第310話 勇者でも、聖騎士でもない
前回のあらすじ)かつてゼノスと関わったものたちが魔竜王の襲来にぎりぎり耐えていた
王宮。
貴族特区。
街区。
貧民街。
それぞれの場所で、それぞれの戦いが繰り広げられる中、その震源地は間違いなく、聖女の塔にあった。
「こ、来ないで……」
アルティミシアは後ずさりしながら、すぐ目の前の異形の怪物に言った。
見上げるほどの巨体で、闇と同化するような漆黒の鱗に全身を幾重にも覆われている。
アルティミシアがいる祭壇室から上は全て先ほどの《竜の息吹》で吹き飛んでおり、今はこの吹きさらしの祭壇が塔の頂きとなっている。祈祷の時間は自分より上の階には侍女はいなかったはずだ。皆が脱出できていることを祈りながらアルティミシアは腰を低くした。
全ての壁が吹き飛んでいるため、頂上部は吹きさらしとなっており、立っているだけで飛ばされそうになる。
薄桃色の髪を耳にかけて視線を周囲に向けると、王都中に散った黒い小型ドラゴンが大混乱を巻き起こしていた。
逃げ惑う人々。火の手があちこちから上がり、まさに地獄絵図というのに相応しい。
「あ、あなたは何っ。なんで【聖園】からっ」
自身を奮い立たせようと声を荒げると、魔物は血のような真っ赤な瞳をアルティミシアに向けた。
――我が名は魔竜王ガルハムート。礼を言うぞ、聖女。我の安寧のためにこの国を守り、我の傷を癒やし続けてくれてな。
魔竜王は愉悦に目を細めながら、建国からの全てが自身の復活のためにあったことを語る。
その言葉は大気を揺らし、王国中に鳴り響いていった。
「……そん、な」
アルティミシアは両目を見開き、かすれた声で言った。
腰が重く、足が動かない。それは強風と魔物から発される巨大な重圧だけが原因ではなかった。
絶望。
「じゃあ、王国は、私たちは、ただ魔竜を復活させるためだけに――」
――アッ、ア、ア、アァッ。
魔竜王が瞳を三日月の形にして笑った。
高笑いは耳障りな不協和音となって、燃え盛る王都へと響き渡る。
――与えた力、返してもらおう。
ガルハムートが、がぱぁと大口を開けた。歪に並んだ牙の隙間からとてつもない腐臭が漂う。
【最重症】の凶星。
強烈な自身の死のイメージ。
全ての予感がこの一点に繋がっていたことをアルティミシアは悟る。
聖女の力を発現した時から、ずっとこの牢獄のような塔で、国家の安寧を祈り続けてきた。それが全てこの崩壊に繋がっていたという事実が鉛のごとく身体を重くしている。ただ同じ日々を繰り返し、魔竜に食われるだけの灰色の人生。
なにより悲しいのは、振り返るほどの思い出すらないことだ。
「いや、違う……」
アルティミシアは小さく首を振った。
たった一つ、色鮮やかに思い出せる記憶がある。
王都の外れ。廃墟街の片隅で、家事に奮闘し、笑いながら食卓を囲んだ記憶。
暗闇の中で、きらきらと輝く、温かな思い出。
「楽しかったな……」
涙とともにそうつぶやいた瞬間、魔竜の牙が真上から勢い良く迫り、アルティミシアは思わず目を閉じた。
骨が砕ける音。身体を引き裂くような痛み。
想像していたそんな地獄は、なぜかすぐには訪れなかった。
「……」
一瞬の沈黙の後、アルティミシアは自分が誰かに抱きかかえられていることに気づく。
薄く瞼を開けると、黒髪の涼しげな瞳と目があった。
それはたった今思い出していた記憶の中の人物で――
「間に合ってよかったよ、アル」
「ゼノ、ス……?」
アルティミシアは信じられない顔で、口に手を当てる。
「え、嘘、夢っ? え、何がどうなってるのっ? 私、もう死んでるっ?」
「ちょ、ちょっと暴れるな。ちゃんと生きてるから安心しろ」
じたばたするアルティミシアを床に下ろしたゼノスを、魔竜王が睨みつけた。
――なんだ貴様は。どこから現れた。勇者か、聖騎士か?
「生憎だが、そんな大それたもんじゃないさ」
地上を遥か眼下に望む、聖女の塔の最上階。
囚われの姫を救いにきた男は、いつもと変わらない調子でこう答えた。
「俺はしがない闇ヒーラーだよ」