エリクですら一瞬我を忘れちまったんだよ」
「ほう、私はこれまで仲間の死を悼むように試みてきたつもりだ。だが、我を忘れたことはない。一体それはどういう理屈だ?」
「はっ。ちなみに俺も今、我を忘れそうだぜ。この怒り、てめえに全部ぶつけてやる」
「いいだろう。敗北というものはお前達が教えてくれるのか?」
魔王が言い終わる前に、ダンゼルトは地を蹴った。
巨大なエネルギーが衝突し、破裂する。
「だああああっ!」
ダンゼルトは力の限り剣を振るう。嵐が巻き起こり、空間に無数の黒い亀裂が入った。
しかし、それでも。
それでも、魔王に刃は届かない。
「ごはっ」
ダンゼルトは、きりもみしながら空中を吹き飛んだ。五回大きく地面で跳ね、蹲ったまま苦しげに呻いている。
「ふむ……ぎりぎりで致命傷は避けたか。勘がいいな。だが、お前から得られるものはもうなさそうだ。次で終わりにしよう」
魔王はそう言った後、赤い瞳をセーラに向けた。
「女、お前はただ見ているだけか? 結界魔法はどうした」
「つ、使っています。でもっ……」
発動が、できない。
おそらくさっき魔王の闇魔法である巨大な黒い炎に結界を粉々に破壊されたイメージが、悪い形で頭に残ってしまっている。愛しの神と自分だけの空間を作るための聖域が、黒い魔力に浸食されたことで、結界の構築イメージが沸かなくなってしまった。
そのせいでカーミラを守れなかった。
エリクを救えなかった。
そして、ダンゼルトも掩護できなかった。
「なんで……神様」
眼の端に涙を浮かべ、弱弱しく空に声を投げると、魔王は軽く首をかしげて言った。
「神……? ああ、人間たちが崇める、架空の上位存在か」
「架空、ですって」
「違うのか? では、それを呼べ。相手をしてやる」
「……」
「なんだ、来ないのか? それならもう用はない」
魔王が右手の黒剣をセーラに向けて振り下ろす。
次の瞬間――
「馬鹿っ、ぼうっと突っ立ってんじゃねえっ」
起き上がったダンゼルトが体当たりをしてきて、セーラを跳ね飛ばす。
「ダンゼルトっ」
ごろごろと転がったセーラは、魔王の一撃を免れた。
が、代わりにその斬撃は、飛び出してきたダンゼルトの右腕を切り裂いた。
「ぐ、ああああっ」
ダンゼルトの右腕が宙をくるくると舞い、切り口から赤い血糊が噴き出す。
「ダ、ダンゼルト……ダンゼルトっ!」
切断された動脈から、噴水のように血が散華している。
出血をすぐに止めないと。
結界魔法。
破壊されるイメージ。神との聖域。
いや、今はどうでもいい。
とにかくダンゼルトの血を止める――
「《結界壁》」
セーラが右手をかざして叫ぶと、ダンゼルトの右腕の切断面に強固な結界がとりつき、出血をぴたりと止めた。
「おお、血が止まったぜ。助かった、セーラっ」
「つ、使えた……」
セーラは肩で息をしながら、額の汗を拭う。
「不本意ですが、あなたのおかげで、また結界魔法が使えるようになったようです」
「そうか。そりゃよかったぜ」
「でも、あなたやっぱり馬鹿ですね。あの時点で一番役に立たない私なんかを、なんで助けたんですか」
「カーミラとエリクを助けられなかったからな」
「……」
「俺ぁ、俺が最強の剣士になれりゃなんでもよかった。この旅に乗ったのも、それが理由だ。でも、今はちょっとちげえ。俺ぁ、お前らのことが気に入っちまったみてえだ。今は俺だけのためじゃねえ、パーティのために魔王を倒してぇ」
「……私も、最初は神様と一緒になれればなんでもよかったです。だけど、今はあなたと少し考えは似てます」
言葉を交わす二人を、魔王は表情を変えることなく眺め、ゆっくりと近づいてくる。
「まるで勝機があるかのような口ぶりだが、なにか策はあるのか」
「ねえよ。だが、あがけるだけあがくぜ。あいつらに顔向けできねえからな」
残った左腕で、ダンゼルトは魔王に飛び掛かった。
破裂音が鳴り響き、魔王城が揺れる。
セーラが結界魔法で隙をカバーしながら、ダンゼルトは空間ごと破壊するほどの一撃を放ち続ける。しかし、しばらくの討ち合いの後、魔王は浅く溜め息をついて言った。
「悪くない……だが、力任せが最後の策か」
ぐん、と更に魔王の魔力の出力が高まり、右手の剣がみるみるうちに巨大化していく。
その圧倒的な圧力を前に、勇者パーティの剣士と修道女の動きはまるで水の中に囚われたかのように鈍くなった。
「ぐっ……」
「あう……」
「終わりだ」
魔王は天にも届くような剣を振り上げた。
長い旅が、最悪の形で終わろうとしている。
しかし――
「……なんだ?」
魔王の動きが突然ぴたりと止まった。
怪訝な雰囲気を漂わせて、魔王はそのまま首を左右に向ける。
「……あいつ、どうしたんだ?」
「ダ、ダンゼルト、あれっ!」
困惑するダンゼルトの後ろで、セーラが魔王を指さして叫んだ。
魔王の周りに、なにか薄い影のようなものが、取りついている。
それが徐々に形を成し、ふいに見知った顔がそこに現れた。
「……カーミラっ⁉」
それは大陸最強の魔術師であり、ついさっき事切れたはずのパーティメンバーだった。
「な、なんで……あなた死んだはずっ」
「というか、どうして半透明なんだよっ」
困惑する二人に、ふわふわと浮遊する女は得意げに答える。
「ふはははっ、確かに死んだぞ。そして、たった今レイスとして蘇ったんじゃあっ!」
「うおおお、まじかよっ。すげえじゃねえか、カーミラ」
「え、え……?」
セーラは理解が追い付いていないようで、瞬きを繰り返した。
「くひひひひっ、これぞずっと研究しておった《不死人化》の魔法じゃ。わらわには知りたいこと、研究したいことが山ほどある。人間の寿命では時間が足りぬ。だから、意識を保ちながら不死人化できる魔法をずっと研究しておったんじゃああ」
「なん、だとっ……」
カーミラに取りつかれた魔王が、呻きながら初めて驚愕の声を漏らした。
死ぬ気で戦う、と人はよく口にする。その程度の気持ちでは魔王に傷一つつけることはできない。
死んでも戦う。その覚悟をもって、初めて敵の裏をかけた。
「まあ、元々は自身の好奇心のための研究じゃったがな。理論は完成したが、切り札としてはリスクが高すぎる。うまくいくかはさすがに賭けじゃったが、なんという天才、己の才能が怖いわ」
「ぐ……お、己の死すら、戦略にするか。人間、面白い……っ」
魔王の中に数千以上漂う命。そのどこに魔王自身の生命が潜んでいるのか、カーミラにはわからない。
だが、レイスは触れたものの命を奪うことができる。
それなら、魔王の魂に辿り着くまで、全てを奪いつくせばいい。
血だまりに倒れ伏したエリクを沈痛な顔で見つめた後、カーミラは魔王に取りついたまま高笑いを響かせた。
「さあ、わらわたちを死なせた代償はでかいぞ。代わりに貴様の命も差し出せ。大魔王ハデス」